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「ひょわ、あ、あわわ…」
ナナシの妙ちくりんな声が、寂れた墓地に情けなく響く。エルマーがお気にいりの毛並みの良い長い尾は足の間に挟まれ、顔を青くしながらプルプルと震える。
エルマー!はやくきて!
ナナシの心の声とは裏腹に、ギンイロはなかなか帰ってこない。どうしよう、めちゃくちゃにこわい。これがゴーストか。
おオオォォォぉおぉ…
底冷えするような低く冷たい声が、地面からじわじわと上がってくるように響く。
アロンダートやサジが背後にいるのでナナシはなんとか頑張っているが、膝はさっきから震えっぱなしであった。
「ひぅ、あ、あ、あうう…」
「がががが、がんばれナナシ!!エルマーが来るまでお前だけが頼りだっっ、ひ、左ににたいくるうううう」
「火炎で払えんからな。たしかに、これはなかなかに気味が悪い。」
ナナシたちが墓地に降り立った瞬間、突然空気が変わったのだ。
先程まではただの墓地だった筈が、急に薄青の湿気を帯びた深い霧があたりを漂い始めたのだ。
そして、石が雨風に晒されたことによる劣化が特に酷い墓から、白いモヤのようなものが、ポッ…と現れ始めたのだ。
最初はそんなに怖くはなかった。ただの湯気のようなものが現れただけだったからだ。
ナナシがそれを発見すると、いつもどおり手を差し出して結界をつくった。そして堅牢な聖属性の結界を張った瞬間、その結界の上をおびただしい数の白い手がぶわりと覆ったのだ。
「ひぅ、あ、あー‥え、えるぅー‥こ、こぁ、こぁぃ…ひぃん…っ…」
「な、ナナシ!お前体は大人なんだから泣くな!!ひいいい、サジは無理だっ虫と同じくらい無理だああ!」
ー聖歌歌います!!ちょっとこれは、数が多すぎる!!
ひときわ大きな唸り声を聞いたナナシがついに耐えきれずな泣き始める。大人だろうといわれても、確かに歳はこのパーティの中では100歳超えの最高齢だが、心はまだ幼いままである。生まれ直しをしてからまだ数年なので、ナナシ的には泣くくらい許してほしい。
ルキーノの甘い声で聖歌が紡がれる。その美しい旋律に徐々に手で埋め尽くされた結界に隙間が見え始めた。ようやく諦めて離れていってくれたのだろうとホッとしたのだが、どうやら話はそう簡単ではないらしい。
「なあ、彼らは成仏したいのだろう?聖歌を奏でたら、もしかしたらもっと来るのではないか…あ、」
「ひぅ、」
アロンダートの読みは、正しく答えであった。
サァっと端から徐々に手の数が引いていったかと思った次の瞬間には、まるでその結界から響く聖歌を耳に入れようとしたゴースト達が、そのがらんどうの顔の真っ黒な穴を広げながら張り付いてきたのだ。
先程の手よりも恐ろしい、青白いその死に顔を見せつけるように。
「ひ、ぁーーーーーー!!!」
しびびびっと身を大きく震わせたナナシが、顔を覆いながら蹲る。悲鳴を響かせたその様子を嘲笑うかのように、底冷えのするケタケタと言った笑い声が結界の周りから響く。
さすがのアロンダートもこれには焦った。顔を青ざめさせ、あたりを見回そうとしたときだった。
「人の嫁びびらせてんじゃねえ!!!」
「ニア!放て!!」
エルマーとレイガンの声が聞こえたと思ったら、あれだけ結界を覆い尽くしていたゴーストたちが一気に引いていった。アロンダートが呆気に取られて見上げたそこには、べたべたと聖属性の札でその刃を覆った大鎌を振り回すエルマーと、口から聖水を吐き出したニアの上に乗るレイガンだった。
「おらあ!!道開けろ雑魚共!!成仏させてやっから雁首揃えてかかってこいやあァ!!」
「エルマー、お前セリフが悪役地味てるぞ。」
「レイガン塩撒け塩ぉ!!」
「言われずとも。」
聖水はしとしとと雨のように降り注ぐ。徐々に姿を消していくゴーストたちを尻目に、レイガンがゴーストが取り付く墓石に塩を撒いていった。
聖水を染み込ませた塩は、清めるのにはもってこいなしろものである。
縛られていたゴーストも姿を消すと、あたりを包んでいた薄青の湿気を帯びた霧は晴れ、あたりを冴えた空気が支配する。静かな夜の墓地に蔓延るゴーストはその姿を消し、いまはまるで何事もなかったかのように元の姿を戻していた。
「ふぇ、えー‥え、えぇ、える、ぅー‥うあ、ぁー‥!」
