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その姿はまるで、神話に出てくる生き物のようだった。紫色の大きな体のほとんどは蟷螂の姿である。唯一メアリーだろうとわかる部分は、豊かな赤い鬣に豊満な胸を蓄えた女性らしい曲線を描く上半身だろうか、蟷螂の頭部と両腕の鎌の鋭さは、歪さも相まって退廃的な雰囲気であった。
エルマーは、その揺れる乳房を見て。ぶわりと鳥肌を立てた。随分と前に娼館に取り憑いたアンデット系の魔物を倒した時のことを思い出したからである。
「おっぱいはだめだ。あれはいけねえ。」
なんとも言えない顔をしながらそんなことを言う。人間の体についているおっぱいならいいが、魔物のおっぱいは怖い。思春期真っ只中の若い冒険者ならともかく、意外にもエルマーの最も苦手とする魔物は、女性の特徴を持つキメラだった。
ー来ます!!馬鹿なこと言ってないで避けてください!
「無理無理きめえええええ」
「えるのばか!もおお!」
ここに来てなに言っているんだと言わんばかりにナナシがむくれる。先程の人間だった頃のメアリーとのやり取りも腹に据えかねているのに、ここに来て好き嫌いの話になるなんてと、未だヤキモキしているナナシは、手のひらを真上に掲げて鎌による熾烈な攻撃を防いでいた。
「かっこいいえるいない!ばかあ!」
「は!?ここにいるわ!見てろよ雌蟷螂、3枚におろしてやらあ!」
ーなんというか、やっぱりエルマーの基準は御使い様のかっこいいが基準なのですね…。
ルキーノの呆れた声が脳内に響く。いかん、これは由々しき事態である。エルマーはナナシの一言により、スイッチが入った。
この際どう思われたっていい。でもナナシの前でダサいのはだめだ。常に嫁の前ではかっこよくありたいのだから。頑張る動機がなんともアレだが、ナナシの肩の上で大人しくしていたギンイロを鷲掴むと、お前も道連れじゃと言わんばかりに巻き込んで結界の外から出る。
「エエエ、ナンデギンイロモ⁉︎」
「弔い合戦と行こうや。ジジイ手にかけたのは、あの女だった。」
ギンイロがエルマーの言葉にピクリと反応する。ボッと青い炎を纏って大型の狼のような本性を現すと、その身のまわりにバチバチと紫の稲妻を走らせてグルルと喉を鳴らす。
そうか、こいつが家族を奪ったのか。
ギンイロの美しい翡翠のような単眼がきらりと輝く。瞳孔を縦に伸ばし、その豊かな鬣を奮い立たせると、グワアと今まで出したことのないような獰猛な声で吠えた。
ビリビリと空気が震える。威圧の状態異常を引き起こすそのハウリングに、エルマーもナナシも、ギンイロがこちら側でよかったと心底安心してしまうような威力があった。
この二人でさえこうなのだから、向けられた蟷螂のキメラはたまったもんじゃない。メアリーの声に歪な複音を混ぜたような不快な鳴き声をあげて体を硬直させると、まるで怯えるように鎌を折りたたみ後ずさる。その機会を逃すほど、エルマーもギンイロも馬鹿ではない。
「ギンイロ、」
「オソイ、モウイク」
飛び出したエルマーよりも素早くギンイロが空にかける。まるで不可視の階段でも駆け上がっていくようにその足取りは澱みはない。エルマーは素早いギンイロを茶化すように口笛を吹くと、取り出した鎌を素早く展開して一気に足元まで踏み込んだ。
「崩すぞ!」
「アイヨ。」
踏み込んだ足を軸に、素早く大鎌を真横一閃に薙ぐ。瞬時に節目を狙った正確な攻撃に、魔物の体がだるま落としのようにガクンと落ちた。飛びかかったギンイロの体を捕食しようと伸ばした頭は予測に外れて空に食らいついたようだった。
切り飛ばされた四肢が勢いよく飛んでくる。小さく悲鳴を漏らしたルキーノに、ナナシは安心するようにポシェットを撫でる。飛んできても、ナナシの結界があれば当たらない。エルマーもそれをわかっているから思う存分切り刻める。
夜の闇が優しく地上を覆う。今宵は満月で、この大地に潜む者どもの魔力が高まるスーパームーンだ。野暮な鈍色の雲が満月を掠めた。魔物はまるで見上げるかのようにその鎌首を月へと向ける。
「いいとこは譲ってやるよ。」
手で庇を作るように、肩に大鎌を担いだエルマーが呟いた。
空を蹴り、そのしなやかな四肢を伸ばして飛び上がったギンイロが、大きな満月を背負うかの様にして飛びかかった。
月の光が煌めき、銀の鬣を黄金に縁取る。その美しい翡翠の瞳で真っ直ぐに獲物を捕らえ、大きな魔物とのその一瞬はまるで一枚の神話を切り取った絵画のようだった。
