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すごい。ナナシは銀色の美しい毛並みに抱きつきながら、素直にそう思った。
スーマは流れるような身のこなしで、そのしなやかな体を使いながら屋根の上を飛んでいく。ナナシの足で向かうよりもずっと早い。
その身を透明にして、ナナシごと気配を消したスーマ2号は、一陣の風となってその場を吹き去った。
「いた、スーマ、とめてえ!」
「アイヨ。」
エルマーはジルバの蜘蛛足を鷲掴んで、その身を引き寄せているところだった。互いにひどい傷だ。エルマーの赤毛も、血に染まって顔を汚している。
ナナシはぼろぼろの二人を目にして、呼吸がしづらくなる。それくらいにショックな光景だった。
二人の間に強い風が吹く。エルマーとジルバは、突然現れた気配に目を見開くと、慌ててそれを避けるように飛び退いた。
「っ、なんだ!」
「あぶね、っ」
二人の間に強い光の光線が走る。まともに浴びたら体が2つに分かれていただろう。一体なにが、と顔を上げたとき、大口を開けギザ歯を見せつけた謎の化け物が襲いかかってきた。
「っ、」
ジルバが慌てて張った結界を顎の力だけで割ると、その銀色の長い体をそっと地面におろすと、まるで威嚇するかのようにシューと鳴く。
見たこともない、単眼の蛇のようなその魔物は、まるで犬のような耳を持ち、長い尾を撓らせてとぐろを巻いて落ち着いた。
見たこともない魔物だ。目から出した光線も、地面をえぐり取るほどの攻撃力。
下手に出られずに構えていると、更に予想だにしないことが起きた。
「ナナシ、ナク。」
「エルマー!じるば、だめえ!!」
その魔物から飛び降りたナナシが、泣きながら駆け寄ってきたのだ。
ジルバもエルマーも目を丸くした。あんな魔物が、まさか喋るなんてということにも驚いたのだが、まさかその背からナナシが降りてくるなんて思っても見なかったのだ。泣きながら二人に抱きつくと、後ろで魔物は強い光を放ちながら、ひょろ長い猫のようなものに姿を変える。
既視感のあるその姿に、エルマーはぎょっとした。
「まさか、スーマ…か?」
「チガウヨ。」
「な、こいつ…喋るのか…」
単眼のくせに、やけに表情豊かな奴だとジルバが感心する位には、すまし顔でナナシの後ろをついてきた。きちんとおすわりすると、ジトッとした目で二人を見つめる。首に抱きついてわんわん泣いているナナシに、おろおろするエルマーは傷の割には元気そうだった。
「スーマ、ママ。」
「え、産んだのか?あ、イビルアイは単性生殖…」
「イビルアイだと!?」
「チガウヨ。」
「ばか、ばかきらい!ふたり、きらい!ばかあ!!」
「いってえ!!あ、いてててっ、ごめ、ごめんてナナシ、っ!いてえ!」
ナナシがこんなに二人を心配したのに、当の本人たちは全く見当違いなことを言う。普段温厚なナナシも、こればっかりは流石にキレた。
「しらない!エルマーもじるばも、ナナシはすごくしんぱいした!でももうしらない!ばか!ばかあー!!」
「う、っ…悪かったって、でも平気だから。ほら、こんくらいな傷ならポーションで治るしよ、」
「きらい!」
「俺も済まなかったと思っている。なんなら俺が治癒術でエルマーも治そう。からかいが過ぎて本当にすまな、」
「きらい!」
にべもなく泣きながら怒るナナシに、二人して嫌いと切り捨てられる。素直で可愛いナナシは、こんなところでも素直だった。ナナシはスーマ2号を抱き上げると、二人にべっと舌を出す。
二人からしたらポカンだが、ナナシにとって舌を出すのは怒っているんだというアピールだ。
ニョロリとスーマ2号からも長い舌を出される。そんなに長い舌をどこにしまうんだという興味のほうが勝り、ナナシの怒りのアピールも汲み取っては貰えない。
「き、嫌われた…?」
「くそ、エルマー。お前のせいだぞ。」
「間違いなくてめぇの、…」
じっとナナシに見つめられて、思わず口を噤む。胸ぐらを掴んでいた手でジルバのシャツのボタンを止めてやると、引きつり笑みでナナシを見た。
「える、わるいこ。」
「ぐぅ、」
