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エルマーたちが光明を見出している頃、私室では居心地が悪そうだったルキーノをつれて、ジルバは隠れ家に居た。 グレイシスは相変わらず見事な菫の花を咲かせ、凛とした姿で生えている。本の中に収まっていたはずの押し花が、まるでそのページに根付くようにしてその花弁を開く。 困り顔のルキーノが、花の前に腰掛けて説教をされている様子というのは、なかなかに愉快だった。 ー仮にも余の体を使っているのだ。せめてその自信のなさそうな面はやめろとさんざん言っているだろう。何故できぬ。 「ああ…その、すみません…しかし、僕にはグレイシス様のような威厳はどうにもだせそうにありません…」 ーならばさっさと体を返せ。余にはやらねばならぬことが山積している。このような心もとない花の姿ではろくに動けぬ。それと貴様、きちんと鍛錬はしているのか。 「…いえ、ペンしか握ったことがなく…騎士団の方にはジルバ様から公務で忙しいと顔出しを控えさせて頂く様に申し上げました。」 ーなんたる体たらく!!話にならぬ!現状に甘んじているのではないか!?久方ぶりの肉体を得、浮かれているなどと申したら貴様を冥府へと叩き出すぞ! 「そんな、こと…!!」 グレイシスの憤りはもっともだが、ルキーノだってまさかこんなことになるだなんて予測をしていなかったのだ。城ではダラスと会わないように常に気を張っている。精神的にも消耗しているルキーノが、グレイシスの苛烈な性格を受け止めるには、心のゆとりがなかった。 「グレイシス、何を焦る。今は時期を待つしかなかろうよ。それにルキーノだって戸惑っている。少しは寄り添ってやらねば。」 ー‥ジルバ。貴様はどちらの味方なのだ。 「今は二人の味方だ。どちらかに選択を迫るほど、お前も心のゆとりがないのだな。」 ーお前は、俺のものだろうジルバ…!! グレイシスはジルバがルキーノのそばから離れない理由をきちんと理解はしているが、それを許せるほど心が大人ではなかった。 突然の理不尽によってとなりを奪われたのだ。我慢を強いられることばかりだったグレイシスが、この複雑な感情を処理することができなきのも、当たり前だった。 「案ずるな、いずれときは満ちる。俺の言うことが信じられぬのか。」 ジルバの指先が、そっと花弁に触れる。ルキーノはわかっていた。ジルバが親切にしてくれるのは、この体がグレイシスのもので、王になる身だからだ。間借りしているルキーノが、勘違いしてはいけないということも、きちんとわかっていた。 「すみません、ほんとうに…」 悲しい。この心の悲しみすら、自分のものなのかも分からない。こんなことになるくらいなら、あの時魂ごと消してくれたほうが良かった。 うつむいたルキーノの眦に涙が滲む。悲しくて悲しくて、グレイシスの体なのに涙が出てくる。 「…ルキーノ、すこし話そうか。グレイシスはそこで少し大人しくしていろ。」 ーふん、どちらにせよ動けぬ。じっくり話し合うがいいさ。 「拗ねるな。」 ー拗ねてなどおらぬ!!馬鹿者、早く消えてしまえ!! ルキーノの腰を抱いて部屋の奥に消えていくジルバに、グレイシスの心のストレスはいくら拭っても消えない。そこは自分の居場所なのに。あの部屋には、ジルバに抱かれたベッドがある。そこにルキーノを連れ込むのがどうしても許せなかった。 ー誰が、一番我慢していると思っている… グレイシスの心もまた、疲弊していた。花は涙を流せない。ルキーノはずっとこの本の中で縛られてきたのは理解している。最近まで人の体だったグレイシスですら、この複雑な感情を形にして吐き出せない事が苦痛なのに、ルキーノはずっと、望まぬ方向に目まぐるしく展開が変わるのを、涙の一粒すら出せずに燻って見てきたのだ。 わかっている。グレイシスは、そんなルキーノに比べると、感情を吐き出せていたし、涙を流して口にせずとも伝えることもできていた。 それがそんなに贅沢なこととは、知らなかったことも認める。 それでも、奪われたくない。ジルバの隣は。奪われたくないのだ。 「ルキーノ、グレイシスがすまぬ。あれも頭では理解しているのだが、認めたくないようだ。」 「いえ…、…僕が、取り縋らなければよかったのです…」 ルキーノは後悔していた。グレイシスがあの本を呼び覚まして、ルキーノをその縛りから解放してくれたとき。それはグレイシスの言葉で、己の死の前の記憶を読み上げたことがきっかけだった。 祭祀があの日記に施した術は、ルキーノの姿を隠蔽してくれた。そして、その術の強さから、あの本に縛られてしまい、自分の意思で語りかけることは不可能になってしまったのだ。 