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どこだここ。 エルマーが目を開けて真っ先に見たのは、雲ひとつない青空だった。 「………。」 ムクリと起き上がる。こんな地べたに大の字で寝転がっていた割に、石や土での汚れはない。ただ気持ち的になんとなく汚れを払うように服を正すと、きょろりとあたりを見回した。 針葉樹林が目指すように空に向かって伸びている。 ぼりぼりと頭を掻きながら、なんでここにいるのかを考えたのだが、全く思い浮かばない。 くんくんと鼻を効かせてもなんの匂いもしないのだ。 不思議だ。 「森の匂いもしねえ。まじでどこだここ。」 いつまでも座っていても埒が明かない。エルマーは立ち上がると、軽く柔軟をしてから目を瞑る。魔力の流れを確かめるためだ。 毎朝の日課で、全身に魔力を行き渡らせて流れを確認する。神経の一つ一つまで漲るのを確認すると、身体機能を高めるために足に触れた。 「…………ん?あ?」 もう一度足に触れる。 「あり?」 エルマーの魔力はたしかに感じ取れる。しかし、それを行使することができないのだ。 身体強化がつかえない。それが使えないとなると、少し、いやかなりまずい。 「…武器、鎌…あ?荷物がねえ!?」 せめてとインぺントリの中を漁ろうとしたが、そのインペントリ自体が見当たらない。エルマーの惟一の武器は腰に指したホルスターの中の短剣と、空魔石のハッタリ程度の地雷だけだ。 「……、ええ。」   まじかよ。こんな訳のわからない森で、ほぼ手ぶらで駆け抜けるのか?意味がわからない、一体どんな縛りだと頭の痛い思いでため息を吐く。なんだか見たことあるようなないような、自分の記憶が心配になる景色だ。まあ、森はどこも同じだと言われたらそうなのだけれど。 意味もなく靴紐を結び直す。ホルスターの留め具を外していつでも抜ける様にすると、風が向かう方向に歩きだした。風圧を感じないので、頼りは木々の揺れや地べたを滑る木っ端頼みである。 砂利道を歩いているはずなのに、その感触もない。まるで浮いているような不思議な感覚だ。 どれくらい歩いただろう。エルマーが一休みをしようとして、大きな木の根本に腰掛けようとして、目線の高さにどぎついピンク色の甲虫が幹に張り付いていた。 見たこともない種類だ。虫は薬の原料にもなる。エルマーはしばらく座ろうとした中腰のまま、角の生えたよく分からないその虫がカサカサと動くのを見つめ、好奇心に負けてそっと触れようとしたときだった。 「は。」 するんと抜けた。 甲虫の殻を突き抜けたエルマーの指先は、結構な深さまで埋まっている。頭に疑問符が浮かんでは収束がつかない。甲虫はエルマーの指が突き刺さっているというのに、気にもしないで動くのだ。 ぶわりと、嫌な汗が吹き出す。手のひらを広げ、甲虫を押し潰すように木の幹に押し付けた。手首まで埋まったところで、エルマーはよろよろと後ずさった。 なんだこれ、 「…っ、」 ガサガサと音を立てて叢からホーンが飛び出してきた。めったにお目にかかれない男鹿の立派な体躯を持つ魔物が、エルマーに向かって飛びかかるのだ。思わず構えるも、ホーンは気にせずエルマーの体をすり抜けていくと、あとからきた大型の熊の魔物も、まるでその体を無いものとして通り過ぎていく。 呆気に取られた顔で、それらを見送ったエルマーは、震える手で顔に触れた。自分では触れる。それなのに、自分が他のものに触れようとすると、すり抜けてしまうのだ。 「はあ、っ…は、っ…」 気持ちの悪さに呼吸が乱れる。どくどくと忙しない鼓動は体の震えに繋がっていく。ここで倒れても、誰にも気づかれずに死ぬのかもしれない。いや、もしかしたらもう死んでいるのか? そっと左目に触れた。ごくりとエルマーの喉が鳴る。指先にたしかに感じ取ったのは、失ったはずの左目の感覚だ。 「なんで、ある…」 左目がある。足りてないものがそこにはまっているのだ。なんで、が頭を埋め尽くす。 よろめきながら、彷徨うように歩いた。 エルマーは纏まらない思考を、正しく纏まりのあるものにするために、左目を抑えながら当て所無く歩く。 集中しすぎて唾液が溢れても気にせず、浅い呼吸を繰り返しながら、ただ集中して己の中の記憶をかき集めた。 寝る前、いや起きる前に何が起きたのか。 何かあったはずなのだ。笑えることに、気づかないまま死んだ?そんなはずはない。余程イレギュラーなことが起こらない限り、常に警戒はしていたはずだ。人や魔物が襲いかかっても、たとえ武器がなくても負ける気はしない。 なら毒?それもちがう。毒なら香りでわかるはずだ。悪意のないなにか。その何かがわからない。 わからないからこそ、抜け落ちた部分の記憶が必要なのに。 