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「ナナシ、」 「むむ……。」 「ナナシ、あれは違うと思うぞ。エルマーはお前しか考えていないからな。」 「うー‥」 エルマーがユミルの肩を抱いて店を出るやいなや、むすくれたナナシが立ち上がったかと思うと、窓をガラリと開けてギンイロとともに外に出ようとしたのを慌てて止めた。 「ちなみにそこから出るとちょっとした騒ぎになるからな、出ていくなら出口からいこうな。」 「ギンイロ、おそとでえるたちみはってて」 「アイヨ」 ナナシに呼び出されたギンイロは、壁をすり抜けて表に出ると、ふわふわと浮かび上がって店の屋根に飛び移る。 むすくれたナナシは儚い美貌に拍車がかかったその容貌で、長い髪を靡かせて階下を降りる。慌ててアロンダートとレイガンがついていくと、会計を済ませて店を出た。 2階席から下に降りてきた麗人の一向に、店は一瞬惚けるように静まり返ったが、ナナシのただむくれているだけの表情が近寄りがたい雰囲気に変換されたらしい。 だれもがそっと見守るだけで、変にざわつかなかったのは助かった。 「ナナシーアルイテッタ。」 「いこ。」 「あ、おいまてまて!」 慌ててナナシをおいかけるレイガンの苦労をよそに路地裏に入ると、転化したギンイロに跨ってナナシがふわりと空へと上がる。アロンダートは大慌てで羽根だけ出すと、がしりとレイガンを抱えてギンイロの尾を掴んで浮かび上がる。 「うぉ、あ、アロンダート!し、締まる…!」 「レイガン、目的地につくまでは我慢しろ。それか僕にしがみつけ。」 「どうやって!?」 レイガンは片腕でアロンダートに釣り上げられるように空に浮かぶと、慌ててその腕に取りすがる。なんで俺がこんな目にといった顔だ。流石に不安定過ぎたかと察したらしいアロンダートが、もう一本の腕を顕すと、レイガンの体を横抱きに抱えあげる。まるで赤子のようにだ。 「さすがにこれはいやだ!」 「暴れて落ちるよりもいいだろう。」 「うー!」 「ナナシの語彙力が更に落ちているな。」 「俺もギンイロに乗せろ!」 「テイインオーバー」 「ウソつけ二人までだろうがーーー!!!!」 ぎゃいぎゃいとやかましくレイガンが吠える。アロンダートはやれやれといった顔だが、レイガンはそれどころではない。 これも全てエルマーのせいだ。くそ絶対に許さん覚えておけよと呪詛を吐きながら空を駆け上がる。エルマーたちは、集合住宅の一角に入っていったようだった。 頭上がにわかに騒がしい気がする。 エルマーはなんとなく空を見上げると、夜の星の瞬きに混じりながらギンイロが目玉だけ出して監視するように見つめていた。恐らくだがナナシも一緒だろう。思わず引き攣り笑いを浮かべると、急かすようにユミルがエルマーの腕を引っ張った。 道中聞き出した話によると、どうやらほのかに香る血の匂いの出どころがどこか見当がついたのだ。 最近ユミルは牛乳の配達で運んでいる場所の一つに、カストールのギルドが営む闘技場があるらしく、そこの食堂に卸しているという。 「そこはコロシアムみたいになっててさ、ご自慢の隷属者を魔物と戦わせて競わせるの。そんで優勝した人には土地が与えられるんだ。」 「んで、ユミルはよくそこに見に行くわけだ。」 「なんてったって娯楽ここに極まれりだからねー。なに、エルマーも興味ある?僕の知り合いにギルドの人がいるから参加できるように手はず整えてあげようか。」 「主に聞いてからだなあ。」 カチャリと扉に手をかける。エルマーはユミルの体を抱き上げると中にはいった。 こういうことは手早く終わらすに限るのだ。抱き上げられたユミルは嬉しそうに首に腕を回すと、そっと肩口に頭を凭れさせた。 ーサジが思うに、ユミルは顔が広い。一介の配達屋がコロシアムに参加させる権限を持つものと知り合いなものか。まあ、顔が広いというか股がゆるいというか。 それなー。とエルマーは思いながら、そっとユミルをベッドに寝かせた。あとはもう、ここまでくればいい夢を見させてやるだけである。 エルマーは胸元のボタンをくつろげ、胸板を晒すとそっとユミルの頬を撫でた。 「俺の目を見ろユミル、言うことを聞けるな。」 「エルマー、口付けはいいの?」 「そういうのは後にとっとくもんだろう。」 