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「とりあえず中に入らねえ事にはなぁ。」
「あぇ、なに?」
「城壁だぁ。皇国に入るにはあそこからしかねぇから、律儀に堀に跳ね橋かかるまで待たなきゃなんねぇな…」
あれからサジは生まれるまで面倒を見ねばと言ってキノコを抱えたままふらりと姿を消した。消えている間はどこに行ってるのかわからない。興味もないが。
エルマーたちはというと、皇国を囲む城壁を目にした所で足止めをくらっていた。無理もない、もうじき外は夕闇に包まれる時刻だ。閉められた城門が開かれるまで待たなきゃいけない。近くで待ってもいいが、物乞いやら暴漢やらが城壁の外側を根城にして遅れてきた冒険者やらをターゲットに鋭意活動中だった。
元気なものである。魔物が来たらお前らがターゲットにしている冒険者が戦う羽目になるのに、今から身ぐるみ剥がしてどうするのかとも思ったが、エルマーもここに来て無駄な体力は使いたくない。仕方なく皇国の城壁を視認できるこの森で野宿することにした。
「とりあえず俺の記憶が正しけりゃ廃れた教会があったはず。」
「う、」
くるる、と腹を鳴らしたナナシがお腹を撫でる。そういやパン食ったあとに果実を一口齧ってただけだった。エルマーはインペントリから焼いた鱒を一本取り出すと、ナナシに渡した。
「これ食ってがまんな。ほら行くぞ。」
「あぃ、んぐ」
エルマーに手を握られながら、鱒を片手に暗い森の道なき道をすすむ。ここはなんだか暗くて怖い。ナナシはエルマーの手を握る力を強めながら、おいていかれないようにとててと足を早めてより添う。
「ここは境界だからまだ大丈夫だ。こんな森俺ら以外には誰も入らねえからある意味安全っちゃあ、安全…」
「きょーかい?」
「ナナシの左側をずーーっと進んでくと始まりの大地なんだぁ。あそこは魔素が強いから近寄んねー方がいいんだけどよ、ここいらなら平気。」
「まそ…」
二人の進んでいる森は、百年前に邪竜が生まれ落ちたと言われている呪われた大地の一部だ。と入っても東の国の領地としてある程度歩めるくらいには切り開かれてはいるが、その伝説が残る大地だからか、奥の方に行くに連れて濃度の濃い魔素が滞留し、未熟なものや心根の弱いもの、魔力が少ない者たちが魔素の霧の奥に踏み込めば簡単に正気を失う。
「こぁぃ…」
ぎゅ、とエルマーにくっついて自分の左側の森の奥を見つめる。宥めるようにナナシの頭を撫でると、場所を入れ替える。怖がらせるつもりはなかったのだが、エルマーは従軍中に川を渡った奥にある深い森を舞台に、西の国と領土を巡り争った経験がある。
とはいってもこの皇国側の森の入り口から魔素が滞留する奥地まではかなり遠い。エルマーが全力で走っても2日はかかる程だ。境界代わりの川までもそのくらいかかるので、深く踏み込まなければ危険もない。
「大丈夫大丈夫、ちっと暗いだけ出し、出るのはゴーストくらい…あり?」
じゃり、と小石が靴の下で音をたてる。鱒を握りながら涙目のナナシが不自然に足を止めたエルマーの背中に顔をぶつけてたたらを踏む。
ぶつけた鼻を抑えながらひょこりとエルマーの後ろから顔を出すと、目の前には酷く廃れた教会がそびえ立っていた。
「…門が崩れてるな…」
「う、あ」
エルマーが足元に落ちていた魔除けの模様が彫り込まれた瓦礫を拾い上げる。戦争で廃れてしまったまま、手入れもされずに廃墟となった教会は、木々の隙間から差し込む月明かりに照らされ、朽ちてなお静謐な雰囲気を漂わせる。
エルマーが気になったのは瓦礫と化したこの門の欠片だ。教会は崩れても、この門さえ残しておけば聖地として旅人の安全地帯としての役割を果たす。
教会は清められた土地にしか建てられない。魔物が入らないように術を施された結界の役割を果たす門が崩れるなど、いたずらにしてはたちが悪すぎる。
風化したのだろうか。それにしても外壁を見る限りではそんなふうには見えない。
まるで意図的に壊されたかのようなその様子に、エルマーの眉間にはしわが刻まれる。
「これじゃあただの廃墟、っと…ナナシ?」
静かなナナシの様子が気になって振り向く。
月明かりに照らされた教会を目の前にして、ナナシの顔色は可哀想なくらいに青ざめ、その身はひどく震えている。
「え、え、える、こ、ここや、ぃや、」
「あ?何だ、急にどうした…」
「こ、ここ、やら、こあい、やら、っ」
怖いものでも見たのかと再び振り向くもなにもない。突然この場に入ってからナナシの様子がおかしくなったのだ。変なトラップの気配すら無いのに、ついに足を滑らせて地べたに尻餅をつく。
ただならぬ様子に、エルマーは流石に慌てた。
「や、やぁ、あっ!」
「馬鹿!一人で行くなって!」
ついには小石をかき分けるようにしてヨロヨロと立ち上がると、錯乱したまま来た道を戻るように駆け出した。エルマー一人ならいい。だけどナナシは戦えないのだ。あんな小柄な体で魔物に襲われでもしたらひとたまりもないに違いなく、慌ててその後ろ姿を追いかける。
森の闇の中、葉の緑を暗く染める影が葉擦れの音とともに消えた二人を追って迫ってくるようだった。
いけない、ここはいけない。
「は、はひ、っ…ひゅ、っ」
ナナシは荒い呼吸を繰り返しながら、まるでなにかに追いかけられるようにして全速力で走っていた。
こわい。何が怖いのかわからないが、あそこはだめだ。ナナシの知らない自分の記憶がやめろと叫んでいる、なんで、なにがやめろなのか。
思い出されたのは土の匂いだ、それと白くてきれいな靴。
そしてあの静謐な空気を含む場所で、目玉が溶けてしまいそうなくらいの熱と痛み。
そのあとまっくらになって、泥の中に沈む前に見たのは白いお花。
「ひゅ、っ」
ごぽりと喉がなる。どれくらい走ったのかわからない。ナナシは震える手で喉を抑えると、ふらふらと木を支えに蹲ると、食べたものをすべて吐き出した。
「う、っ、けほっ、え゛、っ…」
肺がひゅうひゅうと痛みを伴いながら鳴いている。エルマー、エルマー、エルマー!
