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几帳面な程に一定に、ペンを走らせる音が響く。
その腕は不憫なほどにやせ細り、ダラスには時間がないことを表していた。
「巫山戯るな。巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな。」
低く、呪詛を吐くような声色で羊皮紙に刻むのは、今はもう使われていない文字である。
もう、この文字をきちんと知るものもいないだろうそれは、生体構築の為の陣に使われるものだった。
「ふざ、けるな…!!!!」
重厚な作りの書斎机に、ガベルを打ち付けるかのような拳の音が鳴る。
最近のダラスは荒れていた。国葬の狼煙は、潜ませていた魔女どもへの作戦決行の合図であったのに、まさか見透かされていたなんて。
おのれ、ここに来て自身が蜘蛛の巣に絡め取られるとは、思ってはいなかった。
ダラスの光の映らない瞳は、もう少しずつ視神経を侵し、その身もいよいよ聖水位では呪いのスピードを遅らせることはできなくなってきた。
ー祭祀、新国王の尊き御名において、貴殿を特別監視官に任命する。
「あの、蜘蛛野郎…!!」
脳内に、あのときの嫌味な笑みを浮かべるジルバの顔が、声とともに蘇る。
ダラスは、ジルバが巡らせた蜘蛛の糸によって身動きができない状態にいた。
国宝が盗まれた今、ジルガスタントとの戦争はもはや必須のはずだった。それを、あいつは祭祀であるダラスにこう言ったのだ。
ーまずはそうだなあ、戦争が起こらぬように、貴殿には大使としてジルガスタントに向かってもらおう。
「巫山戯るなクソ野郎が!!!」
まるで、手負いの獣が威嚇するような鋭い声色で吠える。あいつは、もしかしてこの図りごとに気がついているのかもしれない。ダラスは口元を抑えると、よろよろと洗面台に向かう。
「ぅ、お゛ぇ…っ…」
口元を押さえた指の隙間から、粘り気混じりのどす黒い血液がボタボタと溢れる。
ーなに、心配することはない。友好条約だ。カストールと同じことをすればいい。お得意の説法で、無益な争いはやめましょう。ただそう言うだけでいい。
「無益などと、…!!!っぐ、ぅ…」
腹の中身がひっくり返りそうだ。まるで隙間風のような粗い呼吸を繰り返しながら、腐った血をどばりと吐瀉する。
呪いが早いのではない、これはそもそもの身がもたないのだと理解した。
体を取り替えなくては。次の体を用意させねばならない。
「ジクボルト!!」
「おや、なんですか。そんな血相変えて叫んだりして。」
ダラスは今や、なりふりかまっていられなかった。この国を根本から改善してきたのは、誰だと思っている。クソみたいな畜生一匹に振り回された愚かな過去を、誰が払拭してやったと思っている。
「俺の体を用意しろ。もう、ルキーノの外側だけあればいい。」
「おや、エンバーミングはしなくていいと。」
「もう、ルキーノの体にはがたが来ている。使えるものだけ移せ、おまえにはそれができるだろう。」
「おやおやこれは、」
本当に化け物になるつもりなのだなあ。
ジクボルトは、ダラスが言う無謀とも思える言葉に歪な笑みを浮かべた。
もう、彼から漂う甘美な香りは敏い者にはわかるだろう。たんぱく質の腐る匂いは、砂糖を焦がした甘い香りとも違う。
「いいですよお。一番確実なのは、土を使うことですがねえ。」
「人体実験は済んでいるだろう。」
「適量を、あやまらなければね。」
ぎり、と机に爪を立てる。ダラスの瞳は不思議と穏やかにみえた。決意をしたものの目はいい。その瞳の奥に仄暗い何かを抱いていれば、それだけ輝くのだ。
ジルバの一言によって、皇国の聖堂の管理は後釜を用意した。ダラスは忠誠を示せと、己が敵にと仕立てあげてきたジルガスタントにその駒を進まざるを得なくなったのだ。
ジクボルトは歓喜した。この哀れな男のちいさな体が、どんどんと余裕をなくしていくのを良しとした。
