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事前に連絡して待ち合わせるなど尚弥の性格上できるわけなく、
桃瀬から恭子が今、事務所にいることを聞き出し真っ先に向かう。自分の為だと言った行為を未だ理解するのは難しいし、一生することはないだろう。しかし、自分が世界で活躍できるまでに成長したのは紛れもなく恭子の支えがあったからこそだ。
その感謝の気持ちをあの一件ですべて水に流してしまうのはあまりにも無情すぎる。恭子も恭子なりの価値観で自分を守ってくれていた、母親の愛を素直に受け取る資格がある。
事務所内の数あるデスクの中から一番奥の座席に恭子の姿があり、安堵する。
恭子の受けもつ奏者のスケジュールを把握しているわけではないので、万が一すれ違いが起きてもおかしくない。幸い桃瀬と隣で世間話をしているようで、それが足止めになっていたようだった。
尚弥は意を決して恭子に近づくと「尚弥くん、どうした?」と桃瀬が問い掛けてきたのに対して「ちょっと…」と言葉を濁す。桃瀬の前で家族間の話をするのは恥ずかしいが、この機会を逃してしまったら一生和解の兆しが見せぬまま終わってしまうような気がした。
尚弥の少し濁した反応によって空気を察したのか、桃瀬は「僕は邪魔そうだから席外すね」と一言残してその場を去っていった。すれ違い様に肩を叩かれ、目礼をする。
二人になった途端、久々に流れる母子の気まずい時間。
尚弥の姿を目の当たりにして、一驚しながらもどこか戸惑った様子の恭子の間の前に自らのCDを差し出した。厳密に言えば律のアルバムではあるが、自分が初めて作曲した曲を母親である恭子にも聴いてほしかったからだ。
桃瀬から恭子が自分の曲の入った律のアルバムを買えずにいることは聴いていた。それは尚弥に興味がないからではなく、尚弥を裏切った自分が息子の曲を聴くことにより穢してしまうのではないかという背徳感からくるものだと知った。
「尚弥·····」
「遅くなったけどこのアルバムの二曲目。ぼ、僕が作曲したから·····あんたに聴いてほしくて·····」
CDを持つ手が微かに震える。
桃瀬からそう聴いていても、恭子自身はいい迷惑に思うかもしれない。今更どの面下げているのだと思われるかもしれない。最近はまともに会話をしていなかったので尚更だった。
すると、恭子は途端に両手で顔を覆い「·····ありがとう」と感極まったように言葉を詰まらせながら呟いた。目元を自らの右掌で拭いながら、差し出したCDを受け取る。
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