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「拗ねんなって、ちゃんと帰ってくるからよ。」 「うう、うー…や。」 「や。じゃなくてさあ…」 「や!」   あぐ、とエルマーの服の裾に噛み付いて、ナナシはさっきからプンスコしていた。   「一人だが、一人じゃないぞ。サジも見張る。まあ手の中でだが。」 「ナナシもいくもん。」 「夜の酒場に妊娠してるやつつれてけっかよ。頼むぜナナシ、土のこと聞くだけだからよー。」 「やだもん。」   エルマーは心底参ったという具合に頭を掻く。昨日サジたちと話していた血の匂いについて確認をするために、エルマーはユミルとサシであうということに、ナナシがひどく嫌がったのだ。だって、ナナシからしてみたら明らかにユミルはエルマーのことが好きである。もし万が一のことが起きたらナナシはエルマーの性器に一発お見舞いしなくてはならない。そんなのダメだ。ならばいっぱい駄々をこねて、なんとしてでも同席せねばなるまい。 今回のナナシは頑なだった。もう、今までに例を見ないほどに。だってエルマーが言ったのだ。ここではわがままでいいよって。   「やだもん、ナナシもいっしょいくもん。えるがわがままいいよっていったんだよう。えるはナナシのおすなのに、なんでおねがいきいてくれないのう。」 「やべえうちの嫁がこんなにも愛おしい。」 「よめのいうこときいてくれたら、えるのすきなことぜんぶしてもいいよう。」 「乗った。」 「ちょろすぎるぞエルマー。」   スパァンといい音を立ててサジがエルマーの頭を叩く。エルマーからしてみれば、ナナシにまだしていないあんなことやそんなことを存分にしていいと言われたら、許すしかないだろう。もはやこの取引は成立済みである。レイガンの冷たい目線に気づかないふりをしながらエルマーはナナシを抱き寄せると、指先に口付けながら言う。   「今度セックスするとき、ぜひ顔騎してくれえ。」 「がんきってなあに」 「顔面騎乗のことだあいってえ!」 「このど変態めが!」   今度はサジに叩かれたところと逆をレイガンからぶっ叩かれる。余程硬いもので殴ったのだろう。目から火が出るかと思った。ナナシは顔面騎乗の意味もよくわかってないらしい。きじょうってなんだろうなあと思いながら、エルマーはナナシに気持ちのいいことしかしないのを知っているので、呑気にいいようと安請け合いをした。まさかそのせいで後日悲鳴をあげることになろうとは、ついぞ思っていないようである。   こうして夫婦間の秘事のお約束をエルマーが衆人環境でもぎ取った後、ユミルに直接約束を取り付けに行くと、それはもう大いに喜ばれた。当日の夜は、ナナシはレイガンとアロンダートと共に先に店に入って待っているという。 なのでエルマーはユミルと共に待ち合わせをしてから店内に入り、酔わせた勢いで口を割らせようという寸法である。   一応不審がられないように、ナナシはレイガンを侍らせる。エルマーが目の前でユミルをハニートラップにかけるのだ。ナナシだってそれくらいは許して欲しい。レイガンは疲れた顔をしていたが。   「お前ら本当に面倒くさいな。」 「レイガンすき」 「ああ!?浮気は許さねえぞナナシ!」 「ふんだ!」 「は、反抗期…」   ナナシがプチボイコットをレイガンを巻き込んで行ったその日の夜、作戦は決行された。   大通りに面した小洒落た飲み屋だ。先に現れたアロンダート達は店の店主によって客席が一望できる2階席へと誘導された。 どうやら宿の方から連絡が入ったらしく、上位客なので丁寧に扱うようにと指示があったらしい。宿泊中の宿の系列店らしい飛びきりの配慮だ。こうして図らずとも見やすい位置を陣取ることができたナナシたちは、ひとまず飲み物を注文することにした。   「ナナシもおさけのむ」 「飲まない。エルマーから飲ませるなと言われている。酔っ払って収拾つかなくなったらどうするつもりだ。」 面倒ごとを回収する役目は俺なんだぞ。レイガンは口には出さなかったものの、悲しきかな自身の役目はきちんと理解していた。   「ナナシ、桃の果実水があるぞ。それにしないか。」 「レイガンとアロンダートは、なにのむのう。」 「僕たちは、エール…」 「ナナシもそれのむ」 「…俺たちも果実水にしよう。」 「ああ…」   ナナシもみんなとお揃いがいいよう。そんな目で見つめられては酒は諦めるしかない。