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屋敷の中からは埃よけの布がかけられており、蜘蛛の巣の張ったシャンデリアや、陰気な表情の肖像画がエントランスを見下ろす様に飾ってあった。
蝶番を軋ませながら閉まる扉が不安を煽る。
ナナシの小さな喉仏がこくりと動き、もはやぬいぐるみのような扱いのギンイロをぎゅっと抱きしめる。怖いといってもいいのだろうか。
エルマーの背に隠れるようにしながら服の裾を握りしめて、トッドとアランの案内で屋敷の中を進んだ。
「ぼろっちい。ほんとにここにいるのか?」
「ここは、王子の部屋から通じている隠し通路の出口なの。アラン、そこの肖像画を外してちょうだい。」
「わかった。」
エルマーの訝しげな問に苦笑いをすると、トッドの指示でアランが廊下の行き止まりに飾られた婦人の肖像画を外す。
絵の額につけられた留め具を、決められた方向に動かした後、再び元の位置へ戻すと仄かに絵の周りが光った。
微かな魔力を感じる、どうやら隠し扉を出現させる為のギミックのようで、そのまま絵を逆さに回転させた。
ガチン、という硬質な音とともに、壁紙に擬態していた扉が現れる。エルマーは、ジルバの家の扉もこうならいいのにと思いながら、表情には出さなかったが驚いてはいた。だって見事な細工である。こういうギミックは男心をくすぐるのだ。
「なあ、俺らにそのギミックを見せていいのか?」
「勿論、だって日によってこのドアの絵と扉は移動するもの。それがわかるのは、アタシとアランだけ。」
「まったく大した職人だな。サジはこんな魔力の使い方をするやつ知らんぞ。」
感心するサジに、トッドが嬉しそうに微笑む。
「それは、元気になった王子に直接言ってちょうだい。ここの屋敷のギミックは、全部アロンダール様が趣味で作られたものだもの。」
「こら!御名を軽々と口にするな!」
「あら、アランだって王子が褒められて嬉しそうにしてるくせに。」
どうやら第二王子は大した職人気質らしい。というよりも、下手な魔道具技師よりも才能がある。市井で暮らしていきたいという話を聞くだけで、世間知らずのお坊ちゃまかと思っていたエルマーは認識を改める。
現れた扉をひらいて、地下へと続く階段が姿を現した。
エルマーはナナシの手を握ると、トッドを先頭に5人と一匹は王子の私室に向かって歩みを進める。
壁に彫り込まれた溝が、微かな光源を放つ。魔力に反応するヒカリゴケの一種を植えているらしく、松明要らずにスムーズに進める。
溝や天井、靴音を響かせる石畳など、深部に行くに連れてその幻想的な黄緑の光は少しずつ増えていく。ギンイロはその毛並みに光を反射させながら、ナナシとともにキラキラした目つきで視線を彷徨わせる。
気づけば石畳の道は終わり、ふかふかとした苔の道になる。弾力性のあるその床は足音を消してくれるようで、靴の汚れも吸い付いて落としてくれるらしい。細かいところまで行き届いた配慮は、部下を慮らなければ思い至らない事だろう。
自身と違い、外界への出入りが多いトッドたちが気負わないようにと、王子が自分で気がついて施したらしい。
「すげえな。なんつーか、気を使いまくってる?」
「優しい方なの。いつも私達に謝ってばかりよ。」
「かの方は、すまないが口癖だ。いい意味で王族らしくはない、本当に周りをよく見てくださる方なんだ。」
アランもトッドも、心底自身の主に忠誠をつくしているらしい、語る言葉には親愛が滲み出ていた。
やがて一行は部屋の手前までついたらしい。塞がれた石の扉の奥からは、仄かに煤のような嫌な匂いが漏れていた。呪いの香りだ、濃ければ濃いほど呪いが強い。サジもエルマーも、嫌というほど嗅いできた。くん、と鼻を鳴らしたギンイロの毛がぶわりと逆立つ。精霊にとって呪いの汚れは忌諱すべきもの。
ナナシが目を丸くして威嚇するギンイロの毛並みを宥めるように撫でるのを見やりながら、サジもエルマーも己の得物に手をかけた。
「やだ、ちょっとまって…なんでそんな戦闘態勢なのよ。」
「俺らと合流する前、王子はどんな様子だった。」
「顔色は悪いけど、いつもどおりだったわ。」
