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ブゥン、と薄い羽を震わせるような羽音をアロンダートの耳が拾った。 「サジ」 「ん?」 「戻ってきた。」 異常を知らせる蜂の羽音だ。サジは治癒したものはギルドに向かえと指示出しをしていた手を止め、道の奥から見慣れた蜂が飛んでくる姿を確認する。 「サジ!」 「今度はなんだ。」 引率を終え、戻ってきたレイガンは険しい顔をしていた。日は徐々に落ち始め、やがて夜になるだろう。そうすれば魔物たちが活発になる時間帯だった。 レイガンの表情からみても、余裕はないのだということだけは見て取れた。 「ギルドのシェルターには、ほとんどの生き残りが身を寄せていた。だけど、鍛冶屋の親父とギルドの解体屋、あとジョシュという青年がいないらしい。」 「まて、そのものにはポーションを渡して…」 サジが先程の青年を思い出し、ハッとした。レイガンは唇を戦慄かせると、重々しく口を開く。 「まだ、魔物はいる…。向かわせたのか、ジョシュに…」 「まずい…!」 「サジ!!」 レイガンの言葉に、サジが駆け出す。蜂の飛んてきた方向に向かい、まるでなにかに駆られるようにサジは走った。 おかしい、魔物の気配はさっきまではなかったはずだ。だから見回りに行かせた。これは、サジの落ち度だ。 サジのしっている虫を操る魔女は、その魔力の異質さからよく知っていた。しかし、その気配はたしかにあの時まではなかった。 まるで、なにかにしまっていたかのような…蓋を開けた瞬間に膨れ上がったように、その気配はサジが近づくに連れどんどんと濃くなっていく。 何が起きているのかわからなかった。無事でいて欲しい、自分がここまで平和ボケしていたとは、と舌打ちをして路端に飛び出した瞬間だった。 「あ、」 サジは気づけば宙に浮いていた。 自重にしたがって、まるで体内をずるりと撫で擦るようにして腹の中が熱く燃え上がる。 「おやあ、まさかこんな大物が釣れるとは。」 腹から、細かい毛の生えた黒い尾のようなものが生えている。下に向かって徐々に太くなっていくその針を、サジの白い手が触れた。 「っ…っ、…ぁは…」 ごぽ、と口から黒い血をこぼす。何が起きたのか、サジは針に支えられるようにして、真っ黒な蠍型の魔物に腹を貫かれていた。 「せ、る…けと…っ、…」 ぜひゅ、と呼吸が荒くなる。気絶してしまいそうな腹の痛みに、サジがその枯葉色の長い髪の隙間から魔女をみる。真っ黒な瞳のセルケトと呼ばれた男は、腰掛けている蠍の背を優しく撫でるとニコリと微笑んだ。 「サジ、元気してたか。まだ虫が嫌い?この子はいい子だから、好きになってほしいなあ。」 サジの目は、先程送り出したジョシュの死体を見ていた。ああ、自分が殺してしまったようなものだと、その虚ろな瞳でその姿を目に焼き付ける。 腹に突き刺さった針から、どくどくと血が溢れて止まらない。内臓を持っていかれたのかもしれない。血でぬるつく手で必死でしがみついているが、もう力が入らない。 「サジ、お前の魂はなにい、」 セルケトの言葉が途絶えた瞬間、サジの体が重力に従って落ちた。 ああ、ぶつかると覚悟した痛みは来ず、何かに抱きすくめられてそっと地面に横たえられた。 体が重い。くたりとその体を擦り寄らせると、慣れ親しんだ獣の匂いがした。 「サジ!!!!」 「くそ、っ…!!」 アロンダートが、今まで見たこともないような顔でサジを呼ぶ。レイガンが投げて寄越したポーションの袋を片手に受け取ると、その薄い腹を貫く針を握りしめ、器用にも外殻をのこし内側を燃やし、針の太さを萎ませる。 