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「無理はしなくていいんだぞ。お前がやっぱりダメだっていうなら引き返すから」 そんな尚弥の行動から心中を察してか、立ち止まって振り返ってくる。 心配の表情を見せながらも、彼の眼差しからは「兄から守るんだという」強い意志のようなものを感じた。 幼い日の少し頼りなくも、自分にとっては頼もしいお兄さんだった、大樹くんと呼んでいた時の姿と重なる。大樹だって忙しい中、自分に付き合ってくれているのだから迷惑はかけられない。このまま帰ってしまったら後悔するような気がした。あの頃、何もできなくて。ただ恐怖に耐える事しかできなくて、大樹に責任を背負わせてしまうほど無力だった僕と違う。 「大丈夫。だから、ここからは僕一人で行かせて。あんたが近くに居てくれてるって思えば平気だから」 呼吸を整え、姿勢を正すと、咄嗟に掴んだ裾を離し、前を見据える。 大樹が付き添い、宏明との仲介に入ってもらっても良かったが、それじゃあ結局彼に頼り切りになってしまって今までと変わらない。 これは宏明と僕と父親の問題だから、自らの力で蹴りをつけなきゃいけない。 「分かった。もし、何かあったら必ず連絡しろよ?車で待ってるから」 おまじないのように手を優しく握られ離されると、尚弥は静かに頷いては、 大樹に見守られながら建物の入り口へと向かった。 自然木で作られたような木製の引き戸に手を掛けて、中に入ると鈴が鳴る。流石、音に携わっているいるのか、木材で奏でる柔らかい音が訪問者を優しく出迎えてくれているようだった。静かな室内にゆっくりと足を踏み入れる。 「お邪魔します」と声を掛けたところで、人が此方へ向かってくる足音が聞こえてきて尚弥はピタリと足を止めると全身に緊張が走った。 ちゃんと心の準備はしていたとしても、いざ本人を目の前にして自分は平穏を保てるだろうか。取り乱してしまわないだろうか。 人の気配が現れるのを生唾を飲み込み、今かと待っていると、中から出てきたのは 初老の男。かつて尚弥のピアノの調子を診てくれていた|古林弦一《ふるばやしげんいち》だった。 「おお、これはこれは久しぶりの顔だ。尚弥くんじゃないか」 皺の寄せられた、気難しい表情が尚弥を見た途端に少しだけ和らぐ。 「ご無沙汰してます。その節はお世話になりました」 15歳の時から何年も専属調律師としてお世話になってきたというのに、律のコンサートの一見で縁を切ってしまった。

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