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その夜、静謐な空間でのひとときを過ごしたカストールの祭祀は、日課として行っている聖遺物をかざったルリケールを丁寧に磨き上げていた。 今日も信徒が祈りに来た。この美しいオブジェが、本物の鱗と爪であるとは思っていない。しかし、ずっとこの大聖堂で保管されてきた神の遺物である。 古今東西様々な神がおわすなか、これだけ信仰を集めているのは、やはり大地に降り立ったという伝説があるからだろうか。 一節によると、どうやらこの聖遺物はあまりよくないものらしい。なんでも、国が囲むようにして閉ざすあの大地の邪龍だったとか。 美しいものには棘がある。そして、災い転じて福となすという言葉があるように、こうしてこの大聖堂に飾ってあるのもそのせいだろう。 「たまには取り出して、月明かりを浴びせてやらなくてはな。」 こんな狭いところに閉じ込められてばかりでは息が詰まるだろう。本物の遺物だとは思わないが、それでも祭祀はこの信仰の対象に、愛情を持って接していた。 鱗は、まるで晩餐で使う皿のようにしっかりとした大きさである。それを丁寧に乾いた布でコシコシとこする。不思議なことに埃っぽさがないこの鱗は、長い時を経てもうつくしいままであった。 爪は、とても鋭い。しかしながら真珠のような輝きをまとっていた。 とても大きなものだ。赤子と同じくらいのそれは、赤い天鵞絨に固定されている。 どちらも開け放たれたルリケールの外、月明かりに照らされるようにして月光浴をする。 祭祀はこの時間が好きだった。 信仰というのは、信じる心だ。何かを願う対象があるのは、心の拠り所があるのと同じだ。 たとえ悲しい過去があったとしても、それを乗り越えるためのとっかかりが必要である。 「さて、綺麗になった。」 「ありがとうよ、大切にしてくれて。」 「っ、え…」 何者かに声をかけられ、思わず悲鳴を上げそうになった。まったく気配は感じられず、上げそうになった悲鳴を飲み込むと、ゆっくりと振り向いた。 暗がりの中、髪の長い男がゆっくりと歩み寄ってきた。ごつごつとした鉄板仕込のブーツの足音は、戦うものの装備だ。祭祀はゆっくりと後ずさりをした。この後ろの聖遺物は、このカストールの民の心の支えである。けして害してはならぬとゆっくりと両手を広げると、男は月明かりに照らされた一角に歩み寄り、姿を晒しながら立ち止まった。 「それは、お前の大事なもんかあ。」 間延びした声は優しい。赤毛に金眼の、酷く美しい男だった。シャツにボトムス、そして、ホルスターに体に巻き付けたインペントリのみという、外套すら羽織らずに軽装の男の腕には、金のバングルが二本嵌っていた。 「もう、礼拝の時間は終いです。お帰り願えますか。」 「ああ、迷惑かけちまうから、一応許可とっとこうと思ったんだあ。」 「…許可、ですか。」 話が通じない。帰れというこちらの言葉を無視するようにそう言うと、優しく微笑む。祭祀の喉が鳴る。男の背後には、先程までいなかった者たちが集っていた。 「エルマー、穏便に行けよ。」 「わかってる。」 紫色の瞳を光らせながら男が言う。 穏便でないことのほうが、どうやら多いらしい。多勢に無勢である。祭祀は戦いの心得など持ち得なかった。ただ信心深く神に祈ってきただけである。 「この聖遺物は、渡せません。これは、この民の心の拠り所です。私もこれを守らねばなりません。」 「心の、拠り所。」 小さく呟いた。赤毛は少しだけ目を伏せると、あろうことがゆっくりと手を上げて、祭祀の目の前で床に膝をついた。 「な、なにを…」 「あんたに、協力してもらえねえかなあ。ほら、この通りなんも危害は加えねえ。諸事情で武器はすてらんねえんだけど、頼む、この通りだ。」 祭祀の目の前で、赤毛が床に手をついて頭を下げる。酷く動揺したのは、祭祀だけではなかった。枯葉色の美貌の男が息を呑む、その戸惑いは背後に控えていた者たちにも伝わっていた。 「危害を加えぬと言うなら、話は聞きましょう。殺しなどをしないと神に誓えるなら、武器もそのままで構いません。」 「ああ、あんたは殺さねえ。」 赤毛はゆっくりと顔をあげると、祭祀の足元に座り込んだまま、真っ直ぐに見上げた。 まるで神に祈るような佇まいであった。祭祀は瞳を戸惑いで揺らしながら、小さく頷くと席を勧める。 小さく苦笑いしながら礼拝堂の椅子に腰掛けると、エルマーは祭祀をみて口を開く。 「その聖遺物に、触らせてくんねえか。」 「…理由を、」 「あんた、信心深いってえことは、口も固え?」 「そこがどう繫がるのかはわかりませんが、まあプライバシーは守ります。」 「これから起こることも、誰にも言わねえでくれるか。」 「場合によります。」 まるで確認作業のような質問をされる。