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エルマーがレイガンに運ばれて宿に戻った翌朝。コンコンというノックの音とともに、支配人の戸惑ったような声が聞こえてきた。 「あのう、宜しいでしょうか…迎えに来たと申すものが表にいるのですが、念の為確認して頂きたく。」 その言葉を待っていたかのように、ガチャリと扉を開く。支配人の目の前には頬を染めながら尾を揺らめかす美貌の獣人が立っていた。 どうやら寝起きでそのまま扉を開けたらしい。はだけたバスローブが目に毒である。 「んと、ゆみる?」 「はえ、あ、さ、さようです。」 照れ臭そうに扉の隙間から目を輝かせる。思わずその愛らしさに惚けていると、その華奢な体が男らしい腕によって引き寄せられる。小さく声が漏れる音がしたかと思うと、剣だこの目立つ手が扉を掴んで大きく開く。 「通してやってくれ。朝からご苦労さん。」 「える、ナナシもいらっしゃいするよう」 「お前はその前に服を着替えてこい、な?」 ベッドは寝乱れて、床には恐らく青年のものだろう布地の薄い下着が落ちていた。扉を変わりに開けた赤毛の隷属者の腰に抱きつきながら、ふるふると尾を揺らしながら見上げる首筋には所有印。 なんとなく昨晩何があったのか想像してしまい、ぎこちなく一礼をすると大慌てで階下にいるものを呼びに行った。 「エルマー、もういいのか。」 「ナナシの治癒で治った。まじで種無しになるかと思ったわ…あのちび、許さん…」 ずも、と重々しい空気を醸し出すと、アロンダートは朝から元気そうで何よりだと頷いた。どうやら股間を痛めつけられた昨晩も、ナナシにしっかりと治癒を続けてもらったらしいのだが、起つのかどうか確認しなくてはとかなんとか行ってナナシには大いに迷惑をかけたらしい。 そのバスローブから覗く散らされた痕を見る限りだが、まあ間違いはなさそうだ。 「おはようナナシ!なんてとこ泊まってんだお前ら!レイガンに聞かなかったら、僕は目的地からここはまっさきに外していたよ!」 ガチャリと扉が開いたかと思うと、牛乳瓶片手にユミルがご機嫌に登場した。顔を青ざめさせたエルマーが大慌てでナナシの後ろに隠れると、盾にされたナナシはびっくりしてヒャア!といった。 「ユミルてめえ同じ男として股間はねえだろうが!」 「はん、隠れておいてなにを吠えてるんだいエルマー。いいじゃないか使い物にならなくなっても、逆に浮気が減るんじゃない?」 「だっから浮気じゃねえっていってんだろうが!!」 「朝からうるさい。さっさと支度をしろ、予選に向かうのだろう。」 シャワーを浴びてきたらしいレイガンが、わしわしと髪をタオルで拭いながら現れる。エルマーに負けずとも劣らない男らしい体が羽織っていたバスローブから覗くと、ユミルは慌てて目をそらした。 なんだかレイガンの昨日の手を握る力を思い出してしまったのだ。なんとなく決まりが悪くて誤魔化すように持ってきた牛乳瓶を突きだす。 「はいこれお土産。ほらこれ飲んだらさっさと行くよ!まったく、今日は時間がないんだから!」 ナナシに予選に出場するための書類を渡す。名前を書くだけで紙に施した魔力が反応して参加者登録が完了となるすぐれものだ。 エルマーがぴっ、ともぎ取るようにしてさらさらと署名をすると、またたく間に紙は燃え上がり消えた。これでギルドで主が諸注意に署名をすると正式に完了らしい。 なんだか面倒だったので、許可なくレイガンの分まで署名をしておいた。まあいいだろう、どうせ巻き込むことになるのなら事後報告でも構わない。 エルマーは手早く着替えを済ませると、歯を磨きながらアロンダートたちが使っている部屋に顔をだした。サジだけまだ爆睡していたのだ。治癒に睡眠が必要といえど、流石に寝コケたまま放置はできない。 「サジィ!俺とレイガン予選行くから、お前はあとからナナシたち連れてきてくれえ!」 「んん、ふ、ふあー‥あ、は、ええ?」 「ええ?じゃねえ。昨日行ったろ。じゃあ頼むぞー、」 「ふぁーあ、あいあい…あとで、アロンダートと…とんでいく…」 「ったく、大丈夫かよ…。」 寝具から華奢な手を突き出すと、了承したと言わんばかりにふらふらと手を揺らす。エルマーは若干の心配を抱きつつ部屋に戻ると、そこにはすでにユミルはいなかった。 いるのはガントレットを装備して準備万端のレイガンだけだ。