215 / 292
大樹の所在
恋に溺れ翻弄されるなんて馬鹿らしいと思って軽蔑すらしていたが、まさか自分が当事者になる日が来るとは思わなかった。大舞台が行われたベルギーの地で箱の中身を蓋で押し込むように閉ざしていた心を解放させた。大樹に「好きだ」と言えた·····。
「好きだ」と言葉にした後の我に返って冷静になっては身震いを起こしそうになっていたのを大樹に抱きすくめられて、また彼の僕に対する想いの丈を知ることができた。
不安定ともいえる感情に自身も翻弄されながらも、大樹が傍にいることへの安心感のほうが大きい。会場を後にする前に舞台関係者に謝罪と挨拶をすませ、未だ開演中であったダニエルには連絡だけ入れて翌日、ベルギーを発つ前に家に寄ることにした。
会場を後にし、大樹についていくように、コンサートホール付近の大樹が宿泊しているホテルへと向かう。フロントで大樹が部屋変更の手続きをしている横で、放さないと言わんばかりに道中でも繋いでいた右手が暖かくて、尚弥の心を朗らかにする。以前のような強迫症状など忘れてしまえるほどだった。大樹だから…大樹の手だから心地がいい。
一昨日部屋で二人きりになった時は大樹から殺伐とした空気が漂っていて僕自身も気持ちが伝染したかのように煽って困らせるようなことをしていたが、
多少の気まずさを感じながらも息が詰まるような空気ではない。
それどころか部屋に入るなり「先にシャワー浴びてこいよ。身体流したいだろ?俺のせいなんだし…」と尚弥を気遣ってくれているようだった。
大樹の言葉に甘え、今日一日の疲れと微かに漂う自分の匂いを洗い流すように
颯爽とシャワーを浴びた。洋服は流石にワイシャツで寝るわけにはいかないので、ホテルに備え付けてあったタオル地のガウンを羽織る。
シャワーから上がった自身を見て大樹の視線が一瞬だけ泳いだ気がしたが、すぐさまシャワー室へ入っていった。
大樹が戻ってくるのを待つ間、縁に両足をぶら下げ、ダブルベッドに身体を沈めると疲労感が一気に押し寄せ、気づいたら意識を手放していた。
特に何かをされた痕跡もなく、朝起きたら大樹の腕の中で眠っていたことに、尚弥は忘れかけていた人の温もりにを思い出し、幸福感で満たされた気持ちになった。
幼き頃、大好きだった父親に寄り添って眠っていたみたいに·····。
それが、帰国する前の約一ヶ月程遡った話だ。
ともだちにシェアしよう!