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「…、…こ…、こは…」 ふいに、背中の柔らかな感触がきになって、浮上するように目が冷めた。 視界がぼやける。木目が温かい天井を見上げながら、はて、ここはどこだろうかと瞬きを繰り返した。 長い髪は巻き込まないようにと丁寧に体から避けられている。 亡羊とした思考の中、くん、と鼻で空気を確認すると、ますます知らない香りばかりで戸惑った。 驚くくらい身体が言うことを聞かない。体内の魔力を探っても、全身に行き渡る前に霧散してしまう。余程内蔵にダメージを食らったようで、サジは小さく息を震わした。 「…っ、ひ、…」 怖かった。あんな太い針が腹を貫いていたのだ。サジは、自身が望んでエルマーの神使になったおかげで、こうしていまも存在を保てている。 俗世から離れたのに、明確な悪意にここまで怯えさせられたのは初めてだった。 怖い、本当に痛くて死んでしまうかと思った。 サジは自分が、血と共に人格も変わってしまったのではないかと不安になるくらい、今この瞬間、子供のように怯える自分が嫌だった。 ここはどこだ。知らない場所に寝て、アロンダートたちの姿もない。いやだ、いやだ。一人?一人は嫌だ。悲しい、怖い、辛い。 腹がジクジクと疼く。指一本動かせない、自分の体なのに言うことを聞かない。アロンダート、来て、サジの手を握りしめて、怖くないよって言ってくれ。 「ぁ、ろん…だー‥、と…」 「サジ、…」 「…ぁ、…い、た…」 キシリと音がして、ベッドの下からアロンダートが顔を出した。どうやら下にも寝具を敷いていたらしい。その造形の整った顔に心配の色を浮かべながら、アロンダートはサジの顔を覗き込んだ。 「サジ、サジ…どうした。やはり、腹がまだ痛むのか…」 「っ…ひ、ん…っ…」 「泣くな、ああ…こわかったな、サジ。もう大丈夫だ、ここは安全だから。」 「ふ、ぅ…、ぁ…ぁ、っ…」 箍が外れたかのように、サジのラブラドライトの瞳から溢れたのは、大粒の涙だ。 幼子のように顔を歪ませ、ボロボロと涙をこぼす。今までの不遜な態度のサジからは考えられない程、いとけなく震えながら嗚咽を漏らす。 体が動かない、抱きつきたいのにそれができなくていやだった。 「サジ、どうしてほしい?僕にできることは、なにかあるだろうか。 「っ…、さ、わり…たい…」 「ああ、ああ…勿論だサジ。なら、手を握ろうか…、温かいな。血が通っている。」 「だっこ…しろ…っ…」 「かわいい、かわいいなあサジ、お望みとあらば、なんでもしよう。」 アロンダートは泣きながらのサジからのおねだりに、その瞳をとろめかせた。 そっと立ちあがると、サジの背中と膝の裏に腕を回して抱き上げる。やはり体は軽い、腹は治したといえど、やはりかすかな揺れでも疼くらしく、アロンダートがサジを抱きかかえて腰掛ける頃には、サジの額には汗な滲んでいた。 胡座をかき、その上にサジを横抱きに座らせる。ゆるゆるとその細腕を首に回してアロンダートに抱きつくと、ようやく人心地ついたといった具合に吐息を漏らした。 「…さすがに、参った…。」 アロンダートがサジを腕の中に閉じ込めながら小さくつぶやく。 あの光景は、地獄そのものだった。 飛び出していったサジを追いかけて目にしたものは、腹から生えた鋭利な棘だった。 アロンダートはその光景を見たときに、怒りで我を忘れた。腸が煮えくり返るとでもいうのだろうか。誰のものを勝手に傷つけているのだと、その命を奪わなければ到底収まらないような強い衝動に突き動かされた。 途中、理性を捨てきれなかったのはレイガンのおかげだ。