びくんとサジの体がはね、アロンダートは負担をかけないようにサジの体に刺さった抜け殻の様な針を握りしめると、ゆっくりと引き抜いた。 「う、う、あ、…っ…」 「サジ、サジ頑張れ。大丈夫だ、僕がいる。」 ポカリと空いた腹の穴を修復するように、アロンダートがポーションをかける。かけたそばから治癒まで施すので、サジの腹からは修復に伴う細胞の活性で傷口からは湯気がでていた。 ぶわりとサジの身に、冷や汗が吹き出す。信じられない程の痛みだった。 びくんとサジの四肢が跳ねる。アロンダートは現した4本の腕でサジを押さえつけながら、何度もそれを繰り返す。暴れて、泣き叫んでも止はしなかった。死ぬよりもいいと思ったからだ。 背後で、レイガンと魔女がやり合っている音がする。サジの体の痙攣が止まる頃には、痛みに嘔吐し股ぐらを濡らしたサジがぐったりと意識を手放していた。 「アロンダート、手をかせ!!!」 ブオンと音がして、アロンダートの黒髪を風が揺らした。叫んだレイガンが壁に叩きつけられたのだ。 パラパラと瓦礫を散らして、意識を失った体がずり落ちる。 それでもアロンダートは、サジを抱きしめたまま俯いていた。 「ああ、まさか白蛇がててくるとは。びっくりしたあ、君もすごいね、何その腕。」 じゃりじゃりと小石を踏みしめるような音を立ててセルケトが近づく。真っ黒で光の移さない瞳は、同じ黒髪をもつアロンダートを真っ直ぐに見つめていた。 カサリと音がして、蠍が蠢く。消えてしまった針を惜しむようにゆらゆらと揺らすと、そっとセルケトに寄り添う。 「何も尻尾を切ることないじゃない、彼のアイデンティティだ。ああ、可哀想に…」 「よく喋るな貴様。」 そっとセルケトが蠍の体に触れると、底冷えのするような声がした。黒目だけを動かし、アロンダートに目を向ける。ざわざわと魔力が滲み、その豊かな黒髪に羽根が交じる。肩甲骨が盛り上がり、その逞しい猛禽の翼を形成する頃には、アロンダートの体躯は人のものとは違う姿に変わっていた。 「なんだ、きみやっぱり混ざりものか。」 アロンダートはサジに着ていたローブをかけると、ゆっくりと立ち上がった。 レイガンがひく、と指を跳ねさせた。薄ぼやけた視界を擦って明瞭にさせる。よろよろと起き上がって前を向いた瞬間、息を呑んだ。 「アロンダート、か…?」 レイガンの目の前にいた、アロンダートは歪な獣人のようだった。 猛禽の頭から続く分厚い胸板は完全に鳥のものだ。腕を4本はやし、下肢だけ人のように二本足で立つ。たっぷりとした尾羽根と肩甲骨から生えた漆黒の翼は、空の王者を彷彿とさせる。 レイガンの知らない、アロンダートの姿がそこにあった。 ぶるりと身震いした。恐ろしいほどの魔力が滲み出てきたのだ。 しゅるりと服の中から出てきたニアが、あららと場違いなトーンで呟く。 「箍がはずれている。あーあ、なんのためのトリガーワードなのか。まあ、番があれじゃあ、縛れないかぁ。」 「なんだ、不味いのか?」 「不味いもなにも、自分の意志で制御できなくなっているよ。あーあ」 「な、っ…」 レイガンが絶句すると、ズシンという地響きがした。慌てて顔をあげると、アロンダートが蠍を投げ飛ばしたらしく、奥の壁にめり込む様にして蠍の体が埋まりかけていた。 「くぁ、っ…」 「える、…!!」 土煙を立てながら、エルマーの体が地べたを転がる。声をかけた瞬間にこれだ。自分の引き運の悪さに辟易すると、肩で息をしながら、ずりずりと体を起こした。 一体何だこいつは。