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「じじいー!!!」 ギンイロの後を追ってついた、チベットの鍛冶屋はひどい有様だった。エルマーが大声で叫んでも、声はしない。もしかしたら中で気を失っているのかもしれない。だが、それならまだいい。 ぶわりと体を光らせギンイロが転化する。エルマーの横から飛び上がると、屋根の上に乗り口で瓦礫を剥がし始めた。 その瞳は凪いでいる。いつものふざけた口調もなく、まるで犬が宝物を探すように時折前足で瓦礫を避けながら、一所懸命に探し求めている姿を探す。 「ギンイロ、」 ひっく、とナナシの喉が鳴る。ふらふらと崩れた入り口前に積み上がっている瓦礫を退かしながら、エルマーはもう一度深呼吸をして叫ぼうした時、ピタリとギンイロの動きが止まった。 「ママ」 ぽつんと土に染み込んでしまうかのような、頼りない声だった。 ナナシがぴたりと動きを止める。ふるふると小さく震え、ゆっくりと顔を上げたのだ。 エルマーがそっとナナシを扉の前から退かす。 この先は見せられない気がしたのだ。 「える、」 「ナナシ、ちっとさがってな。」 エルマーか腕に強化の術をかける。薄く魔力がその腕を包むと、勢いをつけて振りかぶった。ひしゃげて潰れかけたドアを殴り破る。バキキ、と木の剥がされる音がして、むりやりドアを引き千切るように剥がすと、支えを失った瓦礫がパラパラと崩れ落ちた。 大きな摎灰を固めた瓦礫が、不自然になにかにもたれ掛かるようにしてそこにあった。瓦礫の隙間からは、床板を濡らす程の赤黒い液体がじんわりと広がっている。そして、それに染まるように錆びたような色の毛玉も隙間からちらりと除いていた。 エルマーは何も言えなかった。ただ黙ってその光景を見つめていた。 ギンイロが、そっと体重をかけないように降り立った。その美しい毛並みをもつ狼のような姿で、くん、とその瓦礫の隙間に鼻先を近づける。 「ギンイロ、」 声をかけた。いつも元気なその姿が、そこにはない。大人しく、まるで群れからはぐれてしまったかのような行き場のない雰囲気で、ギンイロはただゆっくりと腰を下ろすと、まるで乳を欲しがる子犬のような甘えた声で、鳴いた。 「ギンイロ、」 頭を下げ、見下ろす。ギンイロはエルマーの声に振り向かなかった。自身の前足を濡らすその赤色が信じられなくて、こういうときの気持ちの行き場もギンイロにはわからなかった。 だって、まだギンイロは教えてもらってない。 ギンイロがスーマから教えてもらったのは、楽しいことと、頑張り方だけだった。 こんな、気持ちが焼け付くような、心臓が溶けてしまうようなこの感情の行き場なんて、知らないし教えてもらっていなかったのだ。 「ママ、」 瓦礫に鼻先をこすりつける。ここからスーマの匂いがする。じじいとスーマの匂いがするのだ。 かし、と前足で引っ掻く。光線を出したら、きっと二人は怪我をしてしまうから、ギンイロにはそれができなかった。 自分のこの力も、傷つけるために使うなと教えてくれたのはスーマだ。 じじいは、触れられる喜びを教えてくれた。 スーマがギンイロを産み落としたとき、じじいはそれは喜んだ。2匹まとめて抱きしめて、たくさん褒めくれたのだ。 だからギンイロは、最初から人のぬくもりをしっていた。 「ジジイ、ママ、…マダネテル、」 せっかく帰ってきたのに、まだ寝ているのだ。 ギンイロは頑張った。だから、またじじいに2匹まとめて抱きしめてほしかったのだ。 いやだ。褒めてほしいのに寝ている。 かしり、床を引っ掻いた。もしかしたら、この瓦礫を退かしたら起きるかもしれない。 床を剥がして、隙間を作れば助けられるかもしれない。 カシカシと音を立てて、床の板の僅かな隙間に爪を引っ掛けて剥がそうとするギンイロに、エルマーはただ、息を詰めて見つめるしかできなかったのだ。 「える、…えるまー‥っ…」 背中に、こつんとナナシの額がつけられる。ひっく、と声を漏らして、それでもナナシは泣きたくなかった。 一所懸命深呼吸をして涙を散らす。ギンイロが泣いていないのに、ナナシが泣けるわけなかった。 「やめろ、ギンイロ。爪が剥がれちまう。」 「エルマー、テツダッテ」 「上の瓦礫どかすぞ。」 エルマーがナナシを撫でたあと、腕まくりをして瓦礫に近づく。エルマーも同じだった。ギンイロが泣いていない、だから普段通りを装う。 