コックローチに襲われかけたサジの意識のない体をかばってくれた姿を見て、冷静になることができたのだ。 「レイガンが、途中でサジを守ったのだ。僕は復讐に酔いしれ、それができなかった。 …それが、こんなにも情けないことだと恥じたからこそ、魔物化を防げたのだ。」 「…よかった、本当に。」 「良いものか。僕は最後まで、この手でサジを守りたかった。誰に助けられるでもなくな。」 「アロンダート…」 その褐色の肌に、サジの手が触れる。優しく頬を撫でると、その瞳は潤んでいた。瞬き一つで涙がこぼれそうなほどに蕩けた瞳を隠そうともせず、それを零さないように真っ直ぐにアロンダートを見つめたサジの顔は、心底安心している表情だった。 神使といえど、痛いものは痛い。俗世から離れたサジが死ぬのはエルマーがサジの魂を縛った短剣で胸を刺すときだが、それはおそらくないだろう。ないからこそ、この身に受ける苦痛は生前と何も変わらない。 身を貫かれたあの瞬間、サジが最も恐れたのはアロンダートの魔物化だった。 「サジは、おまえが…無事でよかった…。魔物化をせず、ほんとうに…」 「魔物になんてなるものか。僕はサジのものだぞ。サジの為に、けしてそんなものにはならない。お前がまたがる騎獣は、僕だけでいいのだからな。」 「元第二王子の騎獣とは、なんとも贅沢なものだな…」 「だろう。僕はサジがいれば立っていられる。だからこそ、死ぬなサジ。お前の声が僕を守るのだから。」 「ああ、そうだな…そうだ、…」 額を重ね、鼻先をすり合わせる。そっと唇を押し付けるように擦り合わせると、少しだけ涙の味がした。 サジの薄い舌をアロンダートが掬い上げる。唾液に魔力を含ませて与えると、サジの素直な体が身を震わせて喜んだ。 「っ、…ふ、」 「これ以上は、いけないな。傷に障る…」 「っあ、…や、やだ…お前がほしい、…」 「だめだ。治癒したばかりだぞ。それに、抱くのなら激しく抱きたい…それならやはり、お前の体が万全ではないと。」 「アロンダート…、」 耳元に唇が触れる。掠れた声で甘やかに囁かれるだけで、その身が喜んでしまう。 抱きついた腕を見て、サジは笑った。 あんなに動かなかったのに、アロンダートに縋り付きたい一心で持ち上げたのか。 大概素直な自分の体を、アロンダートにもたれ掛からせるだけで、その見のこわばりが楽になる。 接触による魔力譲渡がこんなにも心地よいなんて知らなかった。 性的なやり取りはない、それでもサジはその体温を近くに感じるだけで、こんなにも気持ちがいい。 「たしかに、今抱かれたら…死んでしまうかもしれないな。」 「サジ、洒落にならないぞ。」 「ばかもの、気持ちが良すぎてだ。」 その厚みのある唇に吸い付く。その大きな体にスリスリと甘えながら、サジはアロンダートの豊かな黒髪に指を通す。 魔物化は防げたが、余程緊張していたらしい。羽混じりの美しい黒髪を梳きながら、慌てふためくほど心配されたことが嬉しくて、サジはもぞりと口元を緩ませた。 「サジ、もっと顔をみせてくれ。」 「いやだ、恥ずかしい。」 「つれぬことを言うな。お前のその微笑みは、僕だけが知っていればいい。そうだろう?」 「…仕方ないな」 そっとアロンダートの手に顔を挙げさせられる。その手に甘えるように頬を擦り寄せると、頬を染めながら、ゆるく微笑む。 不遜な笑みではない、それはとても美しい慈愛に満ちた微笑みだった。 「愛している、サジ。この笑みは、僕だけにしか許さないでくれ。」 頬を乙女のように赤らめ、泣きはらした目元を隠さないまま、アロンダートの言葉を噛み締めた。 愛している、サジはその言葉にじわりと目を潤ませると、本当に小さな声で、サジも…と言った。 