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まるで宝物でも愛でるようにジャケットの裏表紙の曲目をじっと眺めていた。恭子も愛が無かったわけじゃない。こうして自分の曲を大事そうに涙を流して受け取ってくれるのだから、もう一度信じて向き合うことをしてもいいと思えた。 「ごめんなさいね。こんな所で·····なんか昔を思い出しちゃって。光昭さんが私とお腹の赤ちゃん…貴方の為に曲を作ってくれたことがあったの。公に出ることはなかったんだけどね。尚弥もちゃんと素質があったと思ったら嬉しくて····つい」 僕が産まれる前、恭子が小さいBARで歌手として歌っていたことはぼんやりとだが、聴いたことあった。その行きつけのBARで客と演者として父親と出会ったことも。そしてそんな母親と僕に父親が曲を贈っていたことは初耳だった。 「父は…貴女にどんな曲を送ってたんですか?」 口を衝いて出た言葉に自分でも驚いたが、父が母に送った曲を純粋に知りたい気持ちの方が大きかった。あの父親が愛していた人に贈った曲を。 母親が歌唱しているところなど、生まれてこの方見たことはなかった。 どんなと言われたって曲を言葉で表現するのは難しい、左程期待はしていなかったが、恭子は呼吸を整え息を大きく吸い込込んだかと思えば、鼻歌交じりのメロディーを唄い出す。 初めて聴いた母の歌声はどこか懐かしく、澄んだ声をしていた。 心が洗われるような綺麗な歌声。 そして、温かいメロディーは父親そのものを表しているような。 包まれているような優しい気持ちになる。 「あんなことがあったけど、私にとって光昭さんは特別な存在だったわ… あの人が誰よりも優しい人だって知ってたの。ちゃんと私を愛してくれてたのも。彼のことも宏明さんのことも許してあげていれば違ってたかなって……でも、あの時の私は尚弥のことを守ることが優先だった。尚弥が傷つくなら例え光昭さんでも許さないって思ったの…私が何されようと構わないから尚弥だけは…って」 歌い終わった後に、静かに胸の内を吐露する恭子の話を聞いて、以前に桃瀬が「親は何歳になっても子供が心配で子供の幸せを一番に願っている」と言っていたことを思い出した。再開した宏明から守るために捨て身に出たのは間違っていたかもしれないけど恭子の僕に対する愛故なのだろうか。 「尚弥、宏明さんを専属にするのね。桃瀬君から聞いたわ…大丈夫なの? 宏明さんはあなたにとって…」 「大丈夫です。今は大樹がいるから…いざとなったら大樹が僕を守ってくれるし、僕はもう、全てに怯えて生きていたような弱い人間じゃないから。それに改心したあの人に会って、もう一度信じてもいいかなって思えたんだ…」 実母の前で大樹の名前を出すのは恥ずかしかったが、大樹がいればもう何も怖くない。決意を固めた尚弥とは裏腹に恭子はどこか寂しそうに目を伏せる。 「そう…」 「今までありがとう。僕は大丈夫だから、あんたはあんたの事だけ考えてよ。あんたの人生、僕に全て捧げようともうしなくていいから」 恭子には今まで父親や僕のことで気苦労した分、幸せになってほしい。 もう以前のように彼女に支えられながら一人で歩くのもおぼつかなかった僕じゃない。ちゃんと自分の意志で乗り越えて、地に足をつけて歩くことができている。ここからは、しっかり自分一人の力で歩んでいきたい。 愛する人と寄り添いながらも……。 「でも…また曲できた時は次は一番にあんたに聴いてもらいたい…前だって僕の演奏のアドバイスしてくれてただろ…。意見聞かせてよ」 再び流した恭子の涙にそっとシャツの胸ポケットにしまっていたハンカチを渡す。恭子は唸るように泣きながらも「うんうん」と何度も頷いていた。

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