レイガンは名残惜しそうにカウンターから見える酒樽をチラリと見つめたが、事後処理の面倒さと天秤にかけて潔く諦めた。 ナナシはそんな彼らの配慮を知ってかしらずか、ポシェットからルキーノを布に包んで取り出すと、ツンツンと突く。ゆらゆらと揺れていた結晶の中身がポヨンと跳ねたかと思うと、はっとした声が聞こえた。   ー僕としたことが、どうやらうたた寝をしていたようです…おや、なにやら賑やかな場所。 「おさけのむとこだよう。みんなでちょうさしにきたんだよう。」 ー調査?   ルキーノがキョトンとした声を出す。丁度そのタイミングで俄かに階下が騒がしくなった。 どうやらエルマーがユミルと店に入ったらしい。この店は着飾ったものも多いときいていたことから、アロンダートが服を選んでくれたのだ。金を払ったのはエルマーだが。   ー浮気調査ですか? 「うー…やだ。」 「違うぞルキーノ。あれはハニトラだ。」 「アロンダート、間違ってはないがややこしくするな。」   ルキーノ以外も着飾っている。だからこそ二階席のレイガンたちも目立ってはいるのだが、エルマーはユミルの素朴な可愛さとは正反対の男の色気のようなものを感じる。散々っぱらナナシを抱いたと言うこともあるだろう。しかしその揺るぎない瞳はひとえにナナシからのご褒美しか頭にない。なのでユミルが嬉しそうに腕に寄り添ってきても全く意に介さず、チラリと視線でレイガンたちの場所を確認すると、ユミルを誘導するように階下から見やすい位置に席を取った。   「エロいことしか考えていないな。」 「ああ、ナナシとの約束の事しか考えていないようだ。」 「あうう…」 ーなんて曇りなき眼…   エロは時に人を動かす原動力になるのだなあとアロンダートが小さくつぶやくものだから、ナナシはなんとなく気恥ずかしくなって運ばれてきた果実水をチウチウと飲む。   「さて僕の出番か。」 「頼む。」   アロンダートが飾り羽根だけを顕すと、その鋭い聴覚で階下のエルマーたちの会話を拾い始める。 「なあ、エルマーってばどうしたんだよ。急に呑みにいこうだなんて、あんなに僕が誘ってもすげなかったってのにさあ。」 「主の兄君の嫁さんが具合良くなったんだあ。だから自由時間。俺の主にはレイガンもついてるし、俺はお前と飲みに行けたってこった。」 「そんな僕と飲みたかったかあ。そうかそうか、なんてったって幼なじみだもんなあ僕ら。」 「おー、まあこれが幼なじみの距離感かは知らねえけどなあ。」 ニコニコしながらエルマーの肩に顎を乗せてくるユミルの額を指で弾く。いてえべや!と額を抑えるが、それでもめげないらしい。 ユミルは小さく唇を突き出してむくれると、運ばれてきた酒をグビリと飲んだ。 「エルマーはさ、あの人の事好きなんか?」 「あのひと…ナナシか?」 「ナナシってんの?あの白い別嬪。」 おうよ、とジョッキに口を付けながら答える。ユミルはふうん、時のない返事をしながらグラスの表面についた結露を指で追うようになぞると、ちろりと上目に見つめる。 やはり、エルマーは美しい顔をしている。ユミルだってそばかすはあるが、その可愛らしい容姿でそこそこモテるのだ。それでもやはり、男として憧れてしまうその整った顔立ちはいつまでも見つめていたくなる。 「好きだよ。わりい?」 「主と隷属者だぞ、身分違いの恋だ。」 「おー、やっすいメロドラマみてえだって笑うか?」 「笑いはしないけどさ…」 ずっとエルマーを独り占めしておいて、結ばれない恋に溺れるだなんて馬鹿みたい。ユミルはそう言おうとして、やめた。笑わないといったそばからそんなことを口にしたら、嫌われてしまうかもしれないと思ったのだ。 エルマーの左手には、指輪もなにもない。きっと恋人はいないのだろう。ユミルはその手に走る男らしい血管にすこしだけどきりとすると、運ばれてきた串に手を伸ばした。 「ん。」 「へ?」 エルマーがユミルの方に手を差し出す。キョトンとして見てしまうと、ほら。といわれて皿をもぎ取られた。 なんで?という顔のままエルマーの手に握られた串は、食べやすいようにきれいに刺さっていた肉を抜き取られる。 エルマーの分は刺さったままである。なんで僕だけ、とわからずに見上げると、エルマーはなんてことないふうに言った。 「お前の袖、なんかひらついてっからよ。ソースでシミ作るよりかいいだろう。」 「へあ…」 「あんだよ、男らしくいきたかったか?」 「あ、こ、こっちでいい…」 今日エルマーと飲みに行くと決まってから、ユミルは普段あまり着ないようなドレスシャツを着ていた。