エルマーも黒のボトムにシャツにインペントリのみとだいぶラフな恰好なのだが、外套はドリアズに置いてきたままなので、仕方なく軽装の胸当てだけをつけた。この格好も久しぶりである。 レイガンは使い込まれた皮の胸当てを見ると、小さく笑った。 「まるで駆け出しの冒険者のようだなエルマー。なめられてもいいのか。」 「むしろナメてくれたほうが、楽でいいだろうが。あと、変に目立っても面倒くさいだろ。」 「ああ、なるほど。服装に関しては油断を誘うという点では確かに…。俺もそうするか。」 どうやら一理あると思ったらしい、レイガンも羽織っていた外套をしまい込んでボトムとシャツだけになると、シンプルな胸当てとガントレットのみになった。こんなので予選など当然舐めているのだが、エルマーもレイガンも叩き上げで力をつけてきた。そこらの若者には負けない自信がある。 しかし変に目立つと、逆に注目されすぎて面倒くさい。 対人トーナメントの後にはどうやらちょっとした観衆を巻き込んだミニゲームのようなものもやるらしい。何をどう巻き込むのかはわからないが、命に関わるものではないらしい。 二人が適当な準備を終わらせると、アロンダートに後でサジとくるように言いつけ、階下を降りていく。 宿の外に出るとユミルが乗ってきたであろう牛車が外に止まっており、宿の前はちょっとしたざわつきができていた。 なんでかって、ナナシがふにゃふにゃ笑いながら荷台で牛と戯れていたからである。 「目立っっってる!!!!」 「う?」 「いや、なんでもない気にするな。」 荷台にちょこんと座り、牛のピンク色の口吻を愛おしげに撫でていたナナシは、顔を隠すように手で覆ったエルマーをみて首を傾げる。 なんでそんなことになっているのかはわからないが、どうやらサジに任せるでもなくついていく気満々のようだった。 「える、ナナシのいうこときくですね?いっしょについてく。いいようっていう?」 「ちょいちょいでてくる敬語はなんなんだエルマー。」 「支配人の口調真似てんだあ。なんか格好良くみえたんだと。」 こうなったらてこでも動かない。昨日拗ねさせた手前、駄目だというのも拗れそうな気がした。 エルマーはくちゃっとした顔でしぶしぶ頷くと、ナナシは嬉しそうに笑って腰に抱きつく。 レイガンは、なんで止めなかったという顔でユミルを見ると、困ったように肩をすくませる。 「止めたさ。ナナシは危ないんじゃないのって。そしたらこいつ、」 「つおいからへいきっていった、ナナシはえるのそばいる」 「ぐぁあかわいいいいい」 「出ているぞ、心の声が。」 レイガンが呆れたように言う。見目のいいもののやり取りを遠巻きに見ている者は、どうやら闘技場に出るのだろうということを察したらしい。 もうすでに目立っているなあと諦観さえにじむエルマーの疲れた顔は、腰に抱きつく、ナナシを見下ろす。 「お前、腹に子供いるんだからなあ?」 「えるがまもるよ」 「そりゃあ守るけどよ」 昨日の拗ねた反動で、どうやら今日に限って特に甘えたを拗らせているようだ。 エルマーは仕方なく、というよりもそもそも嫁に逆らうという選択肢はなく、しょうがないなあと了承した。 そんなこんなでまさかのナナシまでついてくることと相成った一行は、ユミルの牛車に案内させれながらカストールのギルドに向かう。これで国のギルドは3つ目だ。なんだか観光マップなるものも看板代わりに掲げているそこは、全体的に真っ白な外壁で目に眩しい。 ナナシは今日も白のチュニックに生成りのボトムなので、壁と同化しそうだなとくだらないことを思った。 「ここでは主が手続きしなきゃいけないんだけど、ナナシって文字かけるの?」 「もじ、かけない」 はっとした顔でナナシが言う。そういえば読み方だって怪しい。大体いつもエルマーかサジ達がやってくれていたので、まさかのここに来ての死活問題に直面した次第である。 「タイムぅ!」 エルマーがインペントリからメモとペンを取り出した。とりあえず参加者の名前と自分の名前をかければいいらしい。エルマーはギルド内に併設されているカウンター席の一角を陣取ると、ナナシを隣に座らせて名前の書き方を教えることにした。 「エルマー、そう、エルマーの綴りはこう、そうそう。」 「んと、んー‥え、える…まあ…」 「んでレイガンはこう。」 「れ…れい…ながい、むつかしい…」 「そこは頑張ってくれ。」 