これは美しい話になるだろう、口元に笑みを浮かべると、パキン、と小枝の折れる音がした。
ダラスの指が壊れたのだ。
「用意していますよ、勿論。中身はまるっとアップデートしてしまいましょう。」
その壊れた指に優しく手を添える。
「ジルガスタントへは、大地を突っ切る。」
「おやあ、か弱きダラス様と呼ばれているのにかい?違和感を残しては、相手の思うつぼなのでは。」
「のってやろうじゃないか。国王に指示され向かったジルガスタントの途中で、ダラスは行方不明になったと。ああ、過去の再来だ。あの時も、国の祭祀が一人死んだ。」
「おお怖い、国民から愛される祭祀様が、国王の無茶にその儚い命を賭したと。そういうわけかい?」
ジクボルトの目がきらりと輝く。まるで新しい遊びを思いついたような、そんな無邪気な瞳だった。
「ああ、死んでやる。そうしたらこの国の民の不信は煽られるだろう。」
国王の図りごとの犠牲になったか弱き祭祀、そしてジルガスタントとのぶつかり合いは起こされた。
ジルバの牽制に乗った形だ。この道を塞がれたなら、別の道を探せばいい。
たかだか数十年程度しか生きていない化け物に、ダラスは端から負けるつもりなどなかったのだ。
「おやおや、それはそれは…」
なんと愚かで美しい生き方だろう、
ジクボルトはダラスの言葉に感嘆するように溜息を漏らす。
これはダラスが描いた最大の戯曲だ。その劇作家であるダラスがその中に閉じ込められ、出られなくなっている。
こんなに面白いことはない。ジクボルトは、この大劇に合った色を、自分の手で添えることができる喜びに歓喜していた。
「とっておきのをね、」
ダラスが皇国を出るのは、3日後。
ジクボルトは細い体を引き寄せると、その甘美な香りに酔いしれた。
「んとー、んー‥これ。」
ーどれも同じではありませんか?
「ちがうよう、こっちのはおいろがきれいなの」
ー‥なるほど?
ルキーノは目の前に並べられたどんぐりを見せられながら、はてどうしたものかと悩んでいた。
アロンダートの提案で、大聖堂に向かおうという話になったのはいいのだが、その道中にシイの木があったのだ。
落葉樹とはちがう細長い形の木の実たちは、誇らしげに道端に整列していた。
なんでこんなことになっているのか、答えは少し前に遡る。
ーひぁああななな、ななしさまああああ!!!
素っ頓狂なルキーノの声が、脳内に響いた。
大聖堂に行くために、エルマーとレイガン、ナナシの3人が市井を歩いていたときだった。
「ひう、る、るきーの?」
「うるせ、なんだどうした」
ぴゃっとその身を跳ね上げたナナシは、慌ててポシェットを開けた。その結界に閉じ込められたルキーノの魂が、哀れなほどにブルブルと震えている。
答えは簡単だった。
「げっ、生まれてんじゃねえか…」
「ナナシ、どんぐりを熱処理しないと虫が湧くのだぞ。」
「はわぁ…」
うにゅ、とポシェットの中からナナシを見上げるように、虫の赤ちゃんが元気にルキーノの結界の上を張っていた。
どうやら悲鳴の原因はこれらしい。サジがいなくてよかった。と考えて、そういえばいくつかサジのローブにもどんぐりを突っ込んでいたなあと思い出す。
もしかしたら帰ったら、孵っているかもしれない。ナナシはサジに怒られる前に、必ずどうにかせねばと決心した。
ちなみにサジたちは怪我もあるので宿で休んでいる。なので今日は3人での行動だ。
ーなな、な、ななしさまああの!あの、環境の改善をよよ、要求いたします!!!む、むし、むしをぺいって、ぺいってしてくださいっ
「ルキーノもむしさんだめなのう、はあい。」
ナナシは嫋やかな指先でふにりとつまんで近くの木の上にちょんちょんと乗せる。3匹横並びで寝かせてやると、なるほど同時に生まれたからこの子達は兄弟だなあとしみじみおもった。
「ナナシ、ポシェットの中身とりかえねえ?うまれたんなら実は割れてんだろ。」
「あうう…」