小さく舌打ちをして、自分を投げ飛ばした目の前の女を見つめる。 「いやだ、こわい、なんでこんなことしなくてはいけないの、むり、ほんとうにむりなの。」 真っ赤な髪を散らかすようにボサボサにさせた魔女は、頭を抱えるようにしてずっとうずくまっていた。ぶつぶつと暗い声でネガティブな事ばかりを言い、その服装は侍女のようなものだった。 エルマーは、生存者かと思ったのだ。しかしそれは大きな間違いで、声をかけた瞬間に現れた巨大な蟷螂の攻撃を、慌てて防ごうとして投げ飛ばされたのだ。 「てめえ、魔女か…」 「お、お、おとこ…おとこ、こわい…いや、いやよこっちにこないで…」 「あ!?投げ飛ばしておいてなにいって、」 「いやだっていってるのに、なんでよ、くちをひらかないで、あたしをにんしきしないで。」 頭を抱えて蹲る。その指の隙間から、真っ赤な瞳がエルマーをちらりと見やる。再び現れた大蟷螂が、その鎌をエルマーに向けて振り下ろす。ナナシが慌てて結界を張ると、鋭い音を立てて蟷螂がのけぞった。 「マンティス、あたしいじめられているの。めのまえのおとこに、いじめられているのよ。ええ、きっといまにころされる、ころされるにちがいないわ。だって、めがまじだもの。」 「目の前に急に攻撃してくるやつがいるのに、倒さねえわけねえだろう、馬鹿かてめえ。」 「なんてそやなの。おとこって、ほんとうにどうしようもないのしかいないのね。」 まつげの長いその女は、瞳孔がひらいた赤の目でエルマーを見つめる。ちらりと視線を流して銀色の狼に跨るナナシをみると、ほう…と息を漏らした。 「すてき、なんてうつくしいの。せいじゅうにまたがったしんしさまのよう。メアリーは、きれいなものがすきよ。」 「クソアマ、ナナシに手ェ出したら確実に殺す。」 エルマーが視界を遮るようにナナシの前に出る。メアリーはその丸く大きな目でエルマーを真っ直ぐに見つめると、小さく吐き捨てた。 「どくせんよくのつよいおとこはいやだわ。それに、あたしはきれいなものにめがないの。きれいなものは、きれいなままでいなくっちゃ」 「あ?」 「にどはいわないわ、あなたとおなじくうきをすうのもいやなのに。」 初対面の女にここまで罵られると。エルマーだって引きつり笑みしか浮かばない。な、なんて失礼なやつ。後ろに控えている蟷螂が大人しいのが気になるが、メアリーがずっとしゃがんだままなのも気になる。 敵か味方かだと、おそらく前者だろうことは明確なのに、なんともマイペースな刺客である。 「ナナシちゃんっていうのね、あたしメアリー。ここはあぶないから、そうね…あそこのたてものまでさがっていて。」 「やだ、えるといる…」 「かわいい、えるといるだって、なんてかわいいの。こんなかわいいこにすかれているなんて、ずるい。」 メアリーの顔つきが変わった。スッ、と立ちあがると、その手にはどこから出したのか、大きな鉈を握りしめていた。 ぶつぶつと何かをつぶやきながら、2度その場でジャンプする。エルマーが短剣を出して構えると、メアリーは小さく息をフッと吐いた後、その細い体を大ぶりに回転指せながらエルマーの首を狙ってきた。 「っ、すげ、ピルエットだなあ…!!」 「すてきなひょうげん、それはすきよ、」 「力、強…っ…!!」 短剣で鉈を受け止める。顔の近くで金属の擦れ合いで火花が散らされた。エルマーはぎりぎりと歯を食いしばりながら腰を落として踏ん張るが、短剣にぴしりとひびが入ると、慌てて膝を落として上半身を下げた。 ひゅう、と頭上を鉈が凪ぐ。数本の髪の毛を散らすと、メアリーはまるでレベランスのように体制を整えた。 