術をかけ、瓦礫の端に手を当てる。腰を落とし、息を詰めた。 強化の術をかけても尚、その重さは何も変わらない気がした。 ミシミシと踏みしめた床板が悲鳴を上げる。エルマーはただ無言で、腕に血管が浮き出るほどの重さのそれをゆっくりと持ち上げていく。 つま先が、こつんとチベットの太い指先に触れた。 職人の手に靴を当てるのがいやで、ずりずりと動かし、足を離す。 チベットは、手は綺麗なままだった。 その丸くコロコロとした親しみやすい体は跡形もなく、まるでスーマを守るかのようにして体の下に隠したらしい。 一人と一匹はひとつになって、そこにあった。 「っ、」 ぼたぼたと持ち上げた瓦礫から血が滴る。まだ温かい気がした。目の奥が熱い、まいった、泣きそうだ。 まるで地響きのような音を立てて、瓦礫をどかした。裏返ったそれに手をついて、こみ上げてくるものを必死でこらえる。戦場よりも酷い、エルマーは何度か唾液を飲み下すと、深呼吸を繰り返した。 「…コレナニ、ジジトママハ、フタリハシロイ、コレナニ」 「ギンイロ」 「エルマー、サガス。ママトジジ、ドコカイル」 「ギンイロ、ちげえ。」 フン、とその体に鼻先を近づけた。 鉄錆の匂いで鼻が曲がりそうだ。それでも、ほのかに二人の匂いがするのだ。 二人の匂いがするのに、色が違う。 「ナナシ、ナナシタスケテ。」 「っう、…」 「サガソ」 「ぎんい、ろ…」 エルマーはだめだ、怖い顔をして話を聞いてくれない。ならナナシは?ナナシは一緒にさがしてくれるかもしれない。 カチャカチャと爪先を床に擦らせながら、とっとっとナナシの元に行く。そっと鼻先を近付けておねだりをしようとしたけれど、やめた。 なんだか手も鼻も真っ赤だったのだ。ナナシは金色の大きなおめめに涙をためて、零さないように必至で押さえたりしていた。 「ナナシ、ナクノカ」 「な、かない…」 「ナンデ、ナキソウ」 「ぎんいろ、…が…っ、なかない、のに…っ…」 きゅう、とナナシの喉が引き絞られる音がする。こんなに細い首で、泣くのを我慢して嗚咽を堪える。 こんなナナシはみたくない、なんでだろうと考えて、ギンイロはゆっくりと尾を振った。 「ナカナイ、ギンイロ、ワカラナイ」 「ひ、ぐっ…」 「ママ、ゼンブオシエテナイ」 う、とこらえきれずに声が出た。ぎゅう、とその逞しい首に縋るようにナナシが抱きつく。毛並みに顔を埋め、指が白くなるほどきつく、自分の袖を握って離れない。 「コレナニ」 「える、ぅ…っ…」 エルマー、ギンイロがこわれちゃう。いやだ、こんな、自分の気持ちを置いてけぼりにするように、ギンイロが見て見ぬ振りをする。悲しくて、泣きたくて仕方がないはずなのに、いまこの精霊は強がっているのだ。 ナナシは息苦しくてしかたがない。自分は抱きしめるしかできなかったからだ。 ただ抱きしめて、二人は死んでしまったという事実を口にできない臆病者。それを緩やかに諭すような、そんな語彙なんて、ナナシは知らない。 「ギンイロ、」 エルマーが、そっとギンイロを挟むように抱きしめた。後ろからも、前からも、二人分のぬくもりでギンイロを挟む。大人しくおすわりをしながら、困ったように尾を振るのだ。 「エルマー、ナナシ、ナク」 「俺も泣きてえ、けど。まずはお前が泣け。」 「タノシクナイコト、シナクテイイッテママガイッタ」 「ああ、そうだなあ。お前のママは、聡明だあ。」 ママは言った。生まれたてのギンイロの毛並みを、小さい体でぺしょぺしょなめながら言ったのだ。 楽しくない事はしなくていい、楽しいこと、嬉しいことだけをして生きなさい。 やりたくないことはしなくていい、嫌だなと思ったら逃げていい。 そうして大きくなりなさい。 ギンイロにも、ママにも、みんな一つだけ心に石を持っている。それを磨いて綺麗にしなさい。 たったひとつの自慢の石を、差し出せるような主をみつけなさい。 ギンイロは、大きな瞳から溶けてしまいそうなくらい大粒の雫をぼたりとこぼした。 ナナシの頭の上にボタボタと零すものだから、綺麗な銀の髪の毛はしっとりと濡れてしまった。 それでもナナシもエルマーも、怒ることは無かった。ただゆっくりと毛並みを撫で、口を開けて静かに呼吸をしながら、ただギンイロが静かに泣き終わるのを黙って待っていた。 「ママ、ヤダ、ジジ、ヤダ…」 「うん」 「ホメテホシカッタ」 「うん、」 きゅうん、と悲痛な声が漏れる。ギンイロがこんな泣き方をするのは、エルマーもナナシも知らなかった。