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なんだか生臭い匂いがナナシの鋭い嗅覚を刺激した。ふわついたような心許ない不安定な感覚の中、ナナシはゆっくりと瞼を開ける。 一体、ここはどこだというのだ。  金色の瞳が写したのは、板張りの木でできた不思議な空間であった。   「…える、」   己の目の前で大怪我を負った、愛しい番のことを呼ぶ。ナナシはその美しい瞳を涙で濡らすと、堪えるような声で呟く。 無事だろうか。あの、夥しいほどの赤で身を染めた番は。 薄い腹に触れる。戦いの前にエルマーから与えられた魔力が、腹の中に溜まっている。ナナシがこうして生きているから、エルマーは殺されてはいない。腹の子もつれさられはしたものの、特に異常は感じられなかった。 ナナシができることは、ただエルマーと腹の子のことを考えて、無事でいることだ。 いつまで囚われてしまうのかはわからない。それでもナナシは、諦めてはいなかった。   「ルキーノ、おきて」 ーここにおりますよ。なんだか、えらいことになってしまいましたね…。 「ここどこ、ねちゃってたから、わかんないよう…」 ーあれから、まだそこまで時間は経ってはおりません。不安定な多少の揺れを感じる限り、恐らくではありますが、船の上かと。 「おふね…、」   ナナシは今、まるで隠されるかのようにして木でできた箱に丁寧に仕舞われて運ばれていた。あれからどれくらい眠ってしまっていたのかはわからない。しかしカストールは流通の足として船を使う。ナナシはもしかすると。自分は今ジルガスタントへと向かう道中にいるのかもしれないと悟っていた。 あの、謎の男が言っていた気がしたのだ。エルマーに、ジルガスタントで待っていると。   「ガニメデ、よぶ」 ーいけませんナナシ様、もしこの船の中に市井のものが紛れていたとしたら、巻き込んでしまいます。 「はわ…うう、」   少し焦っていたためか、ナナシの先走った発言を正すようにルキーノが諭す。どうやら八方塞がりとはこのことのようだ。ナナシは大きなお耳をションモリと垂らした後、腹の子のための魔力の温存を考えてふわりと抑制に使っていた魔力の分配を解く。 木の枝のような角と、オーロラのような背中から腰にかけて、背骨に沿うように浮き出た美しい鱗を服の下に表す。   こうすることで、抑えるために使っていた余剰魔力を完全に解放し、本性を押さえ付けるためだけに使っていた分の魔力を温存をすることに決めたのだ。   「まもるよ、」 小さく呟いた。たおやかな手のひらが、そっと腹を撫でる。何があっても、絶対にこの繋がりは途絶えさせない。ナナシと、エルマーの二人の子なのだ。 ー決して孕まれていることは知られないようにしてください。何をされるのか検討もつきませんが、恐らく身を守ることを考えると、敵に弱みを見せない方がいいでしょう。 「うん、…ナナシは。えるとあかちゃんのために、がんばる。」   何が正しい選択かはわからない。それでも唯一わかることは、エルマーとこの子のために死ねないということである。 ナナシは己の身を抱きしめるかのようにして小さくうずくまると、まるで言い聞かせるようにだいじょうぶ…とつぶやいた。 かちゃりと金属の擦れ合う音がした。ナナシの首元から顔を出した、エルマーからもらった青い雪原魔狼の牙でできた美しいネックレス。ナナシは縋るようにそれを握りしめる。 今のナナシが心を強く持つために、握り締められたたった一つのよすがは、その手の中で硬質な輝きを纏いながら、静かにその時を待っていた。          思えばシュマギナールと条約を締結したあたりから、少しずつギルド長のミュクシルの様子はおかしくなっていったと、ガスはいう。 大怪我を無理に治癒したエルマーは、ひとまずカストール唯一のギルドに戻ってきていた。 闘技場の控え室で、スタンピートばりのアンデットによる襲撃を奇跡的に免れたガスとデールが、今回の一件について自らのギルドの長がやらかした事件だということを知ると、協力してくれることになったのである。   「ミュクシル様は、なんつーか俺らの目から見ても、だいぶイカれっちまってた。