「ナナシ、お前よく頑張ったなあ!みんな魔障も掛かってねえよ。さすが俺の嫁だあ!」
「ひ、うぇ、あ、こ、こ、こぁかっ、た…や、やだった、よぅ…ひぃ、ん…」
べしょべしょに顔を涙で濡らしながら、エルマーに抱きつくナナシが泣きながら訴える。めちゃくちゃに怖かったらしい。エルマーはナナシの頭を撫でながらそれとなく尻を撫でたが、今回は漏らさなかったようである。
ナナシは怖い思いをすると、よく下半身も大泣きする。街に入る前に漏らしたらどうしようかと思っていたのでひとまずホッとした。
「いやあ、まさかあんなに増えてるとは思わねえだろう。ルキーノも聖歌サンキューな。」
ーめちゃくちゃ怖かったです。僕がゴーストじゃなかったら、耐えられなかったかもしれません…
ルキーノも恐ろしかったらしい。いつものおっとりとした口調が少々早くなっていた。
レイガンが疲れたように塩の入った袋を下げて戻ってくる。
ギンイロもすまし顔で歩いて帰ってくると、えぐえぐ泣くナナシの足元にすり寄った。
「あ?サジどこいった。」
「たしか、そこらにいたはずだが…」
エルマーに言われて、アロンダートがあたりを見回す。きょろ、と視線を動かすと、墓守の小屋の影に服の裾がみえた。
なんでそんなとこに…とアロンダートが歩み寄ると、泣き顔のサジが潤んだ目で見上げてきた。
しゃがみこんだせいで上目遣いである。その宝石なような瞳ですがるような目つきをするものだから、アロンダートはすこしだけ煽られそうになった。
「サジ、どうした。エルマーが探しているから向こうに行こう。」
「…いまは、まずい」
「なんでだ。まさか、腹の具合がまだ悪いのか、」
「………も、」
「も?」
ふるふると身を震わしたサジが、ひんっ…とナナシのような泣き方をした。
くん、と鼻で嗅ぎ取ったのはアンモニアの匂いだ。
アロンダートは、サジの下肢を抑えている手が濡れているのを見て察した。
「…サジ、大丈夫だ。おまえはまだ傷のせいで腹に力が入らないのだから、そんなに恥ずかしがることではない。」
「も、漏らし…っ…サ、サジ…お、大人なのに…っ」
顔を鎖骨のあたりまで真っ赤に染め上げたサジは、たしかにチュニックの下半身をしとどに濡らし、そのしゃがみこんだ足元に広げた水溜りに波紋を広げる。
正直アロンダートはサジの失敗に若干の興奮をいだきつつ、宥めるように頭を撫でた。
「アロンダート!サジいるかー?」
「すまないエルマー!いまサジをそちらに連れていけない状態だ!悪いがすこしまっていてくれ!」
「あ、アロンダート!」
おま、それは答えだろうが!と言わんばかりにサジが慌てる。アロンダートは気にしないといった顔でサジを立ち上がらせると、その濡れたボトムスを脱がせた。
エルマーはなにか察したようで、ゆっくりでいいぞー。などというから余計にいたたまれない。
水分を多く含んだボトムスを丸めると、裾が濡れたチュニックの汚れた部分はワイルドに切り取った。それをアロンダートが燃やして証拠隠滅をするものだから、サジは裾の短いチュニックにノーパン素足という心もとない格好でいたたまれなくなる。
「サジ、エルマーのインベントリからローブを出してもらうから、それでしのいでくれ。いいな。」
「うう、っ…絶対にエルマーたちに漏らしたことばれるやつではないか…」
「安心しろ、ナナシなんてしょっちゅう漏らしてんぞ。」
ひょこりと顔を出したエルマーが、サジの姿にフォローを挿れた。ガサゴソとインベントリを漁り、取り出したのはエルマーのボトムスだ。
それをローブと共にアロンダートに手渡すと、サジはクシャッとした顔をして言う。
「ナナシのこと、もう誂えんではないかっ!」
「おう、誂ったら今日のことずっと弄ってやるからなあ。」
「エルマー‥。ありがとうだが、あまりいじめてくれるな。」
苦笑いをするアロンダートの背中を盾にして、手早く着替えを済ます。まったく、とんだ目にあった。サジは未だ顔を赤くしながらいそいそとアロンダートの腕にしがみつくと、よろよろとした足取りで小屋の影から出た。まだ膝が震えていたのだ。
「ひぃん…」
ナナシはぐしぐしと愚図りながら、エルマーの服の裾を握りしめて離さない。これから街に入るのに、貴族役の者がこれではどうしようもない。
