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「俺の子を産ませる。」 あれから、泣きつかれて眠ったナナシを部屋に残して、エルマーは3人がいる場所に顔を出した。 扉を開けた瞬間、サジやアロンダートがなんとも言えない顔で見つめてきたのを見て、おもわずエルマーは端的に言ってしまったのだ。 「この、っ…!!」 「っ、」 目を見開き、絶句していたサジがガタンと音を立てて立ち上がった。突然の動きに呆気にとられていたアロンダートを無視して、サジは振りかぶった。パシンという、乾いた音が響く。アロンダートが止めることができないくらい、それは素早かったのだ。 「なんで、避けぬ!!!」 エルマーは、甘んじてサジの平手を受けたのだ。叩かれた勢いで顔を反らしたまま、エルマーは口端から滲んだ血を擦って拭う。 「避けるわけねえだろ。お前の言いてえ事はわかるしな。」 「っ…、おまえ、…お前のそれは、エゴだぞ!!!」 「わかってんだよそんなことはァ!!!」 サジに胸ぐらを掴まれたエルマーは、その細い腕を鷲掴かみ引き離した。エゴ、そんな言葉、痛いほどわかっている。 サジがエルマーに対してこうして怒りをあらわにしているのも、全てはナナシを大切に思うあまりだ。 「わかってンだよ…俺が馬鹿だってことも」 「お前、ナナシの体がどうなってもよいのか。見損なったぞエルマー。」 「あ?」 ギロリとエルマーの金眼がサジを睨みつける。どうなってもいい、という言葉だけは、許せなかったのだ。 「あいつは、俺の為に人であることを諦めた…。だからあいつは俺の腕の中でしか死なせねえ!!腹ん中のガキも、全部俺のもんだ!!」 「この、業突張りめ!!全部、エルマーの自分勝手ではないか!!責任なんて言葉で、片付けることなど許さぬぞ!!」 「責任なんて綺麗事、はなっから謳うつもりもねえ!!エゴでなにがわりいんだ!!俺が、…どんな、思いで…っ、!!」 今にも殴り合いに発展しそうな二人を、レイガンとアロンダートが慌てて引き剥がす。サジは泣きそうに顔を歪めると、ふるおうとした拳をゆっくりとおろした。 「…ばかもの、いつもお前たちは、そうやって結果しかいわぬ…サジは、嫌いだそういうの…」 「バカヤロー、…引き留められたくねえンだ。わかれよ、」 お互いに、言葉が尻すぼみになる。サジはナナシの細い体で、しかも男性体として負荷がかかることを心配していた。 そして、エルマーはサジの気持ちをわかっていた。わかっていたからこそ、そのサジの優しさでナナシの決意が揺らぐのを拒んだのだ。 「エルマー、前列はないぞ。分かっているのだろう。」  アロンダートがサジを抱き寄せて、諭すような目で見つめる。理性的な男は、癪なことにすべてわかっているといった具合だ。 エルマーは、自分にない大人な一面をもつアロンダートにそう言われ、少しだけ悔しくなった。 それでも、その感情をあらわにすることがどれ程愚かなのかということだけはわかる。 「わかってる…俺がしてやれるのは、さっさとこの戦いを終わらせることだけだ。」 そばにいてやりたい、それならまずは、この野暮な争いを止めなければならない。 アロンダートは小さく頷くと、レイガンを見つめた。 「教えてくれ、君がこの国で何をしようとしていたのか。」 翌朝のことだ。泣きつかれてしょぼつく目をこしこしと擦りながら、ナナシは寝起きでぽやぽやする頭の中、ぼけっとしながらあたりを見回した。 「ふあ……んぅ、……」 もにょ、と欠伸を噛み殺しながら、細い足をそっと床につける。冷たくて気持ちがいい。板張りの床をふらふらとと覚束ない足取りで歩くと、カタリと音を立てながら出窓を開けた。 ふわりとした風が頬を撫でる。そうだ、ここはアロンダートの隠れ家だ。 ナナシはねぼけながら、ふと中庭を見る。 目線の先には、マイコニドと共に芽吹く草花に水やりをしているサジの姿が見えた。 「える、」 エルマーが見当たらない。ナナシはよたよたと歩きながらそっと外に続く扉を開くと、扉の前を守るようにしてレイガンが眠っていた。 「…える、まー‥」 「ん…、…」 レイガンの頭上で、くすんという声が聞こえた。 衣擦れの音がして、レイガンの隣から花のようにふわりとした香りがするので、なんだろうと思って目を開けると、そこには今にも泣きそうになっているナナシが膝をかかえて座り込んでいた。 