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「追い詰めて偉そうなこと言ってすまなかった……。確かに今日の藤咲の演奏は圧倒するほど凄かったよ。だからこそ、お前には世界中に沢山愛してくれる人がいるから俺ごときでこんな大事な日を台無しにしてほしくなかったんだよ…」 弱々しく震える頭にそっと呟く。藤咲は顔を上げては細い右手の指先を伸ばしてくると胸倉のシャツを力強く掴んで引き寄せてきた。 自ら詰め寄ったことはあっても藤咲から距離を詰めてくることがなかった。 あまりの突然の出来事に瞠目したが、すぐさま我に返り彼から距離を離そうとシャツに手を掛けた腕をつかみ返し引き剝がそうと試みる。しかし、藤咲の手は震えながらも大樹を捕らえて手放す素振りはなかった。 「僕は別に世界中の人に愛されたくてピアノやってるわけじゃない。それにあんたごときなんて言うな……」 泣き腫らした顔で鋭く睨んで必死で訴えてくる藤咲に今までにない真剣さが伝わり、引き剥がそうとした左手が自然と力を失くす。 「僕はあんたじゃないとダメなんだ……。一昨日あんたとピアノを弾いてから自然とピアノを前にするときの恐怖心がなくなって、あいつに襲われそうになった日のことを思い出すこともなかった。今日も演奏中にあんたのこと考えながら弾いたんだ…。そしたらあんたの弾き終わった後の笑顔とか抱きしめられた温もりだとか凄く、愛おしく思えて·····この曲を大切に弾こうと思えた。こんなに誰かを愛しいと思ったことがなくて、伝えたいのに、あんたはいなくなるから……どうしたらいいか分からなかったんだっ」 連弾をした時に藤咲も同じ気持ちだと知って嬉しかった。 それで完結しただけで充分で、欲望の塊を抱いた俺はそれ以上は望んじゃいけない。伸ばされた手を取ってしまえばもう、自分は藤咲から手を引くことが出来なくなる。そして彼を苦しめてしまうに違いなかった。 「それはきっと、藤咲には俺の兄貴がしたこととか恭子さんのこととかあったから、お前は寂しくて俺しかいないって思っているだけだ。俺の感情に左右されて我慢を強いる想いはお前のことを苦しめるから、お前はもっと俺よりも藤咲のこと理解して……」 「違うっ……なんでそうなるんだよっ…。寂しいからとか、あんたに見捨てられたくなくて我慢してるわけじゃない」 あくまで縋ってくる藤咲を優しくいなすが、藤咲はそんな大樹の言葉を遮り、胸元に頭を埋めてくると、掴んでいない方の拳で八当たるように肩口を叩いてきた。何度も等間隔の肩の衝撃に耐えながらも「なんで…なんであんたに伝わらないんだよ…」と藤咲が呟く。 「ぼ、僕は……僕はっ、あんたのことがっ…好きなんだよっっ…」 しばらくして肩口の痛みが止むと、藤咲が消え入りそうな声でそう零した。

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