おしゃれをしたくて、きちんとした服でしか入れないような店を指定したのは自分だ。エルマーがきれいめな格好で来てくれただけでも嬉しかったのに、まさか自分の服まで気にしてくれていたとわかって、ユミルの口元はもにょりと緩む。 バンドカラーに黒のラペルドベストを着用しているエルマーは、その手首にシンプルなバングルを2つ嵌めている。全体的にスッキリとした黒でまとめているからか、それとも赤髪をかきあげるように緩く結んでいるのがたまらなくいい。 ユミルは頬を染めながらエルマーが食べやすくしてくれた肉をぱくつく。 なんか、いい感じじゃないか?そんなことを思ってしまうくらいには浮かれていた。 「そ、その服いいね。なんか雰囲気違うから新鮮。」 「ユミルがめんどくせーとこ指定してくっからわざわざ買ったぜ。俺はもっときたねーとこでも良かったのによ。」 「へえ、僕と会うのにわざわざ買ったんだ…」 「なんかいったか?」 「あ、や、べ、べつにい?」 ふーん、へー、ほーん。ユミルは妙な相槌を打つと、ごくごくと酒を煽る。なんだか照れてしまって仕方ない。もし、もしだ。このまま酔っ払ったらお持ち帰りとか、されてしまうのだろうか。 万が一、そんなことが起きてもいいように準備はしてあるが、エルマーはどうだろうかと盗み見る。 「んぐっ」 「何さっきからちろちろみてやがんだ。」 「んへぁっ、けほ、ごほごほっ」 「おいおい、しっかりしろよあーあー、」 ぱちりと目があってしまい、思わず気管入ってしまいげほごほと咽る。エルマーの大きな手でとんとんと背中を叩かれようやく呼吸を整えると、そっと口端に触れられた。 「よだれ。」 「うえっ…」 エルマーがまっすぐ見つめて、ユミルの唾液を指で拭う。ひっく、と息が詰まると、ぼ。と顔が熱くなった。 「え、える、えるまー‥あ、あのさ…」 「おう、おちついたかよ。」 「おあ、う、うん…」 「ったく、お前も俺じゃなくて恋人誘えばよかったのによ。」 物好きなやつだなあ。そう笑われて、きゅんきゅんと胸が鳴った。仕方ねえなあという笑う顔がユミルの胸の真ん中に突き刺さったのだ。 エルマーから目が話せない。不思議な輝きに引き寄せられるように、ユミルはエルマーの瞳にとらわれる。 とろめくような蜂蜜の瞳。ユミルはそれに触れてみたくて、そっと伸ばした手を握りしめられる。 「ユミル、どうした。酔っぱらっちまったか?」 「僕、もっと会えなかったときのエルマーのこと、知りたいなあ。」 こくんとユミルの小さな喉仏が動き、まるで誘うかのように見つめられる。エルマーは小さく笑うと、心のなかでサジを呼ぶ。 ーおい、気をつけろ。チャームの術をつかうぞ。 「ふうん。」 ーそれと、上でナナシが拗ねている。 「恋人なんて、いないよ。」 「まじかよ…」 「エルマー、僕がお前の事どういう目で見てるか知ってる癖に」 サジがくれた情報にうつ相槌が、ユミルとの会話の相槌になる。ナナシが盛大に拗ねているという発言には思わず声色に焦りが含まれたが、ユミルは気づかなかったようだ。 「相変わらず、意地悪な男だな。なあ、エルマーはもっと僕のこと知りたくないの。」 ーエルマー、チャームが来る。打ち消すぞ 「ああ、いいね。教えてくれるんか」 ふわりと一瞬柔らかな膜に包まれた感覚が身を包む。ユミルの細い首や濡れた唇に目線が言ったのもつかの間の間で、すぐに爽やかな風がエルマーの体を通り抜けた。 ー使い慣れておるな。エルマー、サジが言うのもアレだが、こいつクソビッチだぞ。 「行こうぜユミル。もっとお前のことが知りたい。」 「エルマー、嬉しい。」 自身のチャームが打ち消されたことに気づかないまま、ユミルの手が、エルマーの手に絡められる。サジがおげっとからかい混じりに茶化すものだから、少しだけ笑う。食事もそこそこにユミルの分と纏めて会計を終わらすと、場所を変えるべく立ち上がる。 後ろにちらりと目線を送ると、ユミルの細い腰にまわした手をゆっくりと持ち上げて肩を抱く。これがアロンダート達と決めた、怪しいときのサインだった。 「場所詳しくねえんだ。そうだな、お前の家に行きてぇ。」 「いいよ、もてなしてあげる。」 ー手練だなあ、相変わらずのクズである エルマーはやかましいわと言いそうになるのを堪えると、ユミルの肩を抱く手の力が少々強くなってしまった。 その男らしさに、ユミルがキュンとしているのには気づかなかったが。

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