森を抜けて、開けた場所にきていた。空に向かって突き抜けるように生えていた針葉樹林はもう背後の方にまとまっており、エルマーはふと景色が変わったことに気づくと、背丈の低い草花に隠されるように、地べたは赤土に変わっていた。 目の前を葉が踊るように過ぎ去る。この葉ですら感じられる風が、エルマーにはわからない。 風の通り道を探るように歩いてきたつもりだったのに、集中しすぎて忘れていた。 エルマーはさわさわと流れるように揺らぐ草がどこまで広がっているのか、確認するように顔を上げる。 くるりと見回す。まるで何か大きなものが横たわり、へこんだ跡のように窪むそこを、覆うようにしてその草花は生えていた。 ずず、と地響きのような音が聞こえる。何か大きくて白い物が、その窪地に体を擦り付ける様にしてズルズルと落ちていく。なんだろう。エルマーは自分はどうせ見えないのだと知ってしまった以上、遠慮することもないかと近づいた。 そっと窪地を覗き込むと、それは大きな獣だった。 「…狼、か…?」 白銀の毛並みを纏い、頭からは木の枝のような立派な角を生やすそれは、不思議なことにオーロラのような神秘的な色合いを持つ鱗で脚や尾の付け根、むき出しになった皮膚を覆っていた。見たこともない魔物だ。 白銀の毛で覆われた四肢は、装飾のような鱗を輝かせながら青色の炎のような物を纏っている。目の色は分からないが、きっと美しい色をしているのだろう。 呼吸が深い。きっと、もう死ぬのだ。 エルマーは見知らぬ獣を看取ってやりたくて、窪地に降りた。触れられないことはわかっているが、近づいたその巨躯は、その頭だけでエルマーの背丈の半分ほどだった。 なにかの気配を感じたのか、その魔物がふるりと身を震わした。ゆっくりと開かれた瞼から溢れたのは、息を飲むほどに美しい色をした金の瞳だ。 虹彩から溢れるような細かな光が、長いまつ毛に反射して白銀の毛並みを染める。 きゅるりと細待った瞳孔に、エルマーは目を見開いた。 「…もう、いくのか」 今にも零れそうな涙の膜が、その魔物の瞳を覆う。 この魔物はこんなに大きいのに、やけに泣き虫なようだ。 エルマーは通り抜けるとわかっていて、そっとその目の下を撫でた。 数度瞬きをし、ぼろりと涙を零す。深い息を吐き出しながら、ゆっくりとエルマーを目に焼き付けるかのように、瞼を閉じて終わりを迎える魔物。 エルマーは目を逸らさずに、ずっと最後の一呼吸まで見つめていた。 呼吸が止まる。瞼の奥にある宝石の瞳を、もう見ることができないのかと思うと酷く悲しかった。 ぽつりと白い光が降ってくる。エルマーはもう動かなくなった亡骸のそばで座り込みながら、ぼんやりとした目でそれを見ていた。 「ああ、雪だあ…あいつ、見たらきっとはしゃぐだろうなあ…」 そっと落ちてきたそのひと粒を手のひらに受け止めようとした。やはりこの身では無理らしい。 エルマーは、なんだかこの魔物のそばから離れがたくて、隣でぼんやりと座り込んでいた。もたれかかりたいが、おそらくすり抜ける。 毛並みを撫でてやるように触れても感触はない。 「あいつ、…?」 そっと唇に触れた。記憶がまったくないはずなのに、あいつと出てきた。なんだかよくわからないが、エルマーはそれを思い出したかった。 とても大事なものだ。エルマーがすべてを捧げたいと思える人。自分がなんでここにいるのかはわからないが、願うなら、あいつに会って抱きしめたい。 「顔見たら、わかっかな。」 わからないのだ。記憶に浮かんできたのは、薄ぼんやりとしたシルエット。まるで酷く荒いすりガラス越しに見たような曖昧な人影を、エルマーは求めていた。 会いたい。そう思っていると、ざわりと空気が変わった。 「…っ、あ?」 突然、空が一気に動き出したのだ。夕闇が恐ろしいスピードで西の空に吸い込まれていったかと思うと、突然東から朝日が登る。エルマーと魔物の亡骸の上を、いくつもの雲の影が通り抜け、空の色がぐんぐんと忙しなく変わっていく。 ありえない光景にあっけにとられて見上げていると、その突然の変化は徐々に収束してきた。 あまりに驚きすぎて、よろよろと座り込んだ。エルマーが見上げていた数分間で、一体いくつもの夜を超えたのだろう。 魔物の躯は雪にまみれたせいで腐らずにいる。 そしてエルマーは、小さな違和感に気がついた。 「…消えてねえ。なんでだ…」 普通、魔物は倒されると黒くなってホロホロと崩れるようにして魔素に変わるのだ。エルマーの目の前に横たわる魔物は、いまだ綺麗なまま横たわっていた。 困惑しているエルマーをよそに、自体は急転した。 ーーーー!!ーー、ー! 「っ、」 聞き慣れない言葉を話すいくつもの気配が、窪地を囲むようにして現れた。