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渡された名刺に音楽プロデューサー|樫谷哲平《かしやてっぺい》と書いてあった。何処かで聞いた事のある名前の男は差程詳しくない尚弥でも知っている。世の中の恋に生き、悩み苦しむ若者の代弁者と言われている国民的歌姫である雪城(ゆきしろ)レイナをプロデュースし、ヒットさせた経歴を持っている男だ。 しかしそんな凄腕プロデューサーを前にしても、尚弥の思考はアルコールによって真面な判断が出来なくなっていた。 「当たり前だろっ。ぼくはすごいんれす。だからこれからも、たあーくさん、ぴあのだけじゃなくてーさっきょくのべんきょーしてぇ、みんながかんどーするきょく作るんれす。おとーさんがぼくにおしえてくれたよーにみんなに伝えたいんれす」 礼儀やお偉いさんなど関係なく無邪気な子供のように返答すると男にくすくすと笑われる。 「取っ付き難いイメージあったけど、可愛いなー藤咲くんは。そんな藤咲くんにいい事教えてあげようか?」 「ふぁいっ」 急に詰め寄られたと思えば腰を支えられる少しだけビクリと体が震えたが、お酒の力が勝ってか不快感など感じなかった。それどころか、もっと大好きな音楽について話ができるとわくわくした尚弥は素直に大きく首を振る。 「樫谷さん、若い子にちょっかいだして何してるんですか」 腰に回ってきた手が離れたかと思えば、間に割って入ってくるように律さんが入ってきた。支えが無くなったことで体をふらふらとよろめかせている尚弥を気にしてか、しっかりと掴まれた手首に強い力が加えられているのが分かる。 そして、樫谷に向けた表情はプライベートで会っている時とは違う、張り付いたような笑顔だが、視線に鋭い棘を持っては強く牽制しているようにも見えた。 「ちょっかいだなんてー嫌だなー律くん。彼が勉強熱心だからさ、僕が教えてあげてたんだよ」 「ダメですよ。彼ちゃんと恋人いますから。それに樫谷さんも既婚者じゃないですか」 「ビジネスは別だよ。へぇー尚弥くんって見かけによらずちゃんとやることはやってんだねぇ?」 律さんを挟んで樫谷が顔を覗かせて来たが、返事をする隙もなく、律さんに間を阻まれる。

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