エルマーは仕方なくナナシの頭を撫でると、腕の紐を握らせた。
「サジ、宿につくまで消えててくんねえか。そっちのほうがお前も移動が楽だろ。」
「む、たしかに。ならついたら呼べよ。というか、絶対に呼べよ。」
「はいはい。」
外はもう暗い。人も疎らなのが救いだろうか。エルマーはナナシの手でアロンダートの服を握らせると、四人揃って木々の合間から様子をうかがい、街方面へと繋がる道に出た。
相変わらず嫌味なほど白い石をかき集めてつくった道沿いを静かに下る。今貧民や奴隷の扱いがどうなっているのかは知らないが、やりすぎて悪いことはないだろう。
エルマーは赤髪をひっつめに纏めて整った顔を晒す。この国の身分の高いものは、顔のいいものを侍らせるのがステータスでもあるのだ。
レイガンも同じようにさせると、明かりの灯る方へと歩みを勧めた。
その一団は異様だった。古き良きのしきたりを守る貴族は、伝統を美徳として未だなお侍らせるものには首輪や腕輪を与えるものが多い。
カストールでそれを行うものは、もう数は少ないが。
まず、こんな夜更けに歓楽街をあるく貴族などいないのだ。だとすればならず者だろうか、しかしそう判断するにはあまりにも風格が違いすぎた。
美しい褐色の肌に、琥珀の瞳。高貴な出自だとわかる立ち振舞をする美丈夫は、布でまとめた髪を一筋垂らす。その色は、珍しい青みがかった黒髪である。
そして、それに寄り添うように歩みをすすめるのはこちらも恐ろしく造形の整った青年だ。透明感はこのカストールにいても日焼けを知らず、銀色の髪をちらりと見せながら寄り添うように歩く。
皆、一様にあっけにとられて見つめていた。どこの一団だろう。もしかして最近できた娼館のものだろうか。
夜にこんな場所を歩くんだ、きっとそうにちがいない。
カストールは天国に近いと謳われるくらい、そういった娯楽に富んでいた。
侍らせる隷属者2名も、ここらではお目にかかれない美男である。野性味あふれる赤髪金眼の男の紐は、白磁の青年が。
薄青混じりの灰銀の髪に紫の瞳の理知的な男の紐は、褐色のものが握っている。
いまのカストールは隷属者にもきちんとした服が与えられる。それはもちろん、働きに対する対価である。
しかし、彼らはずば抜けた容姿でありながらきちんと立場を理解しているのだろう。まるでその二人の後ろを守るかのように鋭い空気を出している。
身分の高いものへ話しかけるのはタブーだ。
「あるくのつかれちゃったよう…」
「なら、エルマーに抱き上げてもらいなさい。」
「はあい。」
白磁の美貌の青年が、隷属者に手を差し伸べる。
その華奢な体を慣れたように抱き上げると、首に腕を回してそっと抱きついた。
きっと、普段は深窓の令息なのだろう。青年に侍っている赤髪は、とても丁寧に扱っている。
隷属者が自由を与えられているとしても、ここまで主に触れるということはあまりない。
この褐色の美丈夫がそれを許すのだ、恐らく信頼されているのだろう。
この場にも、隷属者を連れている者たちはいた。みな身ぎれいにしており、この美丈夫の子飼いの隷属者とは違って召し物も高価だ。
しかし、この者たちは着飾らずとも堂々としていた。
どこの店に金を落とすのだろう。きっととても貴き人なのだということだけは確かだ。
不躾な視線は送らずに、しかし興味はある。その一団が、恐らく新しくできた娼館の関係者だろうという憶測はすぐに広まった。
エルマーたちの預かり知らぬところで、勝手にそういう話になっていた。
表舞台に出ない者たちだろう、そう保険をかけておけば、みな間違いだったとしても笑って済ませられることだけはわかっている。
アロンダートの鋭い聴覚が、仕立て上げられていく街人のしめやかなやり取りに小さく微笑む。
これでいい。
エルマーに目配せをすると、コクリと頷いた。
これで、この街で違和感なく過ごせる。あとは娼館近くの宿を取ればいい。
ナナシがすりすりとエルマーの首筋に甘えるのを、頬を擦り寄せることで答える。レイガンは立ち止まり、周りに視線を送る。好奇心混じりの若者の視線を黙らせるためだ。牽制をするような美形の睨みは効果覿面で、慌てて散っていく者たちを見送った後、3人の後ろへと続いた。
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