名前を叫んで安心したいのにそれも出来ない。指先が震えて声の出し方がわからないのだ。
自分の記憶だと、目が焼けるように痛かった。大丈夫だろうか。目はちゃんとあるのか、見えているのだから有るに決まっているのに、指先で触れて確認するまでは安心できなかった。
「え、っ、ぅ…こ、あい…っ、」
呼吸を整えようと顔を上げた眼の前に広がるのは、森の木々がまるで小柄なナナシの体を見下ろすようにして取り囲む様子だった。歪んでいるのは視界なのか、それともこの木なのか。虚の暗闇が怖い。エルマー、エルマーはどこ。ナナシは、どこにいるの。
靴底で砂利を踏みつけて立ちあがる。膝はふるえて、心細くてまた泣きそうだ。小さい手は心許なさを誤魔化そうと胸元のネックレスを握りしめた。
エルマーからもらった、ナナシの命よりも大切な宝物。
暗闇が心なしか深くなる。がさりと音がして、慌てて振り向く。
そこにいたのは頭を逆さにしてニタリと笑う化け物だった。
「ひ、っ…」
なんだこれは。とおもった。
黄土色の肌は渇き、皮膚組織が木の皮のようにめくれながら全身を覆う。にたりとわらう頭だけが上下逆さまだったのだ。
笑っているのに、目は開いていない。見えないのだろうか、しきりに耳を傾かせるようにゆらゆらと体ごと揺れながら、音のする方向を探している。
「っ、」
声を出してはいけない。息を止めなくては。
ナナシはネックレスを握りしめた手を祈るように前で組むと、その手で口を押さえる。ずるりと音がして、その歪な人形の化け物がその身を藪から引きずり出す。長い腕を引きずるようにして、ゆっくりと細い足で地べたを踏みしめるそれは、まるで骨や関節などを無視した動きで触手のように腕を操ると、地べたすれすれに手を這わせる。
ナナシを探している、直感的にそう思った。
目からは涙が溢れる。怖い、たすけてほしい、足元は砂利だらけて、一歩でも動いたら居場所がバレてしまうに違いない。
その化け物の指先がこつりとナナシの靴先に触れる。数度触れたあと、まるで手のひら全体で確かめるようにして足首を握りしめる。ああ、だめだ。
ナナシは下を見つめていた目を、ゆっくりと正面に向けた。
「イタ、い、た。」
ナナシの鼻先が触れそうな距離に、黄土色の鼻のない顔が目の前で笑う。
8つの赤い目玉をぎょろりとナナシに向けると、そのしわがれた容貌からは想像できない子供の声で笑った。
「ぁ、あ、」
口から吐息とともに掠れた声が出る。怖いを通り越すと笑えてくるらしい。ナナシは足首を掴まれたままゆるゆると首を振る。
べしょりと腰を地面に落とすと、追いかけるようにして化け物の首が伸びてナナシの顔を凝視する。頭がどんどん痛くなってきて、怖いし、全てがどうでも良くなってしまうような諦観がその身を支配する。
じわりとかんじたそれは地べたを濡らす。ぺしゃ、と水音を踏む化け物の手のひらがナナシの足の間にある。恐怖に気が抜けて漏らしたのだ。
ギザ歯を見せつけるようにぐぱりと口を開いた瞬間、ふわりと風がふいた。
「バカ野郎が!!!」
ギィッ、と蝶番の軋むような音と共にナナシの目の前から化け物がきえた。
先程まで至近距離で睨みつけられていたナナシの体は、がくんと糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れた。
体が動かない。エルマーが来てくれて嬉しいのに、視界に広がるのは黒い葉と隙間から除く夜の冷たい色しかなく、指先一つ動かなかった。
「ナナシ!!」
「っ、っ、」
エルマーは崩れたナナシを抱き起こすと目を見開いた。恐慌状態で体が硬直していたのだ。このままでは呼吸ができなくなってしまう。涙目ではくはくと唇を震わすナナシをそっと寝かせると、エルマーは蹴り飛ばした魔物に顔を向けた。
「…幽鬼。」
「イた、ィタ、」
腰が折れたのか中程で不自然に折れ曲がった体をずるずると引きずりながら起き上がる。アンデッド系の魔物の中でもその赤目に睨まれたら状態異常を引き起こすたちの悪い魔物だ。
