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「ひろあき先生すごおーい?それなんのきょく?」 「ショパンだよ」 ピアノ椅子に並んで座る隣で指が自然と鍵盤に導かれているように、今まで聴いたことが無いほど速い曲をそつなく弾きこなす宏明に感動した。 上手い下手にかかわらず、ショパンはピアニストの誰もが通る道、弾けて当たり前であるが、当時の尚弥にとっては未知の世界で胸がわくわくしては、興味津々に宏明のことを見つめる。 「しょぱん?おいしそうななまえだね」 しかし、初めて耳する名前に大きく首を傾げると、尚弥の中に浮かんできたのはクロワッサンのパン生地の中にチョコレート棒の入った、甘いパンのことを思い浮かべていた。尚弥の大好物だっただけに、期待があがる。 話の流れからいきなりパンの話をすることはないと今更ながらに思うが、言葉をそのまま素直に受け取ってしまう子供ながらの発想から、素直にからそう口にすると、隣の宏明は肩を揺らして笑っていた。 何がおかしくて笑っているのか理解できなかった尚弥は首を傾げて宏明を見つめた後、部屋の隅で右足を組んで座っている光昭の方を見遣るが、彼もまた優しい笑みを浮かべているだけだった。 「だって、僕だいすきだよっ。パンのなかにもうえにもチョコかかってあまーいのっ」 二人の様子を目の当たりにして、何か間違えているのだろうかと漠然とした不安に駆られた尚弥は両手を広げて必死に弁解してみるが、宏明は「そうだねー」と笑いかけてくるだけで正解か不正解なのか教えてくれない。傍ら光昭は、椅子から立ち上がると「尚弥は発想が豊かだなー」とピアノの傍まで歩み寄ってきた。 フランス人のクウォータである父親のガラス細工のような瞳が尚弥の目線まで降りてくると、柔らかく大きな手が頭にのせられる。 「尚弥、ショパンは作曲者のことなんだ」 「さっきょくしゃ?」 「この曲を作った人のことだよ。彼の曲は難しいとされてるんだ。だから、宏明先生が弾けているのは本当に凄いことなんだよ」 父親が宏明に視線を移したのと同時に尚弥も先生の方を振り返ると 頬を仄かに染めて、面映そうに笑っていた。 「へえーやっぱり、せんせーすごいんだあー!僕もショパンひけるようになるかなあ」 「沢山練習すれば弾けるよ、光昭さんが君は絶対音感が備わってるって絶賛してたから」 「へへ、じゃあ僕がんばるっ。パパと先生に褒めてもらうんだあ」 「そうだね、僕も君のパパに褒めてもらえるように頑張って尚弥に教えるよ」 何の変哲のないやりとり。 笑顔に満ち溢れているこの時間が好きだった。 宏明が時折、父親のことを赤面しながら見ていることは気づいていたが尚弥にはそれが父親に向けていた好意の現れなど気づくはずもなく、憧れの先生と大好きな父親が楽しそうなのが唯々嬉しかった。

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