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ジクボルトの目は、すっと細まった。ナナシの目は確かに透き通った金色で、あまりに美しかった。
その虹彩は、エルマーの左目に収まった虹彩と瓜二つ。
ナナシはジクボルトの言葉の意味がわからなかった。
「ナナシ、の…?」
「君たちが出会ったのは、金眼が引き寄せたからだ。知っているかい?君たちの存じている邪龍の、もう一つの姿を。」
「もう一つの…?」
ジクボルトがよいせっと倒れたエルマーを担ぎ上げ、ソファに寝かせる。
サジもアロンダートも、エルマーの左目がいつもと違うことに戸惑いながら、続きを促すようにして口を噤んだ。
「ほら、ダート。復習だ。君は王族だったろう?」
「な、んでそれを…」
「わかるさ!だって、僕は死化粧をするんだよ?君が仮死薬を飲んだことなんて、棺にしまった時点でしっていた。」
ジクボルトは、だって僕葬儀屋だしとニッコリ笑うと、さあさあと邪龍の伝承についての話を促した。
アロンダートは戸惑いながらも、小さく頷く。
王族として学んできたものの中に、始まりの大地に降り立った龍の話も学んでいたが、その事実は一つしか知らなかった。
ーー厄災の龍、その地に降りたし彼の者の、もたらす災禍は国をも絶やす。立ち上がりし四人はその血肉を滅ぼし災禍を屠る。彼らが築きし礎は、呪いを抑える枷となる。
アロンダートが記憶をなぞるようにつぶやく。ジクボルトは出来のいい生徒を褒めるように拍手をすると、パチンと指を鳴らした。
ふわりと飛んできたのは、酷く古びた本だった。表紙も読めず、紙は黄ばんで触れるのも戸惑うようなそれをレイガンの元に運ぶと、大切そうに受け取った。
「まあ、ここに南のものは居ないんだけど。ここに集結したのは西、東、北の国の者たちさ。ダート。君が語った伝承が、本当にすべてだと思うかい?」
「…僕は、そう習ってきたが、違うのか。」
「ウンウン、じゃあ違和感を感じたことは?」
「違和感、」
アロンダートはもう一度頭の中で伝承を思い起こしてみたが、とくに違和感は感じなかった。これが事実として広まっているし、それはこの国に住むものならあたりまえだったからだ。
「違和感は、とくには…」
「そこなんだよ。」
ぴしりとジクボルトが指を立てて、やれやれというように肩をすくめる。
「僕の国では、こう。」
ーー厄災の龍、その地に降りたし彼の者の、もたらす災禍は国をも絶やす。立ち上がりし四人はその血肉を奪いし災禍を屠る。彼らが築きし礎は、呪いを抑える枷となる。
「奪いし…?滅ぼしではないのか?」
「これね、対象がおかしいんだよ。」
ジクボルトはそういうと、羽ペンを取り出して空調に文字を書き始めた。
淡い水色の光を放ち、サラサラと書いていく。鏡文字になっていることに気づいたアロンダートがジクボルトの後ろに回ると、サジもつづいた。
「血肉を滅ぼし、は東の国。つまりは皇国が主体となって倒したってことだね。それにくらべて西の国、まあジルガスタントはこれ。血肉を奪いし。どう?」
じっと見つめていたサジが、口を開いた。
「血肉を奪いし、は…龍ではないのか?」
白い嫋やかな指が文字をなぞる。一文を繰り返しつぶやきながら出した答えは、ストンと文章の流れをきれいに繋げた。
「さすがエルダちゃん!!そう、そうなのよ!!ジルガスタント側の伝承だと、龍が国民の血肉を奪いしってなるの、つまり、このあとの災禍は国を絶やし、という部分がきれいにつながる。」
「一見、まとまりがあるように見えるが、たしかに…血肉を滅ぼし災禍を屠る、だと…2度殺すという意味になるな。」
「ね、皇国ってすっごい慎重に殺すんだねえ!僕なんかよりずーーーっとサイコパスだねっ!」
はしゃぐように拍手をするジクボルトとは反対に、アロンダートは顔を青ざめさせていた。今まで、この伝承をなんの違和感もなく受け入れてきた。それは、皇国が主体となって広めた伝承だと言われてきたからだ。伝承の始まりの国が、間違える事など無い。そうも思って学んでいた。その前提が、そもそも間違っていたのだという。
ジクボルトは、まるで皇国が建国当初からなにか秘密を隠してきたのだと言うことを、こうしてアロンダートたちに伝えたのだ。