ひょこりと二人の両脇からユミルとレイガンが顔を出す。何かの紙の裏には、ペンを握り締めたナナシによるダイイングメッセージのような筆跡の文字が書かれていた。 とりあえずカンペがわりである。なんとも下手くそで、ユミルは天は二物を与えずとはこのことかと感心する。 レイガンなんて辛うじて読めるくらいだ。なんだかむしろ見方によっては達筆にすら見える。 漸く文字としての体裁が整うまでに、おおよそ20分は要した。 「はやく!昨日のうちに登録は済ましたなら主の承認書類が必要だっ!ほらナナシ!ここに自分の隷属者名の確認のサイン!」 「はわ、ま、まってえ…んと、こ、こうかく…な、ナナシはー‥んと、えと…」 ユミルに急かされるようにして、なんとも下手くそなペンの握り方でヘロヘロの文字を書く。受付が名前の綴りの確認を数度行い、漸く受理をしてもらえた。 「はわあ…もじ、たいへん…」 「俺も会話ができるからすっかり失念してたあ。これからちっとずつ覚えていこうなあ。」  「えると、レイガンのはおぼえたよう。アロンダートは‥が、がんばる。」 エルマーもレイガンも、なんとか午前中に手続きを終わらすことができたのでひとまずはほっと一息つくことができる。予選はこのあとに始まるらしい。一体どんな組み合わせになるのかはくじ引きらしいが、報奨が土地なため参加者には貴族も混じっているとのことだ。 「んー‥、」 「どうした?腹の具合が悪いのか?」 エルマーとレイガンに挟まれるように座席に座ったナナシが、腹を擦る。エルマーは心配そうな顔でナナシの肩を抱き寄せると、ふるふると首を振る。レイガンがそっとナナシの腹に触れて瞼を閉じる。魔力の流れを確認するかのように、子宮を満たすそれを感知すると、ふむと頷いた。 「エルマー、魔力が足りていない。まあ育っている分取り込む栄養が必要になったのだろう。」 「まじでか。ちょっとまってろ。」 流石に今ここで腹に魔力を送り込むことは出来ない。エルマーはインペントリから金の魔石を取り出すと、それをナナシの唇に当てた。 まるでお菓子を与えるかのように魔石を与えるものだから、それは流石に食えないだろうと見ていたレイガンの目の前で、中の魔力がするりと口の中に消えていく。 「足りるか?」 「もいっこ。」 「はいはい、」 パカリと口を開けては与えるエルマーに、雛の餌付けみたいだなあと思う。まあ、やはり粘膜摂取よりかは効率があまり良くないようだ。 「ちうしてくれないのう」 2個目を吸収すると、きゅうっと口を噤んでなんだか不満そうである。じっと大きなおめめで見つめると、まるで強請るようにエルマーを見上げる。 レイガンはユミルがカウンターで軽食を受け取ったのを見ると、もはや諦めたように二人を放置して運ぶのを手伝いに行った。 「げっ、」 「ああ、気にするな。ナナシはああしないと育たないんだ。」 エルマーがナナシの腰を引き寄せて唇を合わせている様子を、ユミルが絶句してみていると、まるで慣れたかのようにレイガンがフォローをいれた。 いくら開放的な国だからといって、ギルドはある意味治外法権だ。故に旅先のもの等は茶化すように口笛などを吹いて煽っているのだが、まるでそれすらも物ともしない。 レイガンがユミルから朝ごはん代わりのサンドを受け取ると、もしゃりと食べながら二人を見つめる。 「子がな。」 「あー、てか孕んでる割に貧乳だよなあ」 「ああ、だっておと、」 こ。と言おうとして口をつぐんだ。そうだ。すっかり失念していたが、ナナシは男でも中性的な見た目だ。ユミルに男で孕んでいると言えば、少し説明が込み入ったものになってしまう。 レイガンは不自然なところで区切ったせいで、ユミルから怪訝そうな顔で見上げられはしたが、気づかないふりをしてごまかした。 「うるっせえ!!見せもんじゃねえぞ、散れ!!」 ナナシに魔力を渡していたエルマーが、茶化す声についにキレた。明らかに自業自得なのだが、エルマーにはそんなもの関係はない。 散々目立ちたくねえとぼやいていた癖になあとレイガンが呆れた目で見つめていたが、その連れである自分も注目されるということに気がついたらしい。 レイガンが大きなため息を吐きながらサンドを食べるのを見て、ユミルはこいつも苦労してるなあと哀れみの視線を向けた。

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