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都内某所の多数の音楽家が所属している事務所。到着した途端に桃瀬の携帯に着信が入り、先に小会議室で待っているに促された。桃瀬には確かもうひとり掛け持ちしている奏者がいたので常に忙しない。通話をしながら捌けていく後ろ姿を見届け、彼の電話口の返答からみて其方の方の仕事の内容の件に関してのような気がした。 尚弥は事務所ビル内のエレベーター前で無心で扉上の階数表示を見上げて待っていると、人影と共に隣から少し甘めの香水が香ってきた。嗅ぎ覚えのあるその匂いに、自分の左横に視線を移すと昨年末以来一度も顔を合わせていなかった|恭子《きょうこ》が立っていた。 変わらずのベージュ色のジャケットスーツにパンプス。 172cmの自分の身長よりも5センチ程低い筈だが、見ないうちに一回り小さくなったようにも思えた。 向こうは元々僕の存在に気づいて近づいてきたのか、ぎこちない笑みを浮かべながら会釈をしてきたが、尚弥は一瞥しただけですぐさま正面を向き直った。 まだこの女を許したわけじゃない。 今まで彼女と共に音楽の道を歩めていたのは、父親の過ちによる同じ被害者 だと思っていたからだ。だからお互いに理解し合えていたんだと思う。 なのに|恭子《この女》は、家族を壊した張本人を許し、関係を持った。 長山の兄、|宏明《ひろあき》とひと悶着あり、大樹によって窮地に立たされることはなくなったし、間接的にあの男が反省をみせたことで一段落ついたが、完全に和解をしたわけじゃない。あの女と父親があの男と関係を持ったなんて考えただけでも悪寒がしてくることには変わりなかった。 「尚弥·····久しぶりね。ちゃんとご飯は食べてる?」 「おかげさまで。あんたに心配してもらうような生活は送っていないので」 出来れば会話を一言も交わしたくないところではあるが、事務所内では例の一件のことは社長以外には伏せてある。マネージャーを降ろしたのも私情からではなく、ただの異動で彼女が新人ピアニストにつくことになったと、表面上ではなっているだけに下手に社内で無視して余計な噂を立たれるのは避けたかった。 火のないところに煙は立たないとよく言うが、尚弥も人気商売である以上は、週刊誌記者の餌になるような話題は要注意しなければならない。

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