ムスッとした顔でむくれる。ナナシは今回ばかりは本当に怒っていた。せめてもの慈悲でエルマーには外套を投げ渡したが、下着に外套だ。昼間に堂々と歩いていい格好ではない。
思えばこんな格好で大暴れしたのかと、改めて冷静になって渋顔をした。
「ナナシ、その…お前が抱いてるのはなんだ。」
「うう、んー‥」
きょろりと単眼がナナシを上目に見上げる。スーマが単性生殖して出来た二匹目は、母体とちがい羽があった。よくよく見ると、目玉も赤くない。緑がかった不思議な光彩は、その銀色の美しい毛並みに良くにあっている。
「スーマ、じじんとこの、ようせいのこども。」
「イビルアイだとか言ってなかったか…?」
「転化したんだよ。見た目は魔物だけど、こりゃまじで妖精つか、精霊だな。」
べろんと長い舌でナナシを舐めあげる。エルマーとジルバにまじまじと見つめられた2号は、ギザ齒を見せつけてにんまりと笑う。
妖精はだいたい光の粒子を纏っているが、精霊は獣の体で銀色の毛並みのものが多い。スーマ2号の見た目は、完全にそれだ。
単性生殖で分離すると、その元の生物よりも優れたものが生まれやすい。
「ああ、なるほど…転化…。ナナシ、おまえ加護が付いてるぞ。」
「かご…なんの?」
「ママノ。」
「ええ、いつう?」
どうやらドリアズのスーマが、ナナシにねずみを分けたときにはもう加護は受けていたらしい。
自分はドリアズをでられない。だからスーマは目印をつけて、自分の子供に向かわせたらしい。
「ふむ、魔物が転化。よほどいい主にあったのだな。」
「ドワーフだ。」
「ああ、妖精族…どうりで。」
ムスッとした顔のナナシは、どうやらスーマ2号が衝撃的すぎて喧嘩どころではなくなった二人を見つめる。エルマーもジルバも、自分の傷を放っておいて話を進めるのも気に食わなかった。
だからナナシはぺたりとエルマーの腕に手を付けると、ジルバがしていたような治癒の術をイメージして、その傷がくっついていくようにゆっくりと力を流す。
あの石を介して、ナナシのみのうちに溜まった暖かな魔力は、懐かしいようなそんな不思議な感覚だ。ずっとそれを感じていたかったけど、今はその魔力がなくなったとしても二人を治すつもりだった。
「え、あ…治癒術…」
「える、じっとしてる。つぎじるば!」
「うむ。頼む。」
小さい手を突き出して、ジルバの手も掴む。二人は、ナナシと繋いだ手からじんわりと流れ込む暖かな魔力に細かな傷が消えていく。流石に打撲痕までは治すことはできなかったが、それでも二人が互いにつけた傷口は微かな痕を残してふさがった。
ナナシは、本当は打撲痕も傷痕も残さずに直したかったのだが、そこまで感覚がつかめないまま満足行く術の行使とはならず、しょんもりと眉を下げる。
「あー‥、え、なんで?」
エルマーは、まさかナナシにそんな力が隠されていたとは知らず、ぽかんとしたまま傷だらけだった腕をさすった。
「ふむ。やはり俺は間違ってはいなさそうだ。」
何がなんだかわからんと、呆けているエルマーの顔を小馬鹿にしたように笑うと、ジルバはナナシのその手をとって握り締めた。
「聖水晶が弾け飛んだとき、ナナシは何を見た。」
「…くろくて、しろいの。」
ナナシは、割れる寸前にちらりと見えたオパールのような輝きが、影に飲み込まれていくのを見た。黒いタールのように重たそうなものが、隠すようにして淡い白の光を飲み込む光景だ。
なにがなんだかわからない、ただとてつもなく重だるくて、暗くて、寂しい力によってその白は飲み込まれていったのだ。
「それはおそらく、お前の中の呪いが内側に宿った聖属性の魔力を飲み込んだのだと思う。」
「まてよ、聖属性って光の派生だろ。人間で持ってるやつなんて王族か聖職者くらいだぜ。」
「ああ、つまりナナシは最初から聖属性の魔力に耐えられる器だということだ」
「まてまて、ちょっとわからんくなってきた。」
「つまり、もしかしたらナナシはそういった血筋なのかもしれないと。」
「は?信じろったって無理あるぜそれは。」
まるで離さないとばかりにとエルマーに抱き寄せられる。ジルバは、王族や聖職者の血筋の可能性を疑いながらも、同時にそうではないといいなとも思っていた。