レイガンが木の根元を靴で軽く掘ると、その中にナナシのポシェットの中身のどんぐりの残骸を入れた。丁度この道沿いにもいくつか落ちている。まさか皇国で拾ったどんぐりが、カストールに身を沈めるだなんて思っていなかっただろう。エルマーだってそんなこと思わなかった。
これって外来種植樹になるのだろうか。そんなことを思ったが、まあ木は同じだからいいかと考えることをやめた。
「レイガンとえると、どんぐりさがす。ルキーノがうもれたいやつにする…」
「ルキーノは埋もれたくねえんじゃねえかなあ…」
「……………、」
レイガンもなんとなく、至近距離で虫が現れたらいやだなあとおもった。成虫ならまだしも、幼虫は駄目だ。ナナシは平然と触っていたが、レイガンもあの触り心地はだめである。
ーあの、もし同居するなら熱処理をしていただいてからでお願いします…
ルキーノが同居と言っている時点ですでに諦めているのだろう。潔すぎてむしろ面白い。
エルマーはインペントリから巾着を取り出すと、中から魔石だけを抜いて巾着をナナシに渡した。
「これにいれな、そしたら孵化しても巾着んなかだろう。」
ー熱処理を、あの…もう、お風呂でもいいので…
「エルマー、ルキーノが可哀想になってきたからからかうな。」
ナナシがぶんぶんと尾を振り回しながらエルマーからもらった巾着をかかげる。
またエルマーの私物をゲットしたという顔である。そんなに喜ぶならなんだってやるのになあと思いつつ、面白いので口にはしないが。
「ほら、ナナシ。どんぐりもいいけど血の匂いはどうなんだ。」
「んとー‥、ううう、うん、うん?」
「まだ薄いのか?ここに聖遺物あんなら、それかと思ったんだけどなあ。」
「あう、うすい…あ、あ、あ!」
くんくんと空を嗅いでいたナナシが、ぴんっと耳と尾を立てる。はわわ、と慌てると、先程上がってきた坂に向き直る。
がらがらと何かを引きずるような音とともに、微かだが血の匂いが濃くなったのだ。
エルマーとレイガンが、服の内側に隠した獲物の確認をする。
かすかな緊張感が、二人の間を走ったときだった。
「…う?」
「あ?」
「牛だな。」
何が来るのかと構えていた3人の目の前に現れたのは、乳牛である。
鼻輪をつけ、薄桃色の口吻にアーモンド型の優しい目をした乳牛が、荷台を体に括り付けながらよいせよいせと坂道を登ってきたのだ。
どうやら牛乳を売って回っているようで、麦わら帽子を被った若い男が、後ろから牛車を押して上り坂を助けるように登ってきた。
「うしさん。」
「牛から匂いが出てんのか?」
「ううん、おとこのひと」
「…なかなかそうは、みえんが。」
モウ、という鳴き声をあげながら坂を上がりきると、どうやらこの大聖堂に牛乳の納品があるらしい。若い男はいくつか牛乳瓶の入った籠を持ち上げると、忙しそうに中に消えていく。
乳牛の純粋な黒い瞳が、真っ直ぐにナナシを見つめる。余程興味をそそられるようで、マイペースに道草をもしゃりと食いちぎっては、その柔らかな瞳をナナシに向けた。
「うしさん、かぁいい。」
「まあ、確認してえ事あるしな。」
「行くか。」
ナナシの前にエルマーが出て、3人で目の前の牛車に近づく。牛の前にナナシが歩み寄ると、カロンとカウベルが鳴った。牛が見上げたのだ。
もしゃもしゃと草を食みながらもおとなしい。エルマーは牛車に変なところがないかざっと確認したが、とくに何もない。牛乳の他に乳製品をおいているようで、エルマーがまじまじと見つめる。酒に合いそうなチーズを見つけたらしい。
「チーズ一個で銅貨一枚だよ。」
「そりゃ、リーズナブルだあ。」
気配は気づいていた。エルマーはポケットから銅貨を出すと、ナナシをみる。一応主という設定なので、選ばせようかと思ったのだ。
「主、乳製品はどれをみますか。」
「はわ、んんー‥」
牛の顔をよしよしと撫でていたナナシが、レイガンの服を引っ張ってエルマーの横に来る。3人での行動で、といった手前律儀に守っているらしい。