「ひう、ぅー‥える、ぅ…」 「な、」 ひん…、とめそめそしながら膝を抱えるナナシに、レイガンは朝っぱらから大いに慌てた。まだ寝ている筈だと思ったし、エルマーはナナシの為に朝飯を調達しに行ったためまだ帰ってこないのだ。 あわあわとしながら、下手くそに慰める。 「お、おはよう。君の大切は朝飯を買いに行っている。だからじきに帰ってくるから大丈夫だ、いいな?」 「える、…かえってくる?」 「ああ、だから君は俺と帰りを待っていよう。な?」 「はぁい…」 もそもそと涙を拭うナナシをみて、少しだけホッとした。 目元を赤らめながら、レイガンの隣で膝を抱える。そこに顔を埋めるようにして、ナナシは涙目でレイガンをじいっとみつめた。 「レイガン、ふしぎ。」 「な、なにがだ…」 「こわかったのに、もうこわくない。レイガン、いまはやさしい」 「それは、…そうだろう…」 くふんと笑う。同じ男だというのに、頭が足りない喋り方をするせいか、そういった男らしさというものを感じない。レイガンだって年頃だ、女性経験がないわけではないが、今まで関わってきた女性とはちがう、禁欲的な美しさをもつ眼の前のナナシを真っ直ぐに見つめられるほど、そういったことに慣れてはいなかった。 「…腹の調子、昨日よりもいいな。なにかしたのか。」 「えるとちゅうした、まりょく、もらったら、らくになったの」 「魔力譲渡で育つのか…左目のこともあるが、恐ろしく相性がいいのだな、こんな他人の魔力を抵抗なく受け入れるとは…」 「…ありがとう?」 「ど、う…いたしまし、て。」 もにょ、と口元を緩めて照れるナナシに、なんとも言えない顔をする。 レイガンは、こんなきれいな生き物を見たことがないからわからなかったが、透き通る灰色の髪がベールのように見えて、ひどく神聖なもののように感じた。 その髪に触れてみたくて、そっと手を伸ばす。キョトンとしたナナシが、警戒せずにその手を受け入れるものだから、レイガンは頭を撫でる形になってしまった。 カチャカチャと金属の擦れる音がする。ハッとしてあわてて手を離すと、甘受けし、きもちよさそうに目を細めて撫でられていたナナシが顔を上げた。 「えるまー、」 「おー、起きてたのか。」 エルマーが片手に紙袋を抱えながら帰ってきた。左目の眼帯はそのままに、エルマーはレイガンに紙袋を押し付けると、そのまま軽々とナナシを抱き上げた。 「早かったな。彼も先程起きたばかりだ。」 「人に会うんだろ。なら、朝の支度はさっさと終わらせねえと。」 紙袋から溢れたオレンジを慌てて受け止めると、レイガンは少しだけエルマーの言葉に驚いた。 あんなに嫌嫌な雰囲気だったのに、なんだか少しだけ前向きというか、素直に受け入れるような感じになっていたからだ。 それはもちろんありがたいことなのだが、一番のきっかけは恐らく彼だろう。レイガンはエルマーに抱きついて甘えるナナシを見つめると、少しだけ羨ましくなった。 「まもるものがあるというのは、なんだか羨ましい。」 「何いってんだ。お前が俺らを守るって言ったんだろ。反故にすんのか?」 「ちがう、そういうことではない…。俺は、お前たちの関係が羨ましい。」 守るのは勿論、する。でも、エルマーとナナシのような、相手を想い自ら変わるような護るを、レイガンはまだ知らなかったのだ。 「互いの覚悟があれば、お前にだってなれるさ。」 エルマーの言葉が、なんとなく耳に残った。 レイガンはなんだかそれが悔しくて、気にしてないという具合に話を変えた。 「おまえ、そういえば左目のことは彼らには言ったのか。」 「言ってねえ。つか、昨日の今日だからな。言うタイミングのがしたっつーか…」 「またサジにどやされるぞ…俺は知らんからな。」 「あー、まあ、うん、そのうち…」 目を泳がせながら引きつり笑みを浮かべるエルマーに、吹き出して笑った。さっきは少しかっこよかったのに、もうこれである。振り幅がすごくて面白かったのだ。 「ああ、ナナシと少し話したんだが、腹の子は魔力譲渡で育つようだ。定期的に魔力を与えてやるといい。」 「おう、てかアレだな…城でほったらかした聖石、持っときゃよかった…」 あれが一番の栄養なら、捨て置いたのが少しもったいない。エルマーは、あの石の魔力がナナシの魔力だと分かった今、今更ながら惜しいことをしたと思ったのだ。 「ああ、幽鬼のやつなら回収しておいたぞ。やっぱりあれはお前の仕業だったのか。」 「うっそだろおい。まじでかいつのまに。」 レイガンは初めてエルマーと会ったあの日、ダラスを追いかけている時にそれを回収していた。