「これは、僕達だけなのか…。」
「そうだね、この大地は地続きだ。意図的に変えない限り、伝承は何処も同じだよ。」
「そう、か…」
レイガンは難しい顔をしたあと、エルマーのそばで小さくなっているナナシを見つめた。びくんと肩を揺らす。また怖くて訳のわからないことを言われるのだろうか。そういった顔でナナシは見つめ返した。
「皇国は、隠しているのだ。それに、厄災のきっかけはどこの文献にも書いていない。それを何故誰も、変だとは思わないのか。」
廃れた本を撫でるレイガンの言葉に、ナナシの瞳が揺れた。なんだか、その言葉が小さな突起となってナナシの内側をチクチクとさすのだ。
吐息が震えそうだ、はくりと小さく息を詰めたナナシの微かな変化を、ジクボルトはしっかりと捉えていた。
「金眼の持ち主は、災禍の邪龍だ。でもそれだと、なんでそんな災いのもとを国宝にするのかってね。」
「まて、お前さっきナナシに言ったよな?金眼は君のものだとか。」
「そう、僕はそう思っている。」
ニコニコ笑うジクボルトは、ナナシの頭をわしゃりとなでた。訝しげな目を寄越すサジに向き直ると、悩むように指先で顎をなぞった。
「うん、うんうん…レイガンから聞いたよ、君は聖石を取り込むのだろう?しかもただの聖石ではない、巷で噂の呪いの土からでたものだ!」
ナナシはジクボルトの言葉に小さくうなずくと、不安げな顔をした。怖いことを言われたくなかったのだ。ジクボルトの言葉で、もしサジやアロンダートに嫌われてしまったら。
きゅう、とエルマーの手を握りしめる。くすんと愚図り、縋るように手のひらに額をくっつけた。
「その呪いの土、何でできているのか気になるだろ。」
ジクボルトは取り出した龍玉をくるくると手の中で遊びながら、羽ペンで下手くそな龍の絵を描いた。
「こちらに金眼。そして龍玉。じゃあ残りの体の部位は?それも分け合ったろう。南の国は鱗と爪だったかな。これはきちんと大聖堂に管理されている。僕はこの目で見たから安心してくれ。」
下手くそな龍の絵に書き込みをしていく。ジクボルトは羽ペンでさらさらと落書き混じりに説明した。
「沈んだ北の国と、国宝自体ないと思っているジルガスタント。ここも恐らく、いやまあ間違いなく分け合ったろうねえ。立ち上がりし四人は建国の礎となった者たちだろうし。四人仲良くわけわけしました、と。」
なにをもってったかしらないけど、とクエスチョンマークを国名の横に描く。満足したのか、くるりと振り向くと、アロンダートは真っ直ぐにその絵を見つめていた。
「災禍の邪龍、そんな、討伐の証のように剥ぎ取ったとしたら、血肉はどうなる…」
パチンとジクボルトが指を鳴らした。アロンダートの答えが満足のいくものだったらしい。サジが震える手で口元を抑えた。
「いらなくない?だって今だってそうでしょう。血も肉も、食べれないものは捨てちゃうでしょう。」
人間は、上辺だけしかいらないのさ。そういって肩をすくめる。
恐ろしいことだ。魔物の剥ぎ取りも、この邪龍の討伐後から常識になったのかもしれない。人間が作った常識、そして人間の中で、血も肉も内蔵でさえ、それは等しく汚いものだ。
「呪いの土。もしそれが、邪龍を倒したあとに出る、忌諱するものだとしたら…それって普通の土じゃなくない?」
「呪いの土は、人を幽鬼にさせる。そして、幽鬼にされたものが吐き出す魔石は、なんでか聖属性をもつ…。」
「そして、その聖石は…」
レイガンはそっと聖石をとりだした。あの日、白で手に入れていたその二つの聖石をナナシの前に差し出した。
四人の目が、ナナシに向いた。は、は、と小さく震えながら浅い呼吸を繰り返す。レイガンが難しい顔をしながら、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「ナナシ、怖いか。」
「や、やだ…やだよう…い、いらな…い、…」
「大丈夫だ、俺は護るためにここにいる。恐いだろうけど、恐れなくていい。」
レイガンの眼は、まっすぐとナナシを見つめていた。じわりと涙が滲む。ナナシはわかっていた。記憶を取り戻したときから、そうじゃないかと思っていた。
レイガンの手のひらの上の聖石がつるりと光る。体は小刻みに震えて、助けを求めるようにサジを見上げた。
