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やめてくれ!!エルマーは悲鳴を上げながら、男がナナシの首に手をかけるのを見て取りすがった。
するりと抜ける手がもどかしい。懐から出した小瓶を、無理やり押し込むように口に含ませる。
必死で抵抗をするナナシの細い腕が、無情にも空を掻く。白く濁った瞳から、ポロリと涙をこぼした。
ー欠陥品…て、…れなお…
「あああ、やめ、っ…やめろ!!やめろおお!!」
いやだ、エルマーが助けようとしているのは、出会った頃のナナシだ。このままだと命の灯が消えてしまう。くるりと金の目玉が上を向く。エルマーは守るようにナナシの上に覆いかぶさっているのに、男の腕はすり抜けて細い首を締め上げるのだ。
「ナナシ、っ…おい、抵抗しろ…、頼む、から…っ、…なあ…!!!」
戦慄くナナシの唇の震えが止まった。上を向いた眼がゆっくりと閉じられる。伸ばされた小さな手は、触れられないはずなのにエルマーの頬に撫でるようにして力尽きた。
瞑ったまぶたから滲んだ涙が、目尻から頬を伝う。
ひく、とエルマーの喉が震えた。
「あ、ああ、あ、あああ、ああああ…」
これは、悪夢だ。
エルマーは、ナナシの顔に額を重ねるようにしながら蹲った。ちくしょう。悔しさとやるせなさが、涙となって溢れ出る。この手で触れたい、触れたいのに触れられない。
やがて、遣る瀬無さはふつふつとした怒りに変わる。
勢いよく振り向くと、その手を男の首めがけて突き出し襲いかかった。
「殺す!!殺してやる…!!!」
見開いた目から溢れる鋭い虹彩が、まるで余韻を残すように軌跡を描く。真っ直ぐに捉えた男の顔に目を見開くと、エルマーの殺意ある拳は、やはりそのまますり抜けた。
しかし、様子は何だか変だった。
ーーーあああ!!
突然、エルマーの目の前で男が頭を抱えてのたうち回り始めたのだ。
「なんだ、…っ、」
地べたに転がり、悲鳴をあげながら仰け反る。顔を隠していた布がバサリと取れ、その素顔が顕になった。
エルマーは絶句した。あり得ないと思っていた事が、目の前で起きたのだ。
心臓をおさえ、苦しげに呪詛を吐きながらのたうち回っていたのは、ダラス祭祀その人だったのだ。
「っ…」
見開かれたダラスの目から、赤黒い血がこぼれた。びくんびくんと体をはねさせ、その顔を覆う手の皮膚が、亀裂が入るようにして捲れていく。
エルマーは息を呑んだ。そのまくれた皮膚の下は、どす黒く干からびた皮膚のようなものが見えたのだ。
「なん、…」
掠れた声が口からでた。なんなんだ、これ…、と。
そして、エルマーがその顔をよく見ようと屈もうとした瞬間、ガパリと地面から現れた黒い円が、エルマーの踏み出した一歩を飲み込んだ。
「ーーーーっ、!!!」
ひゅう、と落下の直前に地面の縁を握ろうとしたが、それも許されずにエルマーは重力に抗えずに暗闇に飲み込まれる。
自由落下だ。光の円がずっと上の方にある。エルマーは長い髪を風圧に巻き上げさせながら、ぎり、と口端を噛む。
「ナナシーーーーーー!!!」
ありったけの声で叫んだ。これが記憶なら、絶対に覆らないだろう。もう、過去に起きたことは消せない。エルマーは、ナナシの塞がれた記憶を見せられたのだ。
「今行くから…!!!!待ってろ…!!!!!」
迎えに行く。必ず。
ふわりと景色が変わる。エルマーの眼下に広がったのは、戦火に燃える都市だった。そこがどこかはわからない。海沿いのその都市は、大きな建物が崩れ落ち、炎が舐めるように逃げ惑う人を襲う。
金色の瞳が、その火炎でオレンジ色に染まる。錦の御旗は皇国の意匠がついていた。
兵士が、叫びながら逃げ惑う人を襲っていた。十字のマークは、もう無くなったはずの救世軍のものだろう。
ああ、これは魔物が死んでからの世界か。
エルマーは、胸をつまらせながら睨みつけた。燃える都市を、そして、皇国の御旗を。
全部、全部狂ってやがる。隠したいことは、これか。金の瞳が怒りに染まる、あの魔物は、龍だ。そして、あの龍は、ナナシだ。
とぷんと波打つ水面に潜るかのように、景色が変わる。再びエルマーはあの時の場所に巻き戻ってきたのだ。
ぎゅうと目を瞑る。もう、間違えない。俺は俺の目で見たことしか信じない。
俺がこの腕の中で、ずっと守りたいものはもう、一つしかない。
ふ、と落下の浮遊感が消える。ゆっくりと目を開くと、エルマーの目の前にはあの時の窪地があった。
ふわりと優しい風が吹く。エルマーの横を、葉が踊るようにして過ぎ去っていった。
