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往復二週目のギンイロが、へっへっへと笑い声のような息遣いをしながらその背にナナシとレイガンを乗せている。エルマーはというと、仕返しと言わんばかりにギンイロに咥えられていた。
「流石にこの発想はなかったわなあ。」
「える、へーき?」
「ナナシ、心配なのはわかるが、あまり身を乗り出すな。」
上からナナシの声が降ってくる。エルマーは、おー。とだけ返事をすると、ぶらぶら揺れる不安定な視界を少しでも改善しようと両手でギンイロの顔付近の毛並みを鷲掴む。
しばらくして見えてきたのは、皇国の城壁の少し先にある森だ。ナナシに欲を伴って触れたあの晩が懐かしい。昼間なのでまだ幽鬼は出ないが、どうやら人目を避けるようにそこを着地地点に決めていたらしい。
遠くの方で、呑気なサジがマイコニドを侍らせて手を振っている。白く短い手を上下にばたつかせる理性あるキノコの魔物が、まるで誘導係のようにアピールしていた。
「アー、キノコ。」
「うわ馬鹿野郎!」
ギンイロがマイコニドに反応して口を開く。サジ達がいる距離までは後少しだと言うのに、エルマーはまさかのギンイロからの裏切りによってその身を宙に投げ出された。
「えるう!」
「ニア!出てこい!」
重力に従って素直な自由落下を楽しめるほど、エルマーも呑気ではない。レイガンが慌ててニアの名前を読んだので、優秀な水の神様である白蛇がグワリと地面を突き破ってエルマーの元へ飛び出した。多少の地響きとともに地中から生える柱の如く、滑らかな鱗は日に反射してキラキラと煌めく。エルマーは慌てて体勢を立て直すと、その滑らかな肢体に降り立った。
「やっぱり、地中の方が安全じゃないか。」
器用に頭の上にエルマーを乗せたニアが、勝ち誇ったようにレイガンを見る。
「いやあ、助かったは助かったんだけどよ…。」
「な、な、なんだあれ⁉︎」
「あらいやだ。」
城壁の周りで列をなしていた集団のうちの一人が、傍目からみれば宙に浮いたように見えるエルマーを指差し騒いでいる。
それはそうである。ギンイロから離れ、そしてニアは自身の姿しか消せない。で、あるからして、城壁とほぼ変わらないほどの高さに、謎の人影が浮いている状態だ。
ニアは面白そうに鎌首をそちらに向けるので、立膝をついた状態のエルマーの体も自然と向く形になる。誰かはわからないに違いない。しかし、城壁の外でこうも騒ぎになるのも頂けないのだ。
「ニア、エルマーを森へ投げろ。」
「結局う⁉︎」
「ニアが投げたら、エルマーは人間とは思えないスピードで飛んでいくだろ。疑われる心配はないさ。」
「いや心配してんのそこじゃね、」
え。まで言い終わるのを、ニアは待っていてくれなかった。
ものすごい遠心力で一気に視界がぶれた。呼吸する暇すら与えられずに投げ出されたエルマーは、その身で空を切り裂きながら、今日は飛行運が全くねえなあと思考が飛んだ。飛行運なんてあるのかどうかはさておき。
「オアああああああああアああああアあああああ‼︎」
ナナシの可愛い声が、遠くから聞こえる。叫びの冒頭から、とんでもないスピードで声が遠ざかる。空気抵抗に負けて身を逸らしたエルマーをしっかりとした弾力のあるものが受け止めた。ぶるん、という効果音がつきそうなそれに跳ね返って地べたに情けなくべショリと顔から落ちる。痛い。
「っー・・・!」
「 おかえりエルマー。転移してくればよかったんじゃないか?」
「俺もそう思う…。」
受け止めたのはマイコニドの子株だったようで、マイコは地面に寝転がるエルマーを木っ端で突いて遊んでいる。
アロンダートは、今朝あれだけ飛行訓練をしたのになあと思いながら、ヨイショと立たせてやった。よくよく考えてみれば着地訓練はしていなかったが。