エルマーの金の瞳がとろけるような光沢を帯びる。部屋は暗いのに、そこだけは爛々と輝いているのだ。ユミルはふわりとした言いようのない多幸感に思考を支配されると、まるで自分が愛撫をされているかのような甘やかな痺れが背筋に走った。 今、ユミルはエルマーに触れられているのだ。あの男らしい手に、そっと体を撫でられている。 実際はエルマーは何もしていないのだが、ユミルの瞳は光が奪われ、有りもしない記憶が刻まれる。 そっと唇に指で触れると、その感触に小さく身を震わした。 「ユミル、お前は俺の知らねえところでそんな危ねえところに出入りして、悪い子だなあ。」 「悪い子のほうが…魅力的だろ…」 ー人によるな。 「茶化すな、なあ、もっとうまい話はねえの?」 「ああ、っ…える、まー‥」 ーおいエルマー。 前見てみろ前。サジにそう言われて、ユミルの頬を撫でていた手を止めて前を向く。 「げっ、」 「ああ、いい…!!」 「ユミル、しー!しずかにしろ!」 「はぇ…?」 勝手にハアハアしているユミルをそのままに、エルマーは冷や汗を垂らしながらもう一度窓を見る。そこにはピンとたった見慣れたお耳が生えており、ぴるぴると時折動かしたかと思うと、白いおててがちょこんと窓枠に触れた。そして、そろりとナナシのお顔が半分みえた。 「ぴゃ、」 「…………。」 ナナシだ。あれは絶対にそうだ。 慌てて顔を下げたが、ばっちりとエルマーにはそれがわかった。 とろけたユミルにはエルマーが見えていない。仕方なくサジにあとを任せると、喜々として姿を表した。 「イかせまくってくれるわ。」 「やめろ腕まくりするな、俺ちょっと出てくるからたのむわ」 「おうよ。」 謎のやる気を見せているサジに残りの尋問を任せると、エルマーは大慌てで窓から飛び出してナナシを捕まえる。 エルマーがこちらに来る気配を察したナナシが、慌てて逃げようとしたからである。 ガバリと後ろから抱き込むようにして捕まえると、ひゃあ!と情けない声を出して座り込んだ。 「ナナシィ!俺仕事だって言ったよなあ!なぁんでここまで来ちゃうんだおまえはー!」 「はわ、や、やぁー‥!だってうわきしたらいやだよう!」 「するわけねえだろう!俺がハニトラ得意なの知ってんだろうが!」 ーそれが逆に問題なのですよエルマー。 「おいまともな意見言うんじゃねえルキーノ。」 散々エルマーの腕の中でじたばたすると、漸く諦めたのかへにょりとお耳を前に垂らして、しおしおと落ち込む。 だって必要なことでも、ナナシは嫌だったのだ。はぐ、と尻尾を抱き込んではむはむしては、じわりと涙を滲ませる。 ナナシのえるなのに、なんで貸さなきゃいけないのだ。そんな気持ちを伝えたいのに、それを言ったらなんだかわがままな気がして言えない。エルマーがこうして情報を集めるのは知っているが、やっぱり改めて見ると、嫌だったのだ。 「やだあ…ナナシのえるなのに、ほかのひとにさわるのやだあ…」 「泣いて、わ、わあまてまて!悪かった!」 「最低だなエルマー。」 ー男らしくないですねエルマー 「ナナシにきちんとごめんなさいをしろエルマー」 アロンダートもレイガンも、ルキーノも全員シラけた目でエルマーを見つめる。ここに味方なんていなかった。 「ナナシがエルマーのこと嫌いになってもいいのか。」 「それはだめだあ!」 レイガンのトドメの一言に顔を青ざめさせると、ナナシをぎゅうぎゅう抱き込みながら情けない顔で言う。 「腹の子の父親は俺だしナナシの旦那も俺しかいねえもの!頼むから愛想つかさないでくれぇー!」 「はわあ…」 「エルマーダサイネ、ププー!」 「うるっせえ!好きな雌の前で必死になって何が悪いんだバァーカ!」 ケッ!と治安の悪い顔でギンイロを威嚇する。ナナシの前では威厳もクソもない。エルマーはナナシを抱きしめたまま渡すもんかとナナシごと背を向けると、カチャリとドアの開く音がした。 「いいかユミル、お前が好いた男はあんなやつだぞ。あの情けない狼男がエルマーの本質である。」 「エルマー、おまえ…結婚してんならそういえよばああか!!!!」 「は!?ユミ、いてえ!!ちょっ、石投げるな!!」 ひと仕事終えたらしいサジが、あろう事か先程のやりとりをユミルに見せていたらしい。ものすごい勢いで怒り出したかと思うと、エルマーに向けて庭の石をぽいぽいと投げつける。