ゆるゆると尾を揺らしながら、エルマーがいつも食べている青カビのチーズと、くるみ入りのそれを手に取ると、エルマーに渡した。
「んじゃ、これ2つ。」
「はいまいどあり。って、」
「あ?」
商品を袋に詰めた男が、受け取ったエルマーの顔を見て目を丸くした。
「エルマー!?」
「ああ?」
「知り合いか?」
頬を赤らめ目を輝かせた男が、心底驚いたといった顔で目を見開く。レイガンもナナシも、キョトンとした顔でエルマーを見上げると、その整った顔が徐々に呆けるような顔に変わった。
どうやら本当に知り合いだったらしい。ぱくぱくと口を動かすと、2、3歩後退りをして指さした。
「お、まえ…ユミルか…?」
「そうだよエルマー!!うわあ、うわああびっくりしたぁ!!ええ!?お前、一体どこまで奉公に行ったんだよ!手紙もないから心配してたんだ!!うわあ!!会いたかったべ!!」
「うわっ!」
一気にまくし立てるくらい興奮をしたらしい。ユミルとよばれたそばかすが可愛らしい栗毛の男は、ガバリと飛びつくとエルマーが支えきれずにどしゃりところんだ。
ゴン、と音がしたので、どうやらエルマーが頭を打ち付けたらしい。牛が迷惑そうにモウと鳴く。
「いってえええ!!おま、おまえほんっと、突然興奮すんなって、あんだけ言っただろうが馬鹿!!」
「あっはっは!!いやあごめんて、ああ、懐かしいなあ。お前、なんかゴツくなったなあ。余程大変なのか、奉公先。」
「まてまて、一度落ち着け。つか重い!」
「あっはっはっは!」
「あっはっはじゃねえ!」
二人のやり取りをあっけにとられて見ていたレイガンは、恐る恐るとなりのナナシを見やる。
レイガンたちの目の前でもつれ合うように転がったのを見て、大丈夫かなあと気を使ったらしい。
「ぅー‥」
「ああ、やはりか…」
キュッと口を噤み、ムスッとした顔で尾を抱きしめる。どうやら嫉妬しているらしい。レイガンはため息を吐くと、わしゃわしゃと頭を撫でる。すると何故かとばっちりに巻き込まれる羽目になったのだ。
「ふんだ!」
「え」
フンス、と何かを意気込んだかと思えば、横にいたレイガンの腕にぎゅうと抱きつく。
丁度エルマーがユミルに手を握られながら起こされているところだった。
その手はナナシのなのに、というもやもやがうまく表現できなかったのだ。
「あ!?」
「ん?」
レイガンの腕にしがみつくように抱きついたナナシに、次に反応したのはエルマーだった。
突然ナナシたちを見たかと思うと、随分と治安の悪い声を出して反応したのである。
ユミルは突然の豹変っぷりに目を丸くすると、立ち上がったエルマーがユミルを振り払ってナナシの手首を掴む。
「ナナ、んん。主、それはいけねえ。」
「える、なかよくすればいいもん。ナナシはおはなしがおわるまで、レイガンといいこにしてるもん、ふんだ!」
「ふんだって…俺はおもりか…」
エルマーがナナシにそっぽを向けられ、ガツンとした衝撃を感じた。
一言で表すなら、まじかよである。
火種の原因であるユミルはというと、おや?という顔をしてエルマーの横から顔を出すと、ニコリと笑った。
「貴方がエルマーの主様ですね!僕はユミル、孤児院の時から一緒だったんですよー!」
「ユミル、今はちょっと黙っててくんねえか。」
「える、ナナシにむかしのはなししない。いじわる!」
「意地悪とかじゃねえって!なあ、機嫌直してくんねえ?」
「レイガンとおはなしおわるまでおさんぽしてくる。エルマーのばか!ごゆっくり?」
「あ、おいナナシ!」
むすくれているくせに、律儀にごゆっくり?と使い慣れない言葉で締めくくる。
どうやら拗ねてはいるが、気も使っているらしい。レイガンはゲンナリした顔でナナシに引きずられていくと、エルマーの追いすがるような手は虚しく行き場を失った。
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