どこぞの貴族からもらったとかいう術の指南書片手に、常にぶつぶつ言っててよう。」 「禁書だって言ってたぜ。あの人は古語が堪能だからなあ。俺らが読めねえこと知ってっから、その本ならギルド長室のなかにまだあるぜ。」 デールはそういうと、ガチャリと室内の鍵を開けて中に入った。乱雑に詰まれた本の一番上に、それはあった。   赤茶の革表紙に包まれた、みなれない金の印章が施されたその本は、ジルバが城の蔵書からくすねて来たもののようにひどく古めかしい。 エルマーが病み上がりの体を押してその本を手に取ると、その角の生えた狼のような精緻な印が刻まれているそこを、そっと撫でた。   アロンダートが覗き込む。見慣れない印章をよく見ようと眉間に皺がよった。やはり表紙のタイトルからして古語で描かれているそれに、レイガンは微かな既知感を覚えた。   「待ってくれ、俺も似たようなものを持っている。」 「あ?」   レイガンの言葉に、金印を撫でていたエルマーの手がとまる。サジはそういえばと、思い出したようにジクボルトの家でレイガンが持っていた本の存在を思い出したらしい。 あれかあ、と呑気に言っていた。 取り出した古めかしい一冊を、パラパラとめくる。レイガンが開いたページを見えるようにテーブルの上に置くと、それは疑う余地もないほどにミュクシルの持っていた禁書の金印と酷似したイラストがそこに描かれていた。   「レイガン、これは…」 「北の国で信仰していた神のもう一つのお姿だ。」   角の生えた、オーロラのような鱗を持つ狼のような龍。それは紛れもなく夢渡りでみたナナシの本性である。 金印に刻まれた信仰の対象、レイガンはその絵にそっと触れると言葉を続けた。 「本性から人型をとることもあったそうだ。その姿は、言わなくてもエルマーならわかるだろう。」 「ナナシ、…」   ミュクシルが持っていた本同様、その絵の一文も古語で書かれていた。穏やかな眼差しをした人外が、まるで説法を説くかのように人々の中心に腰を下ろしているその挿絵は、まさしく信仰の対象であったということは疑いようもない事実であった。   禁書の開きぐせがついたページをめくる。見慣れないそれは、ジルバに見せられた魂魄付与の陣が刻まれた禁書のものと酷似している。   エルマーがそっと左眼の龍眼に触れる、あの時もこの先見の目で古語で書かれた真実を解き明かした。 左眼のまわりがじんわりとした熱を持つ。サジやアロンダートたちが見守る中、エルマーは左眼の龍眼を発動させた。 金の瞳の虹彩に、まるで星屑のように美しい光が瞬く。そっと愛おしむような甘やかな手つきで一文をなぞったエルマーが、はくりと唇を震わした。   「ああ、そういうこと。」   馬鹿にするような、酷く冷えた声色だった。 瞳をそっと抑えると、クックと喉を震わして笑う。エルマーはそのまま数秒黙りこくると、固唾を飲んで見守るサジたちに聞こえる声で、自嘲まじりに呟いた。   「クソ野郎。ここに書かれてんのは、無属性魔法の空間転移の劣化版だあ。」 「劣化版?」   エルマーの粗野なイラつき混じりの声に、レイガンが戸惑ったように聞き返す。   「狡猾なやつだ、ようやくカラクリがわかったぜ。あいつは転移の術のせいで廃れちまったこの術を、あえて使ったんだ。しかも、ご丁寧に道筋を辿れるようにとこんな大ヒントまで残してな。」   とん、とエルマーの指先がミュクシルの禁書に触れた。 空間移動、それは対象に自らの魔力を匂付けをすることで、その場所にあるそれと自身を入れ替えるという、随分と前に転移魔法が出てからは廃れて消えてしまった過去の遺物のようなマニアックな術である。転移方法が確立されてから消え去ったその術を、なぜ今になってミュクシルが使うようになったのか。   「んなもん一個しかねえだろうよ。」 深いため息と共にエルマーが髪を掻き上げる。 レイガンはいつものチャラけた口調とはちがう、表情の読めないような顔色で、デスクにもたれるエルマーを見た。 男らしい血管の走る無骨な手が、まるで思い出すように二人を繋げた左肩の傷に触れる。 「お呼ばれされたんなら、手土産持っていかねえと。」 くは、と空気を吐き出すように笑った。 