知らなかったからこそ、悲しかった。 大きな体を震わして、子犬が親を呼ぶようにいつまでもきゅうんと甘えた声が止まらない。 甘えたかった。ギンイロは爺とスーマにたくさん甘えたかったのだ。 「コレガ、カナシイ。ママガ…サイゴニオシエテクレタ。」 カナシイは、いけない。 こんな、心が押し潰されてしまいそうなこれは駄目だ。 「カナシイ、サセナイ。ギンイロ、ミンナニカナシイ、サセナイ」 ヘッヘッヘと、焼け付くような胸の痛みを逃すように呼吸する。ギンイロが拙くそんなことを言うものだから、もうだめだった。 ナナシもエルマーも、もう、涙が止まらなくなってしまった。 「サセナイ、そう、だなあ…カナシイはいけねーよ、なあ…」 「な、ナナシ、も…っ、カナシイ…は、だめ、っ…」 「ミンナナク、タイヘン」 「ばっかやろ、タイヘンなのは、おまえだろうが…っ…」 ごしりと擦るように、エルマーが毛並みに頬擦りをする。不遜で生意気で、痛いことするナナシのエルマーが、下手くそにギンイロを抱きしめるのがくすぐったい。 ギンイロは、自分以上に大泣きをしている二人をぺしょぺしょなめながら、カナシイはいやだが、その感情を分けることは嫌じゃないなあとおもった。 自分と同じ気持ちで、同じ理由でカナシイになっているのに、こうして一緒に泣いてくれるのはなんだか、心の内側がくすぐったい。 ママが言っていた、心の石を磨くとはこういうことなのかもなあと、そんなことを思った。 エルマーがそっと、ギンイロの目の前にルビーのように美しい宝石を差し出した。 「これが、お前のママが磨いた宝石だ。じじいのそばで、沢山磨いた宝石だあ…」 ころりとしたそれは、とても小さい。小さいけれど、澄んだ光を纏って輝いていた。 そうか、これが心の宝石か。 コツンとそれを鼻先でつつく。ゆらゆら揺れるそれをみて、ママにじゃれついて転がしてしまったときのことを思い出した。 「ママ、イツモワラッテタ。コノイシ、ワラッテルミタイ」 ころころと笑うスーマは、ギンイロのじゃれつきに転がされながらも楽しそうに笑っていた。 ママの首についていた、あの素敵な飾りみたい。 お気に入りのチベットの頭の上で、ピギャピギャ笑っていつも楽しそうだった。 沢山の幸せを、その大きな口で噛み締めて、そして出来た心の余裕を、周りに等しく与えなさい。 スーマは諭していた。ギンイロに、チベットと会ってから自分がどれだけ幸福だったかということを。 チベットと一つになったスーマの、あの灰色の毛並みは見る影もない。 それでも、チベットに守られるようにして重なったスーマの魔石は、瓦礫の下にころりと落ちていた。 最後のメッセージのように。 「ギンイロ、いこう。全部終わったら、また戻ってこよう。」 「ナナシ、エルマー」 「ギンイロ、ギンイロ…」 ギンイロは二人を真っ直ぐに見つめて、ちらりと惜しむように後ろを向く。 ずっとここにいたい。ここにいたいけど、ゆっくりと悲しむには時間が足りない。 ギンイロは小さく鼻を鳴らし、手を振る代わりに尾を揺らす。四肢でしっかり大地を踏みしめるように立ちあがると、傅くように頭を下げた。 「ワカッタ」 守れなったなら、次は守ればいい。 エルマーはギンイロの背を撫でてナナシを跨がらせる。何が正解なのかはわからない、それでも、ギンイロは愛してくれたじじとスーマに胸を張れる、そんな精霊になりたかった。 二人にしてあげられなかったたくさんの事を、ギンイロはナナシにしてあげたい。 エルマーは時々意地悪だけれど、それでもいい。 隠れた優しさは、ギンイロだってちゃんとわかっている。 エルマーが、ギンイロの足にスーマの首輪を巻いてくれた。じじが与えた、ギンイロのママの首輪はとても小さい。こんな小さい体で、ギンイロをたくさん愛してくれたのだ。 ひとりじゃない、から、そこでみてて。 ギンイロはぶるりと身震いすると、エルマーがナナシを支えるように跨るのを待ってから大地を蹴った。 ゆっくりと弔うには、終わらせなくてはいけない。 ギンイロは好きにする、好きにするから、やるべきことを先にやる。 やりたくないことはしなくていい、それでも、目を背けていけないことには立ち向かわねば。 だってギンイロは、じじの宝物から生まれた、誇り高い精霊なのだから。

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