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父と宏明の逢瀬を目撃し、宏明からのレッスン中にかけられる脅しの恐怖とショックが積もりに積もって全身に湿疹が出たことをきっかけに母親に自分の見たことの全てを話さざるおえなくなってしまった。当然話した当日の夜は眠れるわけもなく、ベッドに入ってじっとしていると、しばらくして下の階から怒気のこもった声が聴こえてくる。 パジャマのまま下の階に降り、寝室の扉を静かに開けるとそこには、泣きながら怒鳴り散らかしている母親と宥める父親の姿があった。それまで仲睦まじい姿で僕に穏やかに笑いかけてくれていた両親の一変した姿に動揺して手足が震える。 僕が我慢しなかったから母と父は喧嘩している。先生の云う通りにしなかったから僕のせいで大好きな両親の仲を壊してしまったとさえ当時は思っていた。 どんな内容を話しているのかは分からなかったが、明らかに昼間に僕が母に話した宏明からの脅しであることは明確だった。 後悔と母の怒鳴り声の恐怖で逃げるように自室へ籠って布団を被っていたが、しばらくして母親が僕の部屋に入ったかと思えば、母は僕のお洋服を祖父母のお泊りの時に使ているリュックやスーツケースに詰めると強引に手を引いて、家を出て行かざる負えなかった。その間も説得を続ける父の姿、そして玄関先の最後まで僕たちを引き留めることを諦めなかった父の悲しそうな顔は鮮明に覚えている。 その子供ながらに感じていた父に対する後ろめたさから、藤咲の姓を選び、音楽を止めることはしなかった。それが自らを苦しめることになるとは幼き尚弥じゃ考えられずに……。 そして一方的に父親に決別を言い渡すまで父のことを憤っていたはずの母親が父の姓を名乗ることを許した理由をその数年後の尚弥が15歳を迎えた時に知る。 祖母とリビングで話していた彼女に学校から帰宅した尚弥が居合わせてしまい、扉の向こうで会話をしているのを通りすがりに聞き耳を立ててしまった。 その中で「あの人は元々ゲイだったみたいだから·····覚悟するべきだったの」「あの子は悪くないし、あの子の望むようにしてあげたかったの」などなんだの言っていたのを耳にして、当時はぼんやりとしか分からなかった父と宏明の行為を理解できるようになると強い嫌悪感を抱き始めるようになった。 自分に言い寄ってくる同性に思わせぶりな態度をとるようになったのは、トラウマへの仕返しのようなものでもあったが、自分の恋愛対象が異性ではないことに薄々気づいていたこと、あの父親と一緒であることの嫌悪からくる拒絶もあった。

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