「ふうん、サジ。」
「五分五分だ。煤の臭いが強い。精神が強ければ、軽度で済むだろう。」
「まて、お前たちはなにを…っ、」
ズシン、とトッドたちが背を向けていた石の扉がゆれた。相当な重さのものがぶつけられたのだろう、パラパラと頭上から落ちてきた埃に、石のようなものが交じる。
ごくりと喉を鳴らしたトッドは、意を消して扉を開く為に飛び出てきた石を押し込んだ。ガラララと何かを巻き取るかのような音と共に扉が開く。
漏れ出るであろう光に備えて目を守ろうと手を顔の前に掲げようとした時、トッドとアランの横を物凄い勢いでサジが通り抜けた。
「い、ぁ゛、ああーあ、ぁい、いた、うぐ、あ、あ、あー‥は、ぁは、は」
複音の、酷く曖昧で不快ないくつもの声が言葉を叫ぶ。サジが飛びだした部屋の中は、瘴気混じりの蠢く髪を壁中に張り巡らせた魔獣が蹲っていた。
まるでその身を隠すかのように鉤爪のついた大きな手で頭を抱え、背中から飛び出した棘から血を滴らせる。ふわりと舞う黒く大きな羽が、時折反射で極彩色の光沢を放ちながら幻想的に舞っていた。
部屋全体が黒い髪と不気味な羽の色で暗いはずなのに、輪郭やその巨躯までもが見て取れた。
もしこの部屋にいるのが王子と言われなければ、ひと息に殺していただろう。
いの一番に飛び出したサジは、背後で悲鳴を上げるトッド達を見向きすらせず、その構えていた杖を床に突き立てて叫ぶ。
「名前を言え!理性があるのなら、己の名を叫べ!!」
「ぁ、あは、あ、あぎゅ、っ、ぐ、う、う、ぇ、あ、」
「戻りたいのだろう!お前の名はなんだ!」
声に魔力を乗せているのだろう。サジの声は不思議な揺らぎを纏い、王子の元へと運ばれる。頭を抱える鉤爪の隙間から、金色のまあるい目を光らせて荒い呼吸を繰り返す。
ゴポゴポと嘴から吹きこぼすドロリとした血からは読み取れるのは、時間がないということだった。
「あ、アど、ぉ、おっんん、グァ、あ、あド、ーー‥ぁ、あは、ハ」
「ふむ、まだいけるな。」
「あ、あ゛ど、ぉ、オぁ、あは、あー‥ハは、 は、ドォ、お、っ」
室内に広がる髪に埋れながら、真っ黒の巨躯の魔獣は、喉奥からギィギィと不気味な泣き声を出す。怯えるナナシを庇うように、トッドとアランたちの前に立ったエルマーは、ちゃきりと音を立てて短剣を握る。
不快だ、不快な音だ。
黒曜石のようなつるりとした嘴をぐぱりと開き、背中の棘を威嚇の様に震わせながらズルズルと後退りする。
相対するような真っ白なサジは、その大きな嘴に嫋やかな手を滑らせると、その身で閉じるかのように抱きついて嘴を閉じさせた。
「大丈夫、大丈夫だ可愛い子よ。産まれたてのものがわからないのは当たり前だろう。ほら、ゆっくりと呼吸をしてこの音に耳を傾けよ。」
サジの細腕が、耳と思われる飾り羽の部分に触れる。魔力をのせたピンクノイズだ。まるで母の胎内にいるかのような不思議な音は、荒い呼吸を徐々に落ち着けていく。やがて鉤爪のついた手がゆるゆると外されると、その細いサジのからだに大きな腕が回された。
「サジ、」
「だあいじょうぶだ。サジは死なない、うふふ、泣き虫な赤子だなあ。よしよし、お前の名前をサジに教えてくれ。」
締め付けられるのかと構えたエルマーをサジが制す。魔獣はそのサジの胸に大きな嘴を抱かれながら、よしよしと毛並に沿って撫でられる。
不思議な音を立てて数度震えた背中の棘は、徐々に折りたたまれると、その大きな腕で抱き上げられたサジは、ぐぱりと開かれた嘴のなかに手を突っ込んで舌を撫でる。
服從の証だ。サジはうっとりと目を細めると、その分厚い舌を掬い上げて先端に甘く吸い付いた。
ザワッと極彩色の羽が震えながらその身を揺らす。
サジを殺さないように口を開けたままの魔獣は、抱いていた腕とは別の腕でその巨躯を持ち上げると、後ろ足以外に鳥のような前足が4本。見たこともない魔獣は、抱いている腕以外でお行儀よくお座りをすると、ウルルと甘えるように喉を鳴らした。
「もう一度聞こう。サジに名前を教えてくれ。」
「あ、ロん…だぁ、」
「うまいぞ、その調子だ。」
「あ、ロンだ、ぁ゛と、」
「アロンダート、ふふ、かわいいサジのアロンダートよ。お前は頭がいい。受けた呪いを魔獣になることで祓おうとしたのだな。」