倒せば回復することはわかっている。どれくらいナナシがこの状態なのかはわからないが、呼吸不全で失神する前には終わらせたい。
「一息でいく。てめぇはそこから動くなよ。」
エルマーは太腿から取り出した短剣に聖属性の加護を持つ札を持ち手に巻きつけると、幽鬼が素早く伸ばしたその手を掴む。
一気にその体を引き寄せ顔面に短剣を突き立てたる。目が開く前に脳天を潰すのが、幽鬼とやり合う上での鉄則だった。
耳障りの酷い断末魔の叫びでゴーストを引き寄せようとする幽鬼の喉元を、叫ばれる前に鷲掴む。グギッと詰まったような声を出し、ぐぱりとひらいた口に手を突っ込むと、紫色の舌を掴んで一気に引っ張り出した。
「チッ。」
口から黒い血をごぽごぽと吹き出した幽鬼を地面に投げ捨てる。びちびちと動く舌を握りしめて黙らせると、そのまま筋を伸ばすように引張り絶命させた。
黄土色の幽鬼は本体が舌なのだ。首を切り落としただけではすぐに復活する。
脳天から聖属性の札を貼り付けた短剣引き抜くと、札は役目を終えたかのように燃えて消えた。
「ひゅ、っ」
まるで水面から顔を出したかのような勢いでナナシが呼吸を始める。ぎりぎりだったらしい。
エルマーは乱暴な足取りでナナシに近付くと、うずくまる細い体の肩を掴み乱暴に地面に縫い付けた。
「なんで離れた!!!!」
「ひ、っ…!」
金色の瞳を怒りで染めたエルマーは、トパーズの瞳を涙で濡らすナナシに覆いかぶさるようにしてマウントを取る。
聞いたことないくらいに怒りを宿したエルマーに強く怒鳴られ、幽鬼と対峙したときとはまた違う恐怖がナナシを包んだ。
「ぇ、るっ…」
「死にてえのか!!間に合わなかったらどうすんだバカ野郎がァ!!」
ビクリと体を震わせると、ついに耐えきれなくなったのかひぐひぐと嗚咽混じりに、泣き出した。それでもエルマーは許さなかった。それだけ危ないことをしたのだ。
安全だとおもって教会で野宿するつもりで連れてきたエルマーにも非がある。それでも森の闇に怯えていた癖に、なぜ一人で走り出すなどと愚かなことをしたのか。
「バカ野郎が…、マジで馬鹿野郎だナナシは。」
「ご、ごぇ、ぁ、さ…っ、ふ、ぇっ…ひぅー‥っ…」
抱き起こしてきつく腕の中に閉じ込める。無事で本当に良かった。泣きながら背中に腕を回してくるナナシの小さい体を、体温を確かめながら心底ホッとしたと言わんばかりに、大きなため息をはいた。
幽鬼に襲われているナナシをみたときは肝が冷えた。自分も悪いのだが、思わず怒りをナナシに強くぶつけすぎた。
嗚咽混じりに声を上げて大泣きするナナシの頭を撫でながらあたりを見回す。汚れた木の根元をみると、その細い体が精神的にダメージを追っているのではないかと心配した。
「ふぁ、あっえ、える、えるぅ…っ、ひぅうっ、」
「わーったわーった、もう怒ってねーから泣き止めって。ほら、抱っこしてやっから。」
「うわ、ぁあっ、ぁっ、…き、きらぁ、な、ぃれ、えっ…ごぇ、ぁっさぃ、いっ…」
「吐いても漏らしてもお前が無事ならなんだっていいよ。はあ、もう離れるなまじで…」
しがみつくように泣くナナシに肩口をビショビショに濡らされながら抱き上げる。この先にある河原は境界だ。月が高く見下ろしている以上幽鬼はまだ彷徨いているだろう。
エルマーは頭の痛そうな顔をしながらナナシを見つめる。幽鬼が近づけない方法の一つとして生のエネルギーを強く見せつけるというやり方がある。
そうすると人の怯えや恐怖に引き避けられる幽鬼は近づけない。生者と死者での線引を無理やり作るのだが、これを行うともう後戻りができない気がしていた。
「える、える…」
「人の気も知らねぇでよー‥」
すりすりと甘えるように首筋に顔を埋めて愚図るナナシに、少しだけまいった。
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