バチリとその身に魔力を纏う。雷光が走り、夜空に激しい雷鳴が響く頃には、ギンイロはすでに地上に降り立っていた。
静寂が辺りを包む。まるで大地の怒りの如く轟いていた雷鳴はもう消えている。まるで、凪いだ心のように、そっと静かなひと時が訪れたのだ。
背後で見上げたままの歪な魔物が、その身をゆっくりと崩していく。ギンイロがきちんとおすわりをして、尾を振り。へっへっへ、と笑い声のような息遣いの後、体を震わして毛並みを整えた。
魔物は、そんな犬らしい行動をみる事もなく、まるで砂が落ちるかのような音を立ててその体を消失させると、もうそこには聖石しか残っていなかった。
「ギンイロ!」
「ナナシー‼︎」
一人と一匹が、互いの自慢の尾をブンブンと振り回して駆け寄る。ナナシの華奢な体がギンイロに飛びつくものだから、エルマーは腹の子に障らないかと少しだけ慌てた。
「ミテタ?ギンイロ、カッコヨカッタデショ?」
「かっこよかた!ギンイロ、とってもかっこよかたよう!」
ナナシが興奮したように尾を振り回しながら、そのまろい頬を薔薇色に染める。エルマーは疲れたような顔で一人と一匹の元に歩みよると、ギンイロの毛並みにご機嫌に頬擦りをするナナシの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ひとまず、合流すっぞ。ルキーノ、気配はわかるか。」
ーはい、今のところ、魔物特有の気配はありませんが、まだ夜は開けていないので油断なさらない方が宜しいかと。
「だよなあ。ナナシ、俺も頑張ったんだけどご褒美ねえの?」
「える、ナナシさっきやなおもいした。おんなのひとのにおい、おちるまでおあずけ。」
ぷん、とむすくれたまま言う。どうやら愛しき番いはご機嫌斜めらしい。エルマーは、なん…だ、と…。と顔色を悪くしてよろめいたが、こればっかりは自業自得である。
ナナシの腕の中のギンイロの顔がシンプルに腹が立つ。人はこれをドヤ顔というのだろう。
「ニア、水う!」
ギルドの前で合流したエルマーの第一声はそれだった。
賢い水の神様は、嫌がるでもなくニヤついたような雰囲気でエルマーに近づくと言った。
「雌のご機嫌とりかあ。情けなく振り回される男も、ニアは嫌いじゃない。」
そういうと、ドバシャアッと滝のような量の水を頭上から落とした。頭の傷にえらい染みる。エルマーは痩せ我慢をするようにグッと唇をつぐむと、アロンダートに背負われているサジを見た。
まるでもたれ掛かるように、体の力を抜いてぐったリとしている。繋がりを辿ると、恐ろしく魔力を消費しているようだった。
「おい、サジ大丈夫か…。」
「腹を貫かれたのだ。神使でなければ死んでいたかもしれない。今は眠って、魔力を練っているようだ。」
ニアがそう言っていた、とレイガンが続けた。幸いここに神使について詳しい神様が居たおかげで異常ではないという事はわかった。しかし、ずっとおぶっている訳にもいかないだろう。
エルマーはひとまずどこか休めるところにいく方がいいと、珍しくまともなことを言う。
「ギルドの地下に行って、シェルターで休ませてもらえねえか交渉してくらあ。」
「まて、俺もいく。エルマー一人だと不安でしかない。」
レイガンが失礼なことを言うが、まあ事実なので仕方がない。エルマーがいくならと。ナナシもついて行きたがったが、万が一魔物の残党が現れたときに、サジを抱えているアロンダートは戦えない。ここで待機して、ギンイロと二人で守ってくれと言われると、ナナシは与えられた役割に嬉しそうに頷いた。
ギルドの地下シェルターは、受付の机を大きくずらした所に入り口があった。
レンガで形作られた降りづらい階段をくだり、硬質な鉄の扉で閉ざされたドアを叩く。暫くして扉が開くと、中から顔を出したのは、以前換金所で世話になった受付の女だった。
「あ、アレえええ偽Fランクの人!!!!」
「偽Fランクの人…?」
レイガンが訝しげにエルマーを見やる。間違いではないのだが、そう言われると少しだけ腹が立つ。偽ってなんだ。正真正銘のFである。更新してないだけで、嘘でも偽でもない。
「随分な物言いだなあ嬢ちゃん、こっちは魔物倒してきたっつーのによ。」
「え、もしかして皇国からの応援って貴方達だったんですか!?」
「応援?んな話聞いてねえけど。」
レイガンも小さく頷いた。大体皇国は今それどころじゃないだろう。エルマーは不審に思い、問いただす。すると、最近きた冒険者の男が、万一に備えて皇国から力のあるものを派遣すると言われたらしい。特別な契約書などはなかったが、昨夜のことがあった分、もしかしたらと思ったというのが真相だった。