ナナシに当たらないように抱き込むと、おのれサジめといった具合に振り向いた。 「寝返ったなんて聞いてねえぞサジィ!!」 「だってこっちのほうが目も覚めるし面白いだろうが。」 「すまんなうちのサジが無邪気で。」 「すまんなじゃねええ!いでっ!」 ひときわ大きな石を鷲掴んだユミルが、顔を赤くしてエルマーに向けて投げようとした。ちょっと流石にそれはデカすぎるとエルマーの顔が引き攣ったのだが、その石を持つ手を掴んで止めたのはレイガンだった。 「なにすんだべ!!離せや!」 「おい、落ち着け。お前には不快な思いをさせたがこちらにも事情というものがある。まずは話を聞いてくれないか。」 「ちょ、力強!?」 レイガンの腕を振り払おうとしても動かないことにぎょっとすると、その手から石を奪われた。 どうやら投げた石の一つがエルマーの頭に当たっていたらしい。げっそりしながらナナシに治癒をして貰う姿を見て、ユミルはくすんと鼻を鳴らした。 「なんだよ、こんなのってあんまりじゃないか!僕だって今日の事を楽しみにしてたのに、結婚してたなんて…」 「腹の子は俺んだけど結婚はまだしてねえぞ。」 「余計に最低だよエルマー!!」 「すんません!!」 エルマー的には落ち着いてからするつもりなのだが、ここに来てその言葉は火に油を注ぐだけだった。怒るように吠えるユミルは怖い。突然なんの前触れもなくキャンキャンと騒ぎ立てる小型犬のようである。 レイガンはやれやれといった顔で、己より背の低いユミルの頭を撫でる。何もこんな男に惚れなくてもいいだろうという同情も含めて。 「ユミル、俺たちはとある事情でカストールに来ている。アロンダートはシュマギナール人だし、サジはその領地にあるエルフだ。」 「ハーフエルフだ!!ちなみにサジはシュマギナール人ではないが根城はそこだ!」 「…まあとにかく、ここに来た理由を話すから怒りを収めてくれないか。」 ユミルはレイガンの言葉に戸惑ったように頷くと、部屋の扉を開いて中に入るように促した。 まさかエルマーが他国の者たちを手引したとは思わなかったが、そもそもカストール国内で13年間一度も合わずにいたことを考えると、エルマーも国を出ていたのかもしれないと理解した。 エルマーにはまだ腹に据えかねる思いはあれど、ひとまずは事情を聞いてから決めることにした。 「というか、僕だからいいけど、外で絶対にシュマギナールから来たとか言わない方がいいよ。」 「だよなあ。まあうちの国の王様が馬鹿だからよ。友好条約締結したあとで戦争に巻きこむこと自体手のひら返しだもんなあ。」 「…ねえ、やっぱ起こっちゃうの?ぼくらもジルガスタントに攻め込まなきゃいけないのかな?」 テーブルを挟んで、恐る恐る聞いてみる。ユミルも戦争を経験していた。直接戦地へは行っていないが、ずっと東の空が赤く染まっていた姿を知っているのでこわいのだ。 ましてや友好条約締結後なら、カストール国民も招集されるかもしれかい。大国のシュマギナールの軍事力がどれほどかは分からないが、皆この国民の不安はそこなのだ。 カストールは確かにまだ隷属者制度があるにはあるが、ここ数年で法が改正されて人権侵害にあたるような扱いはほぼ無くなった。給金だって出ているくらいだ。 つまり、隷属者はある種納得の上での職業と言ってもいい。人気なものは見目の麗しいものの他に、腕っぷしの強いものなどが引く手あまただ。 つまり、金はあるが戦えるものがいない。主な産業をリゾート事業と海産物や海運業で担っているので、保養所のようにバカンスに来るものはいても、ここで冒険者としてやっていこうというものは居ない。だからこそここに根付くギルドが腕っぷしの強いものに報奨として土地を与えて留まってもらおうということらしい。 「戦争を起こさせるつもりはない。その為にはダラスを止めなくては。止めるためには、聖石を回収しなくてはいけないんだ。」 「聖石?」 「魔力を含んだ土から生まれる魔石だあ。とある生き物の血が染み込んだやつでな、魔物が取り込むとちっとやっかいなんだあ。」 「土…あ、」 エルマーの言葉に、ユミルが何かを思い出したかのように小さく声を漏らした。

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