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5月初旬を迎え、桃色を散りばめていた木々はすっかり青くなり初夏の兆しが見え始めた。藤咲尚弥は数ヶ月前に長山大樹の演奏を聴くためだけに訪れていた雑居ビルの前で立ち尽くしていた。自ら出向くなんてまるで大樹の連絡を心待ちにしていたみたいで、認めたくはなかったが彼に会うにはこの方法しか思いつかなかった。
日本へと共に帰国し、微かに自宅まで送ってもらえるのではないかと期待していた尚弥だったが、大樹は「俺は電車で帰るからお前はタクシー使って帰れ」と交通費だけ渡されただけで空港で現地解散になった。
大樹との別れに名残惜しさを覚えながらも、
ベルギーで大樹と共に過した時間は夢だったのではないかと思うほど、帰国した途端の大樹のよそよそしさに違和感を覚える。
しかし、必要以上に大樹のことばかり考えるなんてそれでこそ恋愛に毒された奴の典型的な行動に嫌悪感を抱いていた尚弥はあまり考えることはせず、兼ねてから依頼を受けていた作曲の仕事に意識を向けていた。
一人の人物に執着しすぎて私生活が疎かになるなんてそれこそ馬鹿らしい。
尚弥自身も自らの忙しさと性分も相まって大樹へ自ら連絡をすることなく、かと言って相手からも一切連絡がくることなくこの一ヶ月を過ごしてきた。
そんなタイミングで尚弥は都心の音大で講習会なるものに呼ばれていたこともあり、数日前から本人に連絡せずに大樹が毎週のようにヴァイオリンを弾いている店へと足を運ぶことに決めて今に至る。
出番が曜日制であった以前と変わらないのであれば、水曜日の今日は確実にいるはず。
微かに漏れ出すヴァイオリンの音色·····間違いない·····。
尚弥は久しぶりに会える大樹に期待を抱きながらもお店のある地下へと階段を降り、木製扉に手をかけた。
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