その魔物を指差し何かを叫ぶと、ぞろぞろと男たちが何かを叫びながらエルマーを通り過ぎて魔物の前に降り立った。 みな、目の色を変えて魔物を見ていた。きらきらと宝の山を見つけたような顔をして、大きな剣やら鎌やら、そんな物騒な武器を背負いながら、嬉しそうに喜んでいるのだ。 なんだこれ。エルマーは訝しげな顔をして、成り行きを見つめていた。 そんな目もしらぬ男の一人が、部下に首を抑えるように指示をした。 「え、」 ひゅう、と大きく剣を振りかぶった瞬間、まるで当たり前だと言うようにそれを魔物の首に振り下ろした。 そこからは、もう地獄だ。 エルマーが幾ら止めろと叫んでも、飛びかかっても止まるものはいない。当たり前だ、実体がないから、誰も気にもとめない。美しい白銀の毛皮が、鱗が、牙が、頭蓋が。そしてこぼれるように落ちた、金色の眼も、何もかもが残酷に剥ぎ取られていく。 エルマーは余りの酷さに何度も嘔吐した。やめろと何度も叫んだ。それでも、誰も、まるでとりつかれたように愚かな行為は止まらなかった。 美しい獣が、死んでなお穢される。大きな体躯の男が肉塊になった体に剣をつきたて、なにかの塊を取り出した。 掲げるように手に乗せられた神秘的な青色の宝玉をエルマーが目にした瞬間、ぶわりとすべての記憶が脳に流れ込んできた。 「ぁ、くっ…あ、ああ、あ、ああ…」 まて、それは、もしかして。 どくんと心臓が高鳴った。じくじくと左目が熱を持ち、エルマーは膝から崩れ落ちた。 ころりと転がったあの金眼は、あの塊は、 はくはくと口が震える。ちがう、違う。 きらりと血塗れの手で掲げられた龍玉が煌めいた瞬間、再び勢いよく景色が動いた。 エルマーの見開かれた目に、早送りされていくかのようなコマ割りの動きで人が消えていく。肉塊と血で染められた土が優しく雪に包まれ、木々が枯れ、草木が芽吹き、窪地に真っ白な花が溢れるように咲き乱れる。 エルマーは、ただ顔を手で覆ったまま、指の隙間からその光景を見つめていた。 これは、記憶だ。 肩で息をする。情報が止まず、ガンガンと頭が痛い。目からは涙が止まらず、ただその肉塊が自然と朽ちるのを見つめていた。 そして、再び景色が止まった。 ガクンと、膝から崩れ落ちたエルマーは、肩を震わしながら地面に涙を染み込ませる。 辛かった。こんなに辛いことがあっていいのか。そう思うくらいには、精神的にダメージを食らっていた。 ーー、みつけた。 「……?」 耳に入ってきたのは、聞き慣れぬ声だ。 エルマーの体をすり抜けて、白い靴を履いた小柄な男が窪地の花を散らしながら、中央にむかっていく。 男は、体に似合わず仰々しい司祭のような格好をしていた。窪地には、最初に見たときにはなかった台座のようなものを柱で囲み、まるで神殿のような建物ができていた。 エルマーはぼんやりとした思考でその神殿の中に入っていく背を見つめていると、持ってきた木の棒でガリガリと台座に陣を書き始めた。 「やめ、ろ…」 もう、そこを荒らすのは辞めてくれ。エルマーはよろよろと男のそばに行くと、刻まれた陣を消そうと必死で地べたを荒らそうとした。 無理だとわかっていても、どうしてもそっとしておいてほしかった。 ーこれで、…は、…え、…る 肝心なところは聞き取れない。長々と陣を書き終えた男は、項垂れるエルマーの目の前に、金色の宝玉を放り投げた。 あの時、奪われたはずの金色の宝玉、龍の瞳。 花をちらして転がった瞳が、中央にまねかれるように最も複雑な陣の中に収まると、ぶわりと陣をなぞる様に緑色に光るまばゆい光が広がった。 ふわりと陣が浮き上がる。地面から離れた陣が、金眼をホロホロと消す様にして取り込んでいくと、その陣が上に浮き上がると共に白いつま先が現れた。 「は…、っ…?」 これは、構築しているのか。 周りの土から赤黒い細かい粒が彷徨うように陣の中に吸い込まれていく。しゅるしゅると出てきた白い肢体の人間は、どうやら男のようだった。 首から上が、徐々に顕になっていく。 ふわりとした長い黒髪が、重力に負けて体を撫でるように一房落ちると、全貌を顕にしたその少年はどしゃりと台座の中央に産まれ落ちた。 ーー、ーい。おきろ。 くたりと体を投げ出した少年の黒髪がさらりと流れる。薄い胸をゆっくりと上下させ、こてりとエルマーの方に顔を向けた。 目の周りは、ひどく焼けただれている。片眼は白くにごり、薄く開いたもう一つは、透き通った金色をちらりと覗かせた。 「ーーーナナシ、!!!!」 ひゅう、と喉が鳴く。エルマーの全身は、衝撃で総毛立った。そこにはエルマーの大切、たった一人の大切が、ひどい状態で横たわっていた。

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