まったく、紫眼様々である。ひどく汚れていたので分からなかったが、ニアが反応したおかげでしっかり拾うことができたのだ。 酷い場所だった。あたりは煤けて、燃えカスと一緒に転がっていたのだ。 「ニアは水神だ。魔物の汚れを払うことができるんだ。ほら、」 「へびさん、」 レイガンの服の中から、美しい白い蛇が顔を出す。ナナシの指先にその鼻先を触れようとした瞬間、銀色の毛玉が邪魔するように天井から現れた。 「サワルナ!」 「うわ、っ!」 シュー、と細く鳴く蛇が、慌ててその身をレイガンに絡ませた。突然現れたギンイロは、その美しい毛並みをぶわりと膨らませながら威嚇をする。 あのときのことを忘れてはいないようだった。レイガンが飛び退ると、本性を表した狼のような姿になる。その長い尾でナナシを守るようにして前に立つと、ニアも負けじとぶわりとその身を、膨らませた。 「ウウウウ!ワスレナイ!オマエヒドイコトシタ、ナナシコワカッタ!!」 「狭い!!こんな廊下で変化するんじゃねえ!!」 「ギャインッ!」 低く唸っていたギンイロの尻を、エルマーが引っ叩く。ナナシが心配だったのはわかるが、もうその問題は解決したのだ。レイガンの方を見れば、ニアの美しい肢体をよじ登るかのようにして顔を出していた。 「ニア!怯えなくていい、もう俺は大丈夫だ!」 「…本当に?」 「ああ、言わなくて悪かった。もう彼らは仲間だ。」 鈴の音が転がるような女性の声がしたかと思うと、ニアはその首を床擦れ擦れにまで下げるとナナシを見上げた。ギンイロはよほどエルマーの平手が痛かったのか、ぽひゅんと情けない音を立てて元の大きさに戻ったかと思うと、ナナシの腕の中で尻尾を抱きしめながらグズグズと泣いていた。 「ナンデエ、エルマータタク、エーン」 「はわ、よしよし…」 「待て、お前その蛇喋んのか!?」 はむはむと尻尾を毛づくろいするように喰みながらナナシに甘えるギンイロをほうっておくと、エルマーはぎょっとした顔でニアを見た。 よく見るとレイガンと同じ紫の瞳をしている。理知的な瞳は真っ直ぐにエルマーを見ると、物怖じしたように少しだけ身を縮ませた。 「ニアだ、当たり前だ。一応神の端くれだぞ。」 「信仰がたりない、それは私のせいではない。レイガンはいじわるだ…」 「いや、まあ…済まない…」 シュルシュルとその身を巻きつけるようにして程よい大きさまでに体を変化させると、鎌首をもたげるようにしてナナシの指先に顔を近づけた。 ぶわりと毛をふくらませるギンイロの毛並みを撫でて宥めてやると、ナナシは細い指先でニアの頭をそっと撫でた。 「きれいなおめめ、」 「ありがとう、あのときはすまなかった。あなたが防御膜をはらなければ、腹の魔力は散ってしまっていたかもしれない。」 「ううん、わざとじゃないってしってたよう」 「全部レイガンが悪い、私は嫌だといったのに。あいつはそういうところがある。」 「おい、なんてこと言うんだおまえは。」 ギンイロと比べて、余りにも人間臭い。レイガンとの軽口のようなやり取りも妙に慣れており、エルマーはもはや考えることをやめた。 「あなたは私とおなじだ。ああ、なんて理知に富んだ瞳。あなたに見つめられると、ニアは嬉しくて脱皮しそう。」 「は?」 「あなたが番か、素敵な金色、ニアは粗野な男臭さもすき。抱いて」 「は!?」 白い肢体をしゅるりとエルマーに巻き付けると、ちろちろと頬をくすぐる。考えることをやめたばかりなのに、エルマーの人生のなかで蛇に求愛されるとは思わなく、思わず動揺して声が裏返ってしまった。 頭が痛そうにレイガンがため息を吐く、もう諦めている様子だった。 「…すまない…ニアは酒と良い男が好きなんだ…」 「あなたになら、捕食されてもいい。」 「いい加減エルマーから離れろ、ニア」 エルマーはその身を擦られるようにして巻き付かれていた。しゅるりと股間をひと無でして開放してくれたニアの後ろ姿をみながら、なんつー神さまだと遠い目をした。 大人しく敏い美しい蛇が、その後屋敷に戻ってきたアロンダートとサジにも同じテンションで行くものだから、若いのに少し老けて見えるレイガンの老成した雰囲気の理由がなんとなくわかった気がする。 「俺、お前の事偉いなって思ったわ。」 「エルマーお前…、それは思っても口に出さないでくれ。」

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