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扉を出て広いガレージに出るとそれまで凪いでいた心が、心臓を握られたように一気に竦み上がる。そこには空色のワイシャツに濃い藍色のエプロンを身に着けた宏明が上前板が開いたアップライトピアノの前で、作業をしていた。 最後に宏明に会ったのは、有名音楽家のパーティの日。伊川先生の推薦で会場内でピアノを演奏していた所に、突如宏明が連弾をしに現れた。宏明だけではなく、他人でも自らの許容範囲を越えられると取り乱すほどの拒絶反応が起こるというのにこの時ばかりは様々な有名音楽家がいる中で伊川先生の面子を潰すわけにもいかず、中断する選択肢はなかった。 プロ根性でその場を乗り切ったものの直ぐに悪寒がして、逃げるようにホールを出たが、宏明は執念に追いかけて来た。 「尚弥、久しぶりに先生と遊ぼうよ?」なんて逃げ込んだ使用されていない暗い会場内で襲われそうになった記憶が新しい。そんな捕らえた獲物を逃がさぬ肉食獣のような目とは対照的に、今の宏明は穏やかであった。 いくら大樹が「以前の宏明とは違う」と言っていたとしても半信半疑であった。今は穏やかでも僕を目にしたらきっと奴は襲ってくるのではないかという不安は拭えない。やはり車で待っている大樹も一緒に連れてくれば良かっただろうかと微かな後悔を抱き始めた時、「一生懸命だと思わんか?」と隣に立っていた弦一に話し掛けられる。 「たまに気性が荒いところもあるが、真面目で熱心だし、何よりピアノに対しての愛情は人一倍だ。君も奏者ならわかるだろ?ただ好きだけじゃ務まらない。技術者も奏者も楽器と心を通わせないといいものはできない。 私が認めるほどの腕を磨いた、ソレの精神には関心したよ。だから安心して後を任せられる。ただ、申し訳なかった。君の大事な時にわたしが出向けず、あいつを寄こしてしまって。君と過去に波紋があったことはここ何十年も共にしてきて知らなかった。あいつから事情を全て聞いたよ」 弦一の云う通り、程度の気持ちで楽器に触れたとこでいいものはできない。 自分に恐怖を植え付けた人だとしても、過去に憧れを抱いていたことはあった。 幼い記憶が蘇る。 初めて宏明に出会った8歳のころ。 父親に見守られながら宏明と実家のピアノ室で初めて本格的なグランドピアノに触れたこと。それまでは好きなように電子ピアノで弾いていた尚弥が宏明の演奏を聴いて魅了された日のことを·····。

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