「あらごめんなさい、まさかこんなにひりきだなんておもわなくて」 「おいおいやめてくれよ、短剣だけじゃなくて、矜持まで折る気かメアリー。」 くるくると飛んだ短剣の先が壁に跳ね返って地べたに落ちる。鋼を叩き割るほどの腕力に、エルマーの背に冷たい汗が流れた。 ーー洒落になんねえ。女と思って油断してれば、こっちが詰みだ。 エルマーは黙って身体強化の術をかけると、もう一本の短剣を抜き出した。 それを顔の前で構えると、集中するようにゆっくりと呼吸をする。 「あなた、ぶきのつかいかたがへたね。こんなやすいなたでたんけんがおれるんだもの、もちぬしがいけないわ。」 「…クソ腹立つ。」 「あら、じじつなのよ。どくがくはいけないわ。あらがめだってしかたないもの。」 「あー、そうかい。」 メアリーは自身の唇に触れると、下唇をモニモニと、遊ぶように押し上げる。何か考えているような素振りで、ちらりとナナシをみつめ、そしてエルマーをみつめた。 「きめた。あなたがまけたら、あたしはナナシちゃんのこをうむわ。」 「あ?」 「きめたの、そうよ、あたしはあのこのあかちゃんをうむ。すてき、すてきねえ」 スカートをふわりと風に遊ばせ、くるりと回る。とんでもない事を言い出したメアリーに絶句すると、ナナシが戸惑ったようにエルマーをみた。 「やだよう、こわい…」 「俺も怖えよ…何だこの女。」 ーあのう、精神を病まれているので無視してよろしいかと。 「うわびっくりした。だよなあ」 おずおずとルキーノが話しかける。エルマーもそう思う。あいつはちょっとやばい、だって瞬きしてねえし。 エルマーはくるくる回る女の上をちらりと見た。 微動だにしない大蟷螂の魔物、あいつは一体何だというのだ。 ーエルマー、おそらくあの大蟷螂はきっかけがないと攻撃してきません。彼女も厄介ですが、頭上にもなるべく注意を払ってください。 「える、ナナシがまもるよ。がんばって」 「嫁の期待には答えねえとな。」 ナナシが真っ直ぐにエルマーを見つめて言う。貞操も含めて、けして負けるわけには行かない。気配を察知しながらというのが大いに面倒くさいが、肩の力を抜かねば躱せるものも躱せない。 攻めが厳しいなら、守りに徹して体力を削る。未だ夢現のメアリーに、攻撃を仕掛けるのは恐らくマズイ。大振りで動きの読みやすい攻撃は、仕掛けさせてこちらが体に覚えさせるほうが生存率が上がる。 エルマーは空魔石の簡易爆弾を数個手に取ると、メアリーの足元に放り投げた。 「きゃ、っ…いやだ、メアリーとてもびっくりした。まてないおとこってほんとうにきょうりょう。」 「待たせる女も大概だぁな。メアリー、おまえモテねえだろう。」 「むかつく、あんたにおしえるきはないわ」 「それが答えってやつかい。」 ニヤリと笑うと馬鹿にしたように見下す。気分は完全にいじめっ子だ。メアリーはまあるい目でエルマーをみつめると、ムスッとした顔でむくれた。目は感情が乗っていない分、ちぐはぐで少し怖い。 「わかった。メアリーのとってもおんなのこらしいぶぶん、とくべつにみせてあげる。」 ニヤリと笑い、赤い舌が上唇を舐める。ゾクリとした殺気にエルマーが飛び退ると、間髪入れずに土をえぐる様な衝撃で鉈を振り下ろした。 「いきおくれたおんなほど、つよいものはないわ」 鉈の刀身全てを土に埋めたメアリーはそう言うと、その力強さに引いているエルマーを見てニヤリと笑った。

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