「見捨てぬ、そばにいる。」
サジが真っ直ぐにナナシを見つめた。アロンダートもコクリとうなずく。ナナシはその言葉に、ついに耐えきれずにぼろりと大粒の涙をこぼした。
ひっく、と嗚咽を漏らしながら、震える指先で石を摘む。瞬間、滾々と光の泉が湧き上がるかのようにして純粋な光が溢れ出す。ぽろぽろと涙を溢しながら、そっと手のひらで汲むように口をつけてコクリと飲み込む。ふわりとした暖かな魔力がナナシの周りを包み込んだ。
ああ、満ちていく。悲しくて、認めたくなかった。それなのに優しい魔力は緩やかに身の内側へと染み渡っていく。腹に根付いた小さな大切が、それを喜ぶように反応した気がした。
「ああ、やはり美しい。」
ジクボルトの感嘆とする声が漏れた。
光の奔流が収まる。まるで祝福するかのような光の粒がそっと変化を遂げたナナシのその身に降り注ぐ。
キラキラと輝く金の虹彩から白磁の透き通った肌に光を溢し、灰色の髪は息を飲むほど滑らかで美しい白に変わった。その華奢な身をベールのように包んだ髪の間から覗かせた顔は、筆舌に尽くし難い美しさを讃える。
長い睫毛を涙で濡らしながら、ゆるりと顔を上げる。長い髪に埋もれた獣の耳が、白く美しい捻れた枝のような角が、その神聖な雰囲気と相まって宗教画のように見えた。
「える、まー‥」
鈴の転がるような、陽光を待つ花の綻ぶ音のような、それでいて透きとおった冬の空気のような、不思議な声色で言葉を紡ぐ。
コクリと飲み込んだ音が、誰のものかはわからない。ただそこに現れた聖なる人外が、寂しげに泣く。
「ナナシは、…ナナシでいたい…えるの、えるのナナシで、いたかったよう…っ…」
ひっく、と嗚咽を漏らしながら、はらはらと涙をこぼす。神聖なオーラを放つ眼の前のナナシに、誰も声をかけることができなかった。
「……、みつけて。えるが、…とじこめたナナシのほんとうを、えるがみつけて…」
ソファに横たわるエルマーを、覗き込むようにナナシが見る。その赤髪をそっと避けると、焼け爛れた左目の傷にそっと口づけた。
エルマーの顔を優しく包み込む。額や鼻、頬に唇を滑らせながら、ゆっくりと唇を重ねた。
差し込んだ舌でナナシの魔力をゆっくりと与える。
そっと顔を離すと、エルマーを抱き締めるようにして横たわる胸元に顔を埋めた。
「ナナシ…?」
エルマーの胸元に頬をつけたまま、動かなくなったナナシに、サジが戸惑った声を上げる。
そっとその背に手を触れ撫でても、反応は無い。ジクボルトははっとした顔をすると、そっとナナシの口元に手を添えた。
「息をしていない。もしかしたら、夢渡りをしているのかもしれない。」
「夢渡り…?」
「仮死状態のエルマーは、龍玉に触れたろう。彼は今、この中に刻まれた記憶を辿っている。」
「まて、ナナシは自分から追いかけに行ったのか!?」
サジは目を見開いた。刻まれた記憶とは、あの時のゾーイに見せられた悪夢そのものを辿るというのとだ。ナナシはひどく痩せていた。よほど恐ろしい記憶にとらわれていたに違いなく、再びその中に身をと投じたということは、また同じ悪夢にとらわれるという事だ。
「もっと悪いよ、ナナシくんは見つけてと言っただろう。それに、龍玉の最後の記憶は死でしかない。呪われた土になる過程を、エルマーくんが見つけるまで繰り返すということだ。死にはしない、けど…彼が見つけ出すまで、繰り返す。」
「まて、エルマーが見つかるまで、ナナシは死に続けるということか!?」
澄んだ青色の宝玉は、魂そのものだ。辛い記憶を刻みこむ度に、その美しさは少しずつ磨かれていった。人外が心を学ぶたびに研磨されていったそれが、今世では感情をえたナナシが傷つく度にその珠には罅が入っていく。
心根は違えど同じものだ。受け入れる器が違えば、その負担はダイレクトに魂に響く。
ナナシの心の宝玉が、完全に割れてしまう前に、エルマーがナナシの本来の姿を見つけ出すことができるのか。
アロンダートもサジも、守るといったレイガンでさえ手が出せない。ジクボルトは難しい顔をしながら、今は待つしかないよ、とひどく落ち着いた声で呟いた。
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