アロンダートの鋭い聴覚はそれをしっかり拾うと、嬉しそうにクルルと喉を鳴らしてあぐりと鼻を噛む。 転化したときのサジへの愛情表現が、ついでてしまったらしい。 サジはそれを目を丸くして受け取ると、照れたように肩口に顔を埋めたアロンダートの仕草に胸が甘く締め付けられ、ああ、これが萌えるというやつかあ。と身を持って体験した。 翌朝のことである。 「サジ!サジおきた!エルマー!」 「う、…うるせ、ちょ…ナナシ、いまおきる…」 「エルマーはやく!!ナナシもがんばた!だからはやくおきてー!」 「な、にをがんばった…ふあ、あー‥」 大きなあくびをひとつ、エルマーは戦闘の疲れで体がギシギシと錆びついたように動かないのに、朝っぱらからナナシによって容赦なく叩き起こされた。 もぞもぞと寝具に潜り込み、亀のように丸くなる。起き上がるのかと思ってしばらくは見つめていたナナシがキョトンとしていたのもつかの間、再び寝起きを立て始めたエルマーにしびれを切らし、ついにはガバリと腰にまたがった。 「え、る、まー!!」 「んあ、まて…」 「う?」 「あー‥、もちっとこっち、」 寝具の上からエルマーに跨ったナナシが、腰を鷲掴まれて誘導される。素直に従いながらその腰の上に尻を押し付けると、ゴリリとしたものが寝具越しに押し付けられた。 「ひう、」 「そこなら存分に、跳ねてもいいから…ふあ、あー‥いってえ!!!!」 「えるのばかあーーー!!!」 朝っぱらからご起立なさったエルマーのご子息をごりごりと押し当てられたナナシは、しびびびっと身を震わしながら体を硬直させると、じわじわと羞恥に顔を染め上げる。 あさから!!ひとのいえで!!なんということだ!!その思いを込めた一発を朝からべちんとお見舞いすると、扉の奥からエルマーの痛みに呻く声をきいたレイガンが、呆れたようにため息を吐いた。 「おお、朝っぱらから元気だねえエルマーさん。」 「ああ、本当に馬鹿なんじゃないのか。」 「レイガンさんは、疲れが残ってるみたいねえ。」 カチャカチャと食器の擦れ合う音がする。アリシアが朝早くに目覚めたナナシを誘ってつくったポタージュスープを、器によそう音である。 「ナナシちゃん、朝から手伝ってくれたのよ。裏の畑でとれたお芋をすりつぶすの手伝ってくれてねえ。なんでも、料理を覚えたいんですって。」 「ああ、それで…」 ナナシが寝ぼけながらも起きてきたかと思えば、昨日のうちにアリシアと約束を取り付けていたらしい。ごはんつくる…ごはん…、といいながらフラフラと部屋をでていったので、レイガンはちょっとびっくりしたのだ。 エルマーはよほど疲れていたらしい。まあ、レイガンもいるから安心したのだろう。ナナシが腕から抜け出しても気づかないほどに爆睡していた。 「レイガンさんは朝っぱらから鍛錬とは、やっぱり若い男は元気ねえ。ロンも見習いなさいな。」 「母ちゃん、そりゃあないぜ!そもそも男としての体の作りがちげえもの。お、もどってきた。」 キイ、と扉から出てきたのは、顔に真っ赤な紅葉をつけたエルマーだ。ボサボサの髪で下肢にボトムだけを履いた姿で出てくるものだから、その晒された上半身にマーチもアリシアも少しだけ燥いだ。やはり、いい男の腹筋は目の保養らしい。 「エルマー!人様の家だぞ!服をきろ!」 「ああ、ロン、服かしてくれえ…」 「あんた昨日着てたやつは?」 「ナナシのよだれでびちゃびちゃ。」 案の定叩かれてもいたずらはしたらしい。とんだ胆力である。ふんだ!とぷんすこしているナナシの顔が若干赤いのが目に毒である。 レイガンはため息を吐くとエルマーのインぺントリをぶんなげた。