もしそうだとしたら、奴隷落ちなんて醜聞だ。理由がどうであれ、なかったコトにするために命を狙われるだろう。
ジルバは渋い顔をしてナナシを抱き込むエルマーに頭の痛い思いをしながら続けた。
「あくまで、仮定の話だ。もしくは特異的な何か。」
エルマーに抱きつかれながら、ジルバの灰色の瞳を見つめる。ナナシは、なんだか自分のことなのに全く理解の及ばない話に眉を寄せると、わからないことが恥ずかしいことのように感じて俯いた。
その様子をエルマーが黙ってみていた。
「やらねえ。」
「え…?」
エルマーがジルバに言う。力強くはっきりと。
ナナシはキョトンとした顔で見上げると、髪を梳くように撫でられた。
「もう俺のだから、誰にもやらねえ。」
ハッ、と柄悪く鼻で笑う。エルマーはワガママだ。例えナナシが王族でも、聖職者でも、特異的ななにかだとしても、もうエルマーのものと決めたナナシを、今更ハイそうですかとあとから名乗り出てきたやつにやりたくはない。
ナナシはじわりと頬を染めると、きゅっと唇を引き結んだ。
ジルバは、わかっていたかのようにくすりと笑う。
「カッコつけているところ悪いが、お前の格好を見てみろ。」
「うるせえ、わかってらあ!」
パンツに外套で威張り散らしていた。明らかに不審者ではあるが、ナナシはそれでもうれしかった。
おもわずぎゅうと抱きつくと、目を潤ませて口を開いた。
「でも、けんかだめ。なかよしするして。」
「スルシテ」
ナナシに腰に抱きつかれながら、スーマ2号までそんなことを言う。
ジルバもエルマーもお互い顔を見合わせる。眉間にしっかりと皺を刻ませながら、しぶしぶ、本当に心底不服ですと言った顔になりながら口を開いた。
「ゴメンネ。」
「イイヨ。」
あのあと突然降り出した雨に、パンツと外套のみのエルマーは悲鳴をあげた。
病み上がりなのに結局ズブ濡れだ。ジルバといるといっつもなんかしら問題が起こる。戻ってきた宿で、ゴブリンのような顔で仁王立ちしていた宿の女将が待っていたのもジルバのせい。自分たちの止まっている一室に目を向けて納得したが、こうなったきっかけもジルバが悪いのだ。
…まあ、窓を直してくれなければ叩き出されていた可能性もあったので、そこだけは感謝したが。
エルマーはそんなことを考えながら、また一つため息を吐いた。
「狭い!」
「おいうるさいぞ。わかったからがなるな。」
ジルバと膝を突き合わす。、二人してナナシを挟んでお風呂にはいっていた。バスタブを少しだけ広くするようにジルバが拡張の魔法をかけたそこに、三人となぜかスーマ2号まで収まっている。
温かい湯船は柔らかく波打ち、筋肉質な男の間にお行儀よく収まったナナシは、小さめの桶にいれたスーマ2号をアワアワに泡立てていた。
なんで男同士の裸の付き合いをすることになったのか。その原因は、ナナシである。
「みんなで、おふろはいる!」
「え。」
「本気か…?」
ビロンと伸びてリラックスするスーマ2号をだきしめながら、無垢な笑顔でそう言いのけた。この、さっきまで殴り合いをしていたという全然かわいくない男と3人で、お風呂に?
「いやだ?」
しょも、とした顔つきで見上げる。今回ばかしはナナシを盛大に泣かせた手前、エルマーとジルバのなけなしのやわらかな良心を、ナナシの無垢なナイフが突き刺す。二人が折れるのはすぐだった。
「おふろ、きもちい。なかなおりした?」
「したした。蜘蛛出汁の風呂とか効能やばそうだなオイ」
「なんならどう効くのか飲んでみたらいいんじゃないか?エッセンスを追加して殺ろうか。」
「あっは、やれるもんなら、」
まあるいナナシの目がじっとエルマーを見つめる。
不穏な気配は敏感に感じ取るナナシは、そのままゆっくりと振り向いてジルバもみた。無言の圧力だ。
「いい湯だな。」
「ほんとに。」
「よかったあ。」
桶に収まったスーマ2号は、人間のオスもメスのご機嫌取りに気を使うのだなあと、やはりこの群れの頭はナナシなのだろうと納得するように、ピギリと鳴いた。
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