一歩踏み出す。左目が燃えるように熱を持つ。それでも、エルマーは構わなかった。
ずず、と大きなものを引きずるような地響きがして、あの時の龍が姿を表した。
ずるずると引きずるように体を動かし、窪地に体を擦りつけるようにして落ちていく。
エルマーは追いかけるようにその中に入ると、その狼のような龍は、ふるりと身を震わした。
まるで、エルマーのことが見えているように、ゆっくりと目を開けると、金の光を溢しながらゆるりと顔を上げた。
「ナナシ…」
触れぬと分かっていて、エルマーはその口吻をそっと撫でた。呼吸を忘れるほどの美しい色をした瞳が、涙の膜で包まれる。
「帰ろう。俺の子供、産んでくれるっていったろう。」
ぼろりとこぼれた大粒の涙が、ぼたぼたと窪地に染み込む。龍は頭を下げ、まるで甘えるかのように俯くと、エルマーはその額に唇を寄せた。
ほろほろとした光が降ってくる。エルマーは目を閉じたまま、その頭を抱きしめるかのように腕を回した。
さらりとした髪が、エルマーの頬を撫でた。そのまま頭を引き寄せるかのように触れると、きつく細い体を抱き締めた。
「える、まー‥!!」
ひっく、と泣き虫なナナシの声がした。ゆっくりと目を開けると、龍は眠るように息を引き取っていた。
腕の中で身を震わせるナナシの背を撫でながら、存在を確かめるかのようにきつく抱きしめた。ふさりとした白銀の尾が、甘えるようにエルマーの体に寄り添った。
「…お前は、またこんなに綺麗になっちまって…」
「ひぅ、あ、あー‥!!」
エルマーが、肩に顔を埋めていたナナシの頬に手を添えて顔をあげさせる。灰色だった髪の毛が白銀に変わり、大きな獣の耳と人外を認めるような枝のような立派な角を生やしている。そんな、美しく、神聖な容貌に変わったというのに、エルマーの大切が泣き虫な事には変わりなかった。
「え、る…!!える、まー‥ひっ、く…ふぇ、え…っ…さ、びし、…かっ、…た…っ、…」
エルマーが迎えに来るまで、ずっと一人だったよ。
「ナナシ、」
「い、たい…っ、…ずっと、いっしょが…いい、よ…ぅ…」
「ナナシ…、っ…」
一人は嫌だ、エルマーの声で、何度も名前を呼んでほしい
「う、ぅー‥、っ…」
はぐ、とエルマーの服を噛む。離れたくなくて、離れてほしくなくて、この見た目になった自分を、愛してくれるのかが怖かった。
幼児よりも下手くそに甘えるナナシの頭を撫でると、エルマーは困ったように云う。
「これじゃあ、キスしてえのにできねえなあ。…意地悪しねえで、俺に顔見せてくれ。」
「ちゅう、…して、ほしい…」
「ああ、ちゃんと…確かめねえと、」
泣き腫らしたナナシの目元を撫でると、唇で涙を受け止める。ふるりと身を震わしたナナシが、薄い唇を開く。エルマーはそんなナナシをキツく抱きしめながら、奪うかのように唇を重ねた。
「っ、…ンふ、…」
ひくりと肩が震えた。いつもの口づけとは違う。エルマーのキスは少ししょっぱくて、差し込まれた舌は微かに震えていた。
二人して、唇を擦り合わせるようにして貪った。乱暴なキスは余裕がなくて、まるでその輪郭をなぞるかのようにして、互いの舌に甘く吸い付く。
「っぁ、…は…」
「な、…、なし…っ、…」
「ふぁ、…」
ぐす、と鼻を啜る音がした。ナナシの頬に、エルマーが溢れさせた涙が伝う。そうか、だからこのキスは甘くないのか。
ナナシはエルマーの震える舌を甘やかすようにして絡ませながら、エルマーの涙が嬉しくて自分も泣いた。きつく抱きしめられすぎて、少し苦しい。でもこれは、嬉しいやつだった。
「かぁいい…、…」
「ぐす、っ…なま、いき…」
「ン、…える、かぁ、いい…」
「もう、うるせえなあ…」
言葉は要らなかった。言葉以上にエルマーの舌がおしゃべりで、寂しかった、悲しかった、ごめんね、ただいま。そんな気持ちのこもったキスを、何度もされるから、ナナシは嫌われたどうしようという不安が霞んでしまうくらい嬉しくて、恥ずかしいことに髪と同じ色の尾がふさふさと正直に揺れてしまう。
ちゅう、と水音を立てて唇が離れた。エルマーとナナシの瞳からこぼれた光が、互いの頬に散らされる。伝う涙がキラキラと輝いて、こんなにたくさんの気持ちが詰まったキスは、初めてだなあとそんなことを思った。
「える、もうおきよう…みんな、まってるよう…」
「ん、…お前が生まれ落ちたときから、そばにいてやりたかった。」
エルマーの鼻先が、ナナシの髪に埋められる。擽ったそうにしながらも、好きな人の体温が嬉しかった。
細い手が、無骨なエルマーの手のひらに絡む。ナナシはまるで罪を告白するかのような気持ちで、隠していたことを話した。