気づけば暗がりにいた者たちも姿をあらわし、翠の瞳の単眼の狼が出てきたときは、さすがに言葉に詰まった。 月が優しく男を照らす。エルマーと呼ばれた赤毛は、少し悩む素振りを見せると、何かを決めたような顔つきで言う。 「そこに触れた後、俺の代わりにその持ち主が来る。」 「その持ち主…?」 言っている意味がわからなくて、思わず聞きかえした。赤毛は聖遺物を見上げながら、なにか思いを馳せているようだった。 「…この男の番が拐かされた。縁を辿って追いかけるにはその聖遺物に触れる必要がある。彼が行った後は、代わりにこちらにくる者がいる。巻き込んですまないが、貴方はこれから起こる事を口外しないでほしい。」 黒髪を三編みにして後ろに垂らした美丈夫が、やれやれと言わんばかりにため息を吐くと、補足するように言う。そう説明されはしても、やはり少々戸惑う内容だった。 「触れるだけ、なのですね。」 「ああ、それ以上は危害も加えねえ。」 祭祀は小さく喉を鳴らすと、いいでしょうと頷く。この判断が、後にどう変わっていくのかはわからない。しかしながら、そんな真剣な眼差しで傅いてまで懇願するのだ。 おそらくよほどの理由があるのだろうなと、この男の言葉を信じてみることにした。 「ありがとう、じゃあ行ってくるからよ。ギンイロ、受け止めろよ。」 「アイヨ」 ギンイロとよばれたのは、単願の狼のような物だ。大聖堂のステンドグラスには、御使いだという女神像が描かれていた。白銀の髪を揺らしながら、そのたおやかな指で角の生えた狼に触れている。 エルマーは見上げるようにしてそのステンドグラスを見つめると、横に避けた祭祀の目の前を通ってそっと聖遺物に触れた。 「え、」 思わず、目を見張った。なにかふわりと優しい風が吹いたと思ったら、もう目の前にはいなかった。そして数秒後、ギンイロと呼ばれた狼がぶわりと巨大化した。 カッ、とフラッシュのような眩い光がこぼれたかと思うと、ギンイロの背にゆっくりと白を纏った人が落ちてくる。 風魔法の応用だろうか。裾をはためかせながら銀の毛並みに寄り添うように姿を現したその人の額には、まるで木の枝のような捻れた角が生えていた。 銀の毛皮に混じってしまいそうなくらい、白く透き通ったうつくしい髪である。 さらりと一房それを落とすと、先程の男の仲間がかけよってくる。 祭祀は口をあんぐりと開けたまま、ぼうっと呆けていた。 大聖堂につかえてから随分と長いが、まさかこんなことが起こるだなんて思わない。 さらりと流れた長い髪に隠されて虹色の薄い鱗が見えたような気がした。   「っ、」 体からナナシの魔力のみを吸い取るような勢いで、魔力に引っ張られるようにエルマーは移動をした。 がくんと膝から崩れたのは、勢いが余ったからに他ならない。四方向を囲うようにして組まれた木の箱は。不安定な揺れを感じながらも、波の上を進んでいるようだった。 「まだ温けえ、っ…」 そっとナナシの寝ていたであろう床板に触れる。かすかな温もりは無事の証だ。 エルマーは小さく吐息を漏らすようにホッとすると、そのまま座り込んだ。 額に脂汗が滲む。少し無理をしすぎた。 ひとまずはこれでいい。あとはナナシが見つけ出してくれるはずだ。エルマーは口元を手で覆うと、無理やり修復した内臓が無理をするなと抗議をするように、口の中を鉄錆の味にする。 何度か深呼吸をして痛みを逃すと、カチャンと音を立ててインペントリから大鎌を取り出した。 ゆっくりと瞼を閉じる。耳に魔力を集めて、そっと外の状況を探る。じわりと手のひらに滲ませた魔力が、床に染み込むようにして霧散する。どうやらこの箱自体に魔力を吸収、そして場所によっては排出する作りになっているらしい。となればやはり箱自体に魔力を流し込むのは愚の骨頂だ。 外に気配はない。エルマーの鋭い瞳がゆっくりと開かれた。 「やべえ、手土産忘れちまったよ。」 小さく戯言を呟いた瞬間、エルマーの手によって見事な円を描くようにして、その板張りの箱は呆気なく檻としての役割を終える。 スパンと音を立てて刻まれた後、放射線状に広がった板がエルマーの唐突な出現を飾った。 開けた視界の先。鼻をくすぐるのは潮風の匂いだ。木端の破片がそこかしこに散らかる。剣呑な光を湛えたエルマーの視線が真っ直ぐに男を射抜く。ミュクシルは身を翻してエルマーから離れると、見開いた目を爛々に輝かせて口元に笑みを浮かべた。   「きた、本当に来てくれたなあエルマー!うははは、俺は今喜んでいる!俺の思い通りに動いてくれたお前に、俺は感謝をしているぞエルマー!!」   ばさりとローブを翻す。放射状に広がった魔力の糸は屈折を繰り返しながらエルマーに向かってくる。くるりと手の中で鎌が一回転した。踏み込んだ足を軸に、わざと膝を曲げて素早く体制を低くすると、投げ出すように遠心力をつけた足で床を摩擦するように腰を捻った。鎌の先を床に突き