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尚弥は大舞台での演奏の度に他の調律師を雇ったが、今まで出会った中で少し気難しさはあるが技術者として完璧な人はこの人しかいない。 弦一さんは直接的に関係はなかったのに、我ながら無慈悲なことをしたと思う。 彼が事情を知っているかは分からないが、私情を挟んでしまうなんて成人を迎えている大人として有るまじき行為だった。 そんなことがあって弦一と顔を合わせるのは気疎く、尚弥は顔を強ばらせながらも深く低頭した。古参とはいえ、こんな身勝手な自分は弦一さんの方から願い下げだと思われても仕方ない。 「丁度良かった。ちょっと見ていきなさい」 宏明に会う前に門前払いだろうかと踏んでいたら弦一さんは、尚弥の用件を訊かずにそれだけを告げると、そそくさと中へと入っていく。 弦一さんの事務所に来るのは初めてじゃない。 尚弥が初めて全国でのコンクールで優勝したのを機に事務所から声がかかり、プロを志すことを決め、専属の調律師に頼むことになった。その時に恭子と一度だけ訪れたことがある。 今でこそ、気にすることはなくなったが、かつての人懐っこさが失われて環境の変化に過敏になっていたことから、多くは語らない弦一にすら恐れや警戒心を抱いていた。彼の背を追いかけて中に入ると部屋の中心部のグランドピアノを目にして立ち止まる。 契約のことは恭子任せで、弦一と恭子が専属契約の商談をしている傍らで 尚弥はこのピアノで遊んでいたことがあった。 すぐ傍らで商談中にも関わらず、思うがままにピアノを弾いては邪魔をしていたことにより母親に叱られた。当時、拗らせ、反抗期でもあった尚弥は母親の言葉など一切聞く耳を持たず演奏に夢中になり、一曲引き終えた弦一に「君は無表情な子かと思ってたけど、弾いてるときは活き活きとしてる。ピアノが心底好きなんだな」と言われたことを唐突に思い出した。 弦一に咳払いをされ我に返ると、彼は事務所を抜けた先で待っていた。 尚弥は慌てて軽く頭を下げると弦一の元まで向かう。

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