ミュクシルは言っていた、ジルガスタントで待っていると。 なぜあの魔女が、わざわざそんなことを言ったのか。 足止めするためなら普通は言わないだろう、そしてこんな古めかしい本を置き忘れたりもしない。 「空間移動、あれは俺があいつの魔力の糸に絡め取られなきゃできなかった芸当だあ。」 「ようするに、相手の魔力と同じものを持つものが必要ということか?」 サジがなるほどと確認するように言う。確かにあのとき、エルマーはミュクシルの張り巡らせた糸に絡まっていた。大型の魔物で手が離せない他の仲間の代わりに、飛び出したのはギンイロである。あの男は、どうやら事前に編成を確認していたらしい。ギンイロの行動までもが、読まれていたということになる。 ミュクシルはナナシの目の前で、エルマーを拘束することによってここまでの流れを思い通りに操ったのだ。おそらく、レイガンがミュクシルに振り下ろした剣をみて、試したのだろう。入れ替えが可能かどうかを。 「てめえが気にするようなことじゃねえわけだ。俺はあいつの術中に見事にハマって、テストで腹をうがたれた。」 「しかし、」 「うるせえ。だからこそあいつの誤算は一個だけだあ。俺がこの場でピンピンしてるってのはしらねえだろう。だからその分早く動けるぜ。」 儲けもんだなと言うエルマーに、ガスとデールはゾッとした。自分たちと争ったことのある眼の前の男は、たしかFランクだったはずだ。だとしたら、なぜこうも大怪我をして平気でいられるのか。失った血肉をポーションと魔力で大幅に補ったエルマーが、なんで立っていられるのかがわからない。 同じ怪我をおったことのあるサジが、絶句している二人をみて、まるで困ったという具合に肩をすくめた。 「バケモンのように体力だけがとりえなのだ。あとは、気力だな。番と子供をかどわかされて、気が気でないのだ。取り繕ってるが、まあ普通に具合は良くないだろう。」 「こ、子供?」 「おっと、言い過ぎた。どやされる前にサジはお口を閉じることにする。」 クスクス笑う美貌の男の顔に、思考を持っていかれて二人は曖昧にうなずいた。顔のいいものの周りには、顔のいいものしか集まらないのだろうか。 ガスとデールがのんきにそんなことを思っていると、アロンダートがエルマーを見る。 「エルマー、向かうのか。ナナシは助けられてもお前は、」 「呼ばれたのは俺だけだ。よく考えてみな、ミュクシルはなんて言っていた。」 ー早く来い、エルマー。ジルガスタントで待っている。 口を噤む、その言葉を額面通りに受け取れば、正しくそれはエルマーを呼び寄せる言葉であった。 「それに、確かめたいこともある。俺の移動の後のことは、ナナシに任せる。」 「しかし、まかせると言っても…」 エルマーのそばにいたいと言うナナシの帰省本能を信じるのか。レイガンはその言葉を飲み込んだ。犬猫じゃあるまいし、そんなものもあるのかわからない。 ただエルマーの瞳は凪いでいて、もう決めたことは変えないといういつもの顔つきに変わっていた。 「空間移動に、俺の龍眼をよすがにするには体に馴染み過ぎちまった。」 「だとしたらどうする、まだそこまで遠くへはいってないにしろ、移動先に罠が仕掛けてあるかもしれないだろう。」 「あいつは、殺したりはしねえっていってたぜ。そうじゃねえと俺が釣れねえしな。」 「しかし、ほかによすがなんてどこにも…」 アロンダートもサジも、思い出そうとしても見当たらない。ナナシの魔力が移るほどの長い時間をかけてそばにあったものだなんて、どんぐりですらあやしい。 悩む仲間を見たエルマーは、片眉を釣り上げる。 「俺には見当がついてる。」 ナナシのそばにずっと長くあったもので、魔力が蓄えられているもの。そんなの、一つしかない。 「大聖堂。あそこに遺骸があるだろう。」 エルマーの目に迷いはなかった。あそこには、ナナシそのものと言ってもいいほどのよすががルリケールに収められて展示されているのだ。 ずっとまえから、聖遺物として存在してきたそれは、正しくナナシの純粋な魔力の塊と言っても過言ではなかった。

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