それを、グレイシスが読んだ事で繋がりができてしまった。そこに縋ってしまったのは、紛れもなくルキーノだ。 祭祀の事故の後、ルキーノはずっと書庫で燻り続けていた。兄によって変えられていく未来を、歯がゆく思いながら。 「一つ聞くが、書庫から城の状況を把握できていたのは何故だ。」 「あそこには禁書の部屋があるでしょう。兄はそこで、よく調べ物をしていました。おそらく破り取られた1ページも、そこから持ち出されたものでしょう。…あそこの書庫も、兄によって規制がされるようになりましたから、一介の祭祀がそれほどの権利を有するなど、ただごとではありません。」 「そうか。」 ジルバは、禁書の棚に入り込んだダラスが、まるで独り言を漏らすようにして他国にある聖遺物について口にしたのが気になった。そして、一つの消えた龍眼を他国の闖入者のせいにするという馬鹿げた計画も、時は経たもののこうして行えてしまうのだ。 それも、魔女のせいにして。 「…魔女、のせい」 ジルバの背に冷たいものが伝う。そういえば、呪いの土、その土は龍の血肉だ。ジルバが読んでいた通り、エルマーの左目が龍眼になった今、聖石を取り込むことができるナナシが御使いという仮定は誤りではなかった。 だが、呪いの土はナナシに会うまえから少しずつ出回っていた。 魔女協会の歴史は長い。そして、その歴史は皇国が建国された時期に重なる。 他国に散らばる協会の本部が決まったのも、国の重要な人物が馬車で移動中に襲撃にあったからだ。他国との国境で、証拠はなかった。ただ、車輪の一部に残された魔力の残滓から、一人の魔女が吊るし上げられた。 たしか、名前を与えられたばかりの魔女だったきがする。馬車のメンテナンス不良という選択肢もあったはずなのに、有無を言わさずに責任を取らされた。魔女協会は、こうした理不尽な行いに目を光らせる為に本部を皇国に置いたのだ。 「ジルバ?」 「……、」 ルキーノの言葉を、ジルバが手で遮る。もう少しでなにか掴めそうだったのだ。 呪いの土は龍の血肉が染みたもの。 その土からできた魔物から取り出される、純度の高い聖石。 従軍中、魔女に襲われたと言っていた。 城の襲撃を他国の魔女が刺客だったと報告した自分。 「魔女は、国に縛られぬ。…まさか」 ジルバは目を見開いた。もしや、この俺が踊らされたとでもいうのかと。 小さく笑う。そして、扉の外になにかの気配を感じた。 「丁度いい。ルキーノはそこにいろ。」 「え、…」 ジルバは部屋を出ると、グレイシスの横を通り抜けて扉を開けた。 「エルマー、迎えに行こうかと思っていた。」 「おう、時間ねえんだろ。ナナシがやってくれるってよ。」 「ジルバ!」 扉の先には、エルマーとナナシがいた。アロンダートたちの気配もするが、グレイシスがいることを考えて中には入らなかったようだった。 ナナシは最後にジルバが見たときよりも大きく容姿が変化した。外に出るために力を抑えているようで、なるほど確かに今のナナシなら、グレイシスのことをどうにかできる気がした。 「ナナシ、やはりその姿のがよく似合う。」 「ん、…へんじゃない?」 「無論。こっちだ、お前に合わせたいやつもいる。」 きょとんとしたナナシが、ジルバに促されるまま中にはいる。グレイシスが乗り移っている菫の花を目にすると、ナナシはそっと目で辿るようにして繋がりを探す。 ジルバは驚いていた。何も言わずとも、ナナシにはどうしたらいいかがわかったようだった。ナナシの金の瞳が向けられた先にはルキーノがいる。 そっと扉に近付くと、ジルバの方を振り向いた。 「ジルバ、ここ…グレイシスのそとがわがいる…」 「わかった、ルキーノ。」 小さく頷くと、ジルバはルキーノを呼んだ。少しの物音の後、カチャンと音がして、恐る恐るといった具合にルキーノが顔を出す。 ひょこりと顔を出したナナシを目にして、余程驚いたようだ。目を見開くと、息を詰めて背筋を伸ばした。 「え…あ、…っ…!」 「んと、るきーの?こっち」 「お、御使い…さま…!」 ルキーノの顔を見てふにゃりと笑うと、その手を握りしめてグレイシスのもとに向かう。 ナナシの正体には気付いているようで、ルキーノの狼狽えをみたエルマーが少しだけ不機嫌になった。 「るきーの、ここにいて…んと、グレイシスは、まりょく、わかる?」 ー無論。こいつの中に流れているのは、余の魔力だならな。 「んーと、ううん…うつわ、が…こまった…」 グレイシスの言葉にうなずいたは良いが、へにょりと眉を下げる。おそらく耳を出していたら前に下がっていることだろう。