「念のため聞くが、そいつはどんな身なりだった。」
「えっと、軽装で、黒い瞳の20代くらいの男性と赤毛のメイドさんみたいな人たちでしたけど…。」
エルマーとレイガンは顔を見合わせた。ビンゴだったのだ。先程やり合った奴らがそうだったことを言うと、女は一気に顔を青ざめさせた。
「う、そ…なら私、犯人にあっていたってことですか…。」
「使いのものなら、証書の一枚くらい持ってくんだろ。」
「エルマー、彼女だって予想していた訳じゃない。あまり責めるな。」
冷たい声色になってしまったのは、チベットのことがあったから、余計にだった。レイガンは小さく震える女を慰めるかのように気にするなというと、言いづらそうにジョシュやチベットのことを語った。
「すまないが、仲間が一人重症なんだ。休ませてくれないか。」
「そ、それはもちろ、」
「お断りだよ!」
女の言葉を遮るかのように、若い男が吠えた。傷だらけで、腕を肩から吊っているその男は、棘のある眼差しでエルマーたちを睨みつける。
「あんたら、聞いてないっていうけど、皇国から来たんだろう。なんでもっと早く来なかった…!あんた達がもっと早くくりゃあ、息子は…ッ…」
ウッと喉を詰まらせ嗚咽を漏らす。確かにエルマー達は知らなかった。しかし、まるでお膳立てをされたかのように、一歩先回りをされて待ち伏せをされていたのだ。この長閑な街で、起こるはずのない魔物の奇襲は、エルマー達を待ち伏せしていたものによって齎された。
「すまない、だが」
「いい、レイガン謝んな。言わせておけばいい。」
「言わせておけば、だと…?」
怒りに満ちた目で、エルマーの一言に大柄な男が反応する。ズカズカと歩み寄ると、扉を支えていた女の肩を鷲掴みレイガンの方に突き放した。慌てて受け止めたはいいが、女性にしていいことではない。抱き留めたレイガンは文句の一言でも言ってやろうと顔をあげた瞬間、あろうことかエルマーが男の振りかぶった拳を避けもせずに顔で受け止めた。
「な、…ッ、エルマー!」
「ダンさん!!!なんてことを…!!」
「うるせえ!さっきから聞いてりゃ他人事みてえな面しやがって!!てめえらがこの町にこなきゃ、こんなことにはならなかったんだろうがああ!!!」
振りかぶった二打目、鈍い音を立ててよろめいたエルマーを壁に押し付けて殴ると、赤土の床にビシャリと血液が散らばった。
酷い、なんで避けないのだ。エルマーはダンの一方的な暴力を、抵抗もせずに受け止めた。鈍い音を響かせる地下に、遅い二人を心配してか、サジを背負ったアロンダートと共に、ナナシが降りてきてしまった。
まずい、見られたい場面ではなかった。エルマーは口の中に溜まった鼻血を吐き捨てると、赤髪を鷲掴むダンを真っ直ぐに見上げた。
「離してくれ。もうわかったからよ。」
酷く掠れた声でエルマーが言った。小さく息をつめたのは、ナナシだろうか。エルマーはダンの気持ちも、子を失った名も知らぬ男の気持ちもわかっていた。わかっていたからこそやるせなく、そしてその消化しきれない思いが落ち着くならと拳を甘んじて受けたのだ。
ナナシにこんな、ダサいところは見られたくはなかったが。
「え、る…える、エルマー!!」
「貴様、彼になんてことを…!」
狭い階段を、二人が駆け降りてくる。信じられないといった顔でナナシが取りすがるようにエルマーに抱きつくと、突然現れた美しい生き物に動揺したダンがたじろいだ。
「お前らも、こいつの仲間か。」
狼狽えたことを悟られたくなかったらしい。語気を強めたダンの言葉に、エルマーがその美しい金眼で鋭く睨みつけた。
「俺の仲間に危害を加えたら殺す。」
「ッ…」
グスグスと胸に顔を埋めて泣きじゃくるナナシを抱きしめると、壁伝いによろめきながら立ち上がる。銀色の髪を持つ美貌の青年が慌てて支えると、レイガンも渋い顔をしながらエルマーの背中に手を添えた。
「お前達ばかりが…、悲しんでいると、思うなよ…。」
「あ?何言ってんだ…、こいつ。」
レイガンの言葉に対して、口から出た言葉は負け惜しみだったのかもしれない。
ダンと、その一部始終を見ていたもの達は、皆一様に消化のしきれないモヤつきを胸に抱きながら、ボロボロの五人と一匹を見送った。自分たちは、何も間違ってはいない。そう、確証もない何かに縋りながら。
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