日差しが陰り、着地に伴いギンイロが姿を表した。その大きな体高を伏せをするようにしてかがめると、まずはレイガンが降りた。
「そうだなエルマー、俺も失念していたが転移をすればよかったんじゃないか。」
「お前まだ根に持ってんな…。」
よろよろと起き上がり、エルマーは降りたそうにしていたナナシを両手を広げて待ち構える。ナナシは運動神経がないので、ギンイロから降りるときは下手くそにお尻から降りるか、ジャンプしてエルマーに受け止めてもらうかの二択だった。
今回は後者だったようで、飛び降りたナナシを抱きしめるようにして受け止めると、そっとおろした。
「ふう…」
「もちっと腹膨れたら、危ねえからギンイロに乗んの禁止なあ。」
「エー!ヤダヤダ!」
「落ちたら危ねえだろうが。」
こうして降りるだけでも一仕事終えたといった達成感を顔に出すナナシは可愛いが、鈍臭いのは治らなさそうである。
若干不満げなギンイロを宥めながら、まあ紆余曲折はあったがなんとか城壁を抜けることができた。
「ジルガスタントなあ、このまま大地突っ切ってくのが手取り早えんだけど、孕んでるから危険な目に合わせたくねえし。」
「なら、やはりカストール経由だろう。ドリアズからはしばらく野営が続くだろうが、まあ最悪僕とギンイロが騎乗できるからな、何かあっても飛べばいいさ。」
レイガンは、仮にも元第二王子だと言うのに、なんとも心が広いもんだと感心する。いくら半魔とはいえ、騎乗獣に甘んじているというか、むしろ転化を楽しんでいる節さえある。
「じゃあ、まずは何事もなくドリアズだな。チベット爺さんとこいけんぜナナシ。」
「スーマあえるかなあ…」
「ママ!サトガエリ?アエルネー」
パタパタと尾を振りながらご機嫌である。ここからドリアズまでは遠くはない。途中で夜が来るだろうが、まあ朝には着くだろう。
一行は、水場の近くで野営をすることにした。陽が沈んで、視界も悪くなる。体力のないナナシを心配して、休み休み移動することにしたので、西日があたりを赤く染め始めた時点で寝床探しにシフトしていたのだ。
「いやあ、行商の一派くらいいるだろうと思ってたんだけどなあ。」
そうすれば金払って馬車に乗せてもらえたかもしれない。エルマーは鱒を齧りながら、呑気にそんなことを言った。
「うー…」
「まだ気持ち悪いのか、ううむ。」
なんでかというと、悪阻だ。やはり定期的にこうなってしまうらしい。レイガンが魔力視で腹の具合を確かめると、昨日エルマーが与えた魔力の余剰分が凝っているらしい。
「まだ子も小さいからな、全て取り込めないのだろう。与えるなとは言わないが、加減をしてやれ。」
くたりとサジの膝に頭を乗せたナナシは、エルマーからもらったボロ布をあぐあぐしながらぐったりだ。エルマーはソワソワしながら、レイガンの言葉におう、というと、ついに耐えかねてナナシのそばに近寄った。
「来るな馬鹿者。お前の魔力が漏れている限りはナナシの体は取り込むのだぞ。悪阻が心配なら、距離を保て。」
「ぐう…ナナシ、すまん…」
「いい、よう…」
道中、エルマーと手を繋いでいたナナシが蹲ったので、心配したレイガンが見たところ、左目の龍眼から漏れ出た魔力をナナシが無意識に取り込んでいたのだ。ナナシはそれになんとなく気付いてはいたが、離れたくなくて痩せ我慢をしたら、ついには目眩で動けなくなったらしい。
それを聞いた時のエルマーの顔といったら、まさにこの世の終わりもかくやと言わんばかりの青褪めた表情で、両手をあげてジリジリとナナシから後ずさった。
「腹の子がある程度大きくなるまでは、性行為も頻度を下げろ。ナナシのためだぞ。」
「はい…」
なんともしおらしい。エルマーがはいとか言うもんだから、面白すぎてアロンダートはちょっと笑った。
ー御使い様、その…差し出がましいようですが、その余剰分を、魔石に移すと言うのはいかがですか…?