ナナシがキョロキョロするのをみて、エルマーが助け船を出す。 「うつわって、あの器か?なんかさがしてんのか?」 「あのね、おはながうつわなの。だから、るきーのをはずしたら、うつわがなくてきえちゃう…」 「本が器だろう?」 「ちがうよう、おはな。」 ふるふると首を振り、グレイシスを指差す。ナナシが言うには、本はあくまでも外側で、グレイシスがくっついている花がメインだという。ナナシは菫には微かな魔力が宿っているらしく、それが本に根付いている為に剥がれないのだという。 「僕は、本に取り憑いたと思ったのですが…」 「おはな、これ。んんん…うう!あ、あー!」 「うおっ、なんだどうした!」 しばらくうんうんと唸っていたナナシが、エルマーを見て目を輝かせた。キラキラした顔で駆け寄ると、ルキーノの魂を移す為に、空魔石をくださいとおねだりをした。 ー空魔石?そんなもので何をどうするつもりだ。 エルマーにおねだりをして選ばせてもらったひときわ大きな空魔石に、ナナシがむんっと魔力を込める。純粋な聖属性だ。すぐに空魔石はオーロラのような乳白色へと変わる。どうやらスミレからグレイシスを出したあとのルキーノの魂を、この石に移すことにしたらしい。 「でけた。あとは、グレイシスがまりょくつなげる!ルキーノでたら、ナナシがこれにうつすね。」 さあ来い!という具合にナナシがニコニコと微笑む。グレイシスはというと、でけたではなく、できただ。などと小言をはさみながら、半信半疑だった。散々ルキーノと魔力を繋げて体に戻ろうとしたのだ、一度は戻れたが、花から離れた瞬間に弾き出された経験がある。ナナシには悪いが、これで駄目でも仕方がないと半ば諦め気味である。 「そ、れでは…いきます、ね…」 「いいよう」 どきどきしたルキーノが、そっとグレイシスの花弁に触れた。ふわりと花の香りが強くなったかと思うと、ルキーノの意識がどんどんと引っ張られていく。ぱちぱちと二人の間を不思議な光の明滅が散らされる。ガクンとくずれたルキーノの体をジルバか受け止めると、ナナシがそっと捧げるように聖属性の魔力を込めた魔石を掲げた。 青白い光がひゅう、と魔石の中に吸い込まれる。ナナシの金色の瞳が輝くと、その魔石の周りを結界で固め、外れることのないように硬化した。 ナナシの手のひらの上には、マーキースカットのような結晶がころりと残され、その内側から秘めたる力をやどす様な不思議な光がそっと反射を繰り返す。 結界で結晶を作ることで、内側が乱反射して魂が外に漏れないように固定したのだ。聖属性の魔石で結界内を常に浄化し続けることで、ルキーノのとの意思疎通は隔たりなく取れるようにした。 こんな繊細な術は、人間には到底できない。展開図もなく一瞬でやってのけたナナシに、ジルバはごくりと動揺を飲み込んだ。 「っ、は…ああ、くそ、感覚が掴めぬ…」 まるで水面から顔を出したかのような呼吸音とともに、ジルバに支えられたグレイシスが顔を上げる。 頭をいたそうに抑えながら起き上がると、自身の手の感触を確かめるように握り開くを繰り返した。 「変わりないな、まあ数日程度で落ちる筋力ではないか。」 「グレイシス、ナナシ、えらい?」 「ああ、褒めてやろう。よくやった。」 わし、とナナシの頭を撫でたグレイシスが小さく微笑む。ルキーノはというと、結晶の中で魂の灯火を踊らせながら語りかける。 ーすごい、すごいです!こんなに抵抗も無くだなんて!それで、僕はどうしたらいいでしょう… 「いやあ、念話やべえな。頭ん中直接語られるから、なんか変な感じ。」 耳を穿りながらエルマーが言う。ナナシはその結晶を悩んだ末に自分の小さな鞄にいれた。エルマーの薬を買いに行ったときに、サジに選んでもらったそれの中には、ドングリしか入っていない。 ルキーノはなんとも言えない雰囲気を出しながら、とりあえずありがとうございますといった。 「ルキーノ、ナナシがもってる。まだ、おそらいくの、やだでしょぅ?」 ーええ、可能であれば兄を止めたい。微力過ぎてお力には添える気はしませんが… 「ううん、ナナシもがんばるの、えるがね、たすけてくれるよう。」 鞄を撫でながら、ニコニコして言う。エルマーが褒めるようにナナシの頭を撫でると、嬉しそうにその手にすり寄った。 「エルマー、ちょっといいか。」 「あん?」 これで終わりかと帰る気でいたエルマーを、ジルバが止めた。いつになく真剣な顔で見つめてくる様子に、エルマーも何か察したようで、無言でナナシの腰を抱く。 なんとなく、聞きたくないなと思った。

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