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宏明は静かに尚弥の言葉を聴き入れた合図かのように瞼を閉じるとスっと座席から立ち上がり、事務所に一際存在感を放ってるグランドピアノの方へと向かっていった。 尚弥や大樹はもちろん、後ろで黙っていた弦一さんも新聞の端から顔を覗かせて宏明の様子を見届けていた。三人の注目を浴びながらピアノ椅子に座り、背筋を伸ばして鍵盤に両手を添わせる。 長い深呼吸の後、軽快に指を弾かせる。あの時と何ら変わりない、宏明の指付きは今でも弾き続けていることが伺えた。 幻想即興曲から始まり、英雄ポロネーズ、繊細で美しいメロディーが印象的のノクターン。 かつて僕と同じ表舞台を望んでいた彼がもし舞台に立てのならと望みが込められているかのように、簡易的なリサイタルコンサートのような選曲をしてきた。 宏明の演奏している姿は自分と同様のようなものを感じる。本心からピアノを愛し、一音一音慈しみながらも楽しそうに紡がれている。自然と傍で見ていた自分と父親の像が想い浮かんでは込み上げるものがあった。 僕自身でも、初めて耳にしたときは強い羨望を抱いていたが、今や弾くことはそう難しいことではない。しかし、例えプロではなくたとしても、父の教え通り、純粋に音を楽しんでいる彼の姿はどんな有名音楽家よりも一際、輝いていた。 鍵盤から指を離し頭を上げ、余韻が残る静寂に背後に立って鑑賞していたであろう大樹から弦一さんと伝染するように気づけば僕も宏明に向かって拍手を送っていた。宏明は演奏を終え、ゆっくりと真っすぐ此方へ向かってくる。 先ほどまで僕と目を合わせる事すら拒んでいた宏明が、しっかり僕を捕えている。尚弥はその場から立ち上がり、見据えられた瞳に微かな恐怖心を抱きながら突っ立っていると、目の前で頭を深く下げられる。 「演奏しているとき、光昭さんに会えたような気がした……。一生かかってでも償うので、僕に光昭さんの大切な尚弥のピアノを触らせてください」 結われた長い髪の毛が重心に沿って肩を垂れ下がるように伝い揺れていた。

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