それに入っているだろうという意味らしい。 寝ぼけたエルマーの思考力はがくんと落ちる。謎に感心した声を漏らすと、ガサゴソと適当にシャツを取り出して羽織る。 「朝はナナシがアリシアさんと作ったらしい。先程大はしゃぎで起こしにくるものだから、寝起きのサジに苦笑いされていたぞ。」 「おー‥、サジへいきなのか…」 「明け方目を覚ました。魔力譲渡でだいぶ回復はしたが、まだ無理はさせられないな。」 「ほお…、…つくった?」 「エルマー、まだ寝ぼけているのか。」 しょぼつく目でぼけっとしながら、アロンダートの話に頷くと、くんくんとスープの香りに鼻を引くつかせる。ナナシが朝から頑張ったのは、どうやらこれらしいと思考が追いついてきたところで、ぱちり覚醒した。 「まじで。」 「つくった!」 ふにゃあ!と泣き出したアランを見て尾であやしていたナナシが、エルマーの言葉ににこにこしながらうなずいた。 アリシアによって抱き上げられたアランに尾を握られて、はわ…となったが、アランがご機嫌に泣き止んでくれたので良しとしよう。 さあご飯にしましょうと、アリシアが食器を並べると、アロンダートはサジを呼びに行く。 ナナシががんばった芋のポタージュスープは、たしかに旅先ではなかなか作れないものである。多少潰し残した芋は浮いているが、トロミのあるそれはコンソメのいい香りがしていた。 「すまない、世話になる…」 アロンダートによって抱き上げられて登場したサジが、用意された椅子に腰を押し付けると照れたように言う。 寝て起きたら他人の家で、たいそう驚いたらしい。どうやら汚れた衣服も洗ってもらったようだと窓からはためく洗濯物を見て、いたたまれないように肩身を狭くする様子に、エルマーが吹き出した。 「おまえってそんな殊勝な態度できんだなあ。」 「うるさいぞエルマー。サジだって常識くらいある。めったに使わないだけで。」 いや、それを非常識とよぶのでは。とレイガンは思ったが、面倒くさいので口をつぐんだ。アリシアはひざ掛けを持ってくると、照れるサジの足にそれをかけてやる。 「いいんですよ、こちらは家の代金をエルマーさんに払ってもらっちゃいましたから。こちらのほうが恩があるんです。」 「あたしの貼り薬も、エルマーさんにだしてもらったからねえ…ここにいるうちは、恩返しを受け取ってくださいな。」 「エルマー、お前いいやつだったんだなあ。」 「うるせえ!!そんな目で俺を見るな!!」 朝っぱらからなんという羞恥プレイか。 エルマーはその視線を散らすように手を振り回すと、ケッと吐き捨てるように拗ねた。 ひねくれものはここにきても変わらないらしい。 「える、あーん」 振り向いた先にナナシがにこにこしながら匙を差し出す。あぐりとそれを食べると、ぱかりと口を開ける。 どうやら最後まで食べさせてもらうつもりらしい。 「感謝は照れるのに、それは恥ずかしくないんだな…」 「あ?なにがだ。あぐ、」 「いや、君がいいなら俺はいいんだ、…」 わけのわかんねえやつだなあ。そんな顔をしながらうまいうまいと餌付けをされているエルマーを見て、この男の羞恥心は捻くれ過ぎだろうと引きつり笑みを浮かべる。 そんなレイガンの肩を叩いて諦めろと微笑むアロンダートは、もうすでに慣れたらしい。 ナナシの作ったご飯は、エルマーがおかわりをするほどおいしかったらしい。これに味をしめたナナシが、ひそかに料理にソロ挑戦をしてエルマーを色んな意味でノックアウトさせることになるのだが、これはまた別の機会に語りたいと思う。

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