ウルル、喉を鳴らして答えるアロンダートの瞳は、段々と落ち着きを取り戻す。腰を抜かしたままのアランとトッドは、まるでサジの胸にその嘴を擦りつけて猫のように甘える魔獣から出る不快な複音が、徐々に王子の声と重なっていくことに気がついた。
「さ、ジ」
「なんだ。」
「も、ドリ、たイ」
親から転化を解く方法を教わらなかった魔獣は、どうやら呪いを祓うことには成功したが、戻れずに怯えていたらしい。煤の匂いは祓った直後の呪いが充満していたものだったようで、急な転化に体が持たずに苦しみのたうち回ったらしい。
「アロンダート、サジの子よ。お前はトリガーワードでその身を縛らねばならない。ふむ、そうだなあ。」
ジルバも、恐れを成したものの怯える声でトリガーワードを紡がれなければ、魔力の抑制ができずにただの蜘蛛の魔物として理性を無くす恐れがある。トリガーワードとは、半魔のものが転化しても理性を保つのに必要な言葉だ。
初めての転化で怯える王子は、余程精神力が強いのだろう。失いかけていた理性を名前を呼ぶことで保った。
「お前は、愛を込めて名前を呼ばれることを望むか。」
その羽毛にまみれた嘴のついた猛禽類の顔をそっと撫でる。ジルバは他者からの恐れを、アロンダートは、愛を欲しがった。
トリガーワードは自分で見つけるものだ。サジはその答えを知っていた。
「アロンダート、お前を呼ぶよ。愛していると名前を呼ぶ。お前のトリガーワードは、アロンダート。お前の名前だ。」
「あ、いしテ。」
「勿論だ、アロンダート。」
サジの言葉にぼろりと大粒の涙が零れ落ちた。不遇の第二王子は、母から愛を持って名前を呼ばれたかった。愛されたかった。
はらりと羽毛が落ちていく。抱きしめていた鉤爪を持つ猛禽の腕が、しっかりとした青年の腕に変わる。背中の棘が消え、まるで黒い炎で燃えて広がるかのようにその体を覆っていた羽が消えていく。
やがてサジのことを抱き締めたまま嗚咽を漏らす黒髪の美丈夫は、その均整の取れた身体を晒しながらきつくサジを抱き込んだ。
「アロンダート、僕の名は、アロンダートだ。」
「知っている、アロンダート。うふふ、サジのものになれ。サジをその身で守れ、アロンダート。」
アロンダートの瞳は、とろりとした琥珀の色に変わっていた。
サジはそっとその胸にアロンダートの頭を抱き込むと、まるで甘やかすように髪を手で梳きながら頬擦りをした。
「アロンダートよ。お前は身体は大人でも、まだまだ内側は子供だなあ。お前の中の獣がずっと泣いている。」
「サジ様、」
「その身内にしまい込んでいるのがお前の本性だ。何も恥じることはない、これからサジがお前を愛して、怖いものから守ってやろうなあ。」
ぐすりと鼻を啜る。暖かな腕の中は、ずっと焦がれてきたものだった。
半魔の母から産まれたアロンダートは、その腕を知らなかった。豊かな金髪の父と赤い髪を持つ母から産まれた黒い髪のアロンダート。
男で、しかも王の血筋だ。第一王子はいたが、一人じゃ心許ないと、予備として召し上げられた。
産まれたときから母から忌諱され、無理やり手籠めにされた母から与えられたのは、恨みの言葉ばかりだった。乳母は居たが、半魔の母に怯えてまともに育ててはくれなかった。
同じ後宮につかえていた年老いた侍女がこそりと面倒を見てくれなければ、ここに生きてはいなかったのかもしれない。
「サジ様、」
「眠れ。お前は疲れているだろう。体だってボロボロだ。なあに、寝ている間に治してやる。今はゆっくりと休むが良い。」
額に唇を落とされ、まるでそれが呼び水の様に眠気が襲った。
ああ、まだ眠りたくないな。アロンダートは微睡見ながら、そっとサジの頬に触れようとして持ち上げた手をぱたりと落とすと、一粒涙を零してもたれ掛かるように崩折れた。
サジはうっとりとその顔を見つめると、目尻に口付を落として綺麗に微笑む。
サジに救われたのが幸か不幸かはわからない。
エルマーは母のように微笑むサジを見て、この流れが計算じゃないことを祈った。
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