「ナナシは、さいしょはしんじゃった…にどめも、いたいのがやでしんじゃった…さんどめは、えるにあえた」
「お前、残りの魂は…」
「あといっこ、さいごのは…えるのためにつかいたい…」
金色の瞳が、優しく緩む。寿命で死んだ後、平和を願った龍の祝福は、欲張りな人間たちの恨みによって呪いに転じた。
龍は、4つの魂を持つ。だからこそ、ナナシは亡骸を等しく分けて、その地を祝福しようとしていたのだった。
エルマーは、やっとあの窪地に出来た神殿がなにかわかった。あれは、龍が死んだ場所に建てられていた墓のようなものだったのだ。
建前のような祀り方だ。あそこに血肉を放置した奴らによって、申し訳程度に建てられたそれは、ナナシの霊廟だ。
正しく最後を迎えた一度目。そして、ダラスによって無理やり蘇らされ、役に立たぬと殺された二度目。三度目は、エルマーがくる前に無理強いされて死んだのだ。
エルマーは、絡めた指先に口付けた。何度も労るように。この子は、エルマーの大切は、こんなに酷い目にあったというのに、何も恨んでいないのだ。
最後の一つは、えるのために
エルマーは、じわりと涙を滲ませながら下手くそに笑う。
「俺も、一度しか死ねねえ。ナナシとお揃いだぁな。」
「うん、」
鼻先を擦り合わせ、小さく微笑む。お揃いがいい、全部、エルマーと一緒が幸せ。
エルマーの大きな手が腹を撫でるのがきもちいい。
ナナシは、今こんなにも幸せだ。
「願いを叶える龍、叶えても、そこにお前がいなきゃ意味がねえ。」
「う?」
「なら呪ってくれ。俺がお前から離れられないように。ナナシが俺に呪ってくれ。」
祝福が転じて呪いになるのなら、互いを縛るように呪ってくれ。
この愛は、離れられぬ呪いだと刻んでくれ。
最初から歪んでいたなら、とことん歪んでいいじゃないか。
エルマーが頬を撫でながら、そんなことを言う。
「龍は、長生きなんだろう?なら、俺とお前の寿命を合わせてくれよ。」
「える…でも、」
「俺が寿命で先に死んで、お前を一人にするくらいなら、俺がお前の寿命に合わせたい。この願いはエゴだけど、だめか。」
人間になりたかったナナシの願いを叶えてやれなかった。だからエルマーは、ナナシの為に人間を辞めるという。好きなやつの願いを叶えてやれないで、何が男だ。
「お前は、俺の為に願いを捨てたんだ。なら、俺はお前のために人間を辞める。」
「える…、えるまー」
「ナナシ、嫁御になるなら旦那の言うこと聞けるだろう。」
前よりマシなプロポーズなんだけど、伝わってるか?
エルマーは耳を赤くしながら、下手くそに言う。ひどく俺様でぶっきらぼうな命令口調だ。
エルマーの言うことは絶対。ナナシは、ばくばくと忙しなく動く心臓が、口から出るんじゃないかと思った。
エルマーはすごい。ナナシが悲しくなっていたことを、こうやって払拭してしまった。
ナナシは、エルマーには人としての寿命があることをきちんと理解していた。だから、腹の子をよすがとして生きていけたらと思っていたのに。
「いい、のう…」
「いいも何も、だってお前は俺のだろう。」
「うん、…っ、」
くしゃっとした顔で泣きながら笑う。ナナシのきれいな顔がそんなふうに歪むものだから、エルマーはなんだか可笑しくて吹き出して笑った。
ナナシがかぷりと自身の指先に犬歯を立てた。プツリと滲み出た血液をみたエルマーが、なんの躊躇いもなくパクリとその指先を口に含む。
ぎょっとはしたが、ちぅ、と吸いつくエルマーのかすかに触れる舌が、悪戯に背筋を甘く痺れさせる。
こくん、とエルマーの喉が上下すると、左目がキラリと輝いた。
「もしかしたら、お前の左目が俺に馴染んだから孕んだのかもな。」
「んえ?」
「いや、既に雄の龍見てえな具合によお…、なってたのかもなって…。」
言外に俺の雌認定をされたナナシは、獣の耳をぺしょりと下げて顔を真っ赤にした。そんな事あり得るのかと思ったが、なんともロマンチックなことを言うエルマーにほだされ、そうなら良いなあとしっぽを振る。
頬を染めたナナシが可愛くて、このままめちゃくちゃにしてやりたい。
けれど、時間はいつだって有限だ。エルマーは知らぬ間に現れた門のようなものを、ナナシの手に自分の手を絡めるようにして繋ぐと、あらわれた門をくぐり抜けた。
戻ってきたら、もう一度愛してると言おう。
握りしめた手の体温が愛おしい。エルマーは、腹の子が産まれたら、お前の母ちゃんはこの世界で一番かっこいいんだぞと言ってやろうと思った。
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