恐る恐るといった具合に、ナナシのポシェットのどんぐりの隙間からルキーノが主張する。エルマーはルキーノの言葉にハッとすると、大慌てでインペントリの中から空魔石の入った袋を取り出した。
「ちょ、サジ、サジやって。これ使っていいからよ!」
「えー!構わんが成功したとしても程々にするのだぞ。ほんとに、わかっておるのかこの絶倫。」
「おうともよ。やらかしたらレイガンが殴ってくれ」。
「いや、殴る前提の話なら請け負わんからな…。」
眉間に皺を寄せたレイガンが、ナナシの腹に空魔石をかざすサジを見る。紫の瞳が捉えたのは、金色に光る美しい魔力が、吸い寄せられるようにして魔石の内側に収まっていく様子だった。
「うっわ…。恐ろしいほどの純度の高さよな、売っぱらったら家が買えるぞ…」
「ん…」
「ナナシ、体調どうだ…?」
サジが純度の高いその宝石のような魔石に引き攣り笑みを浮かべている中、エルマーはそんなこと興味もないといわんばかりにナナシを覗き込む。先ほどよりも顔色がいい、どうやらルキーノのアドバイスは功を奏したようである。
「える、きもちわるくないよう、あかちゃんへーき…?」
頬を緩ませてエルマーを見上げた。心配そうに、ナナシをみつめてくれるのが嬉しい。横にいたレイガンに確認をとると、腹の子の具合も問題はなさそうだった。
「よかったあああ…」
心底ホッとしたといったふうに、エルマーがナナシの手を握る。ゆるゆると尾を振りながらエルマーに擦り寄ろうとしたら、それはダメとサジによって阻止はされたが。
「もう、お前ドリアズで魔力制御の首輪でも作ってもらえ。それかナナシにどうやって仕舞い込んでんのか教えてもらえ。」
ため息混じりにレイガンがいう。どうやらエルマーが道中話した腕のいい魔道具技師の話を覚えていたようだ。それもいいかもしれん。エルマーは割と本気でそんなことを思った。
「さあて、ナナシは今日はサジとアロンダートの三人で寝よう。エルマー、お前はレイガンと二人で見張りだぞ。良いな。」
「おい、俺もか…まあ、構わないが、はあ…」
「んだ、俺じゃ不服ってのか。」
「違う、お前と二人だと、なんかありそうで嫌なんだ。」
まるでトラブルメーカーと言外に言われる。別にトラブル起こしてねえだろうがと反論しようと思ったのだが、市井でのことと、ニアにぶん投げられた時のことを思い出して口をつぐむ。
確かに、言われてみればそんな気もしないでもない。非常に不本意だが、不本意なのはレイガンも一緒である。
「さて寝る前に水浴びでもするかな。」
「ナナシもいく。」
「ナナシは体冷えっから、水汲んできて清拭にしようや。」
エルマーがインペントリから桶を取り出す。なんでも入っているこの袋の中身を、全て晒してみたいものだと、アロンダートはしげしげと見つめた。
「ん。」
「なんだよ?」
無言でサジがエルマーに手を突き出す。意味がわからずに首を傾げると、サジは言った。
「なんだよ、ではないわ。エルマーが盛らぬように、世話はサジがする。その桶を寄越せ。」
「ん…?」
真顔のサジに、エルマーは何を言っているのかわからないと言った顔で、桶を背後に隠す。だってそんな、ナナシの世話はエルマーの至福なのに。
結局無常にも後ろにいたレイガンの手によって桶は回収されると、エルマーが我が儘を言う前にナナシを担いで水場へと歩いて行ってしまった。
「エルマー。」
「………。」
「拗ねるな。大人気ないぞ。」
「俺のナナシなのに…。」
うわめんどくさ。レイガンは隣で暗雲を背負っているエルマーに辟易としていた。たった数時間、触れないと言う状況だけでこんなにも落ち込むものだろうか。こいつら、まじで共依存しすぎだろう。
「…戦で離れていた時もあるのだろう。それよりもマシだろ…」
「マシじゃねえ…触れられる距離なのに触れらんねえってとこが嫌なんだあ…。ましてや原因俺だしよ。」
ーエルマーは、御使い様が大好きなんですね。
「ああ、って一緒に行かなかったのか。」
ーまあ、魂のみですし、沈んでそこが墓場がわりになるのも嫌なので、辞退いたしました。
なるほど道理である。
ー好きな方を思う気持ちは、とても尊いことです。彼の方は大変なご苦労がありましたから…、お二人が相思相愛だという様子を見るだけで、なんだか報われた気持ちになってしまいますね。
ルキーノはナナシの本質を知っている。優しい人外の龍。辛い過去を抱くその華奢な体が、壊れぬようにとただ願っている。エルマーはルキーノの言葉を聞きながら、鼻の頭を掻いた。照れた時に行うその仕草は、ナナシにはもうバレている。
「…なんつーか、…」
そんなことを言われると、むず痒くて仕方がない。サジがママなら、ルキーノは優しい婆さんだろうか。そんなことを思ってしまう。まあ要するに、このむず痒い気持ちはエルマーの語彙じゃ到底言い表せないわけで。
「…寝る。」
「嘘だろう⁉︎」
ルキーノの言葉に、祝福された気持ちになってしまった。エルマーは、愕然とするレイガンを無視して地べたに横になる。仕方ないだろう。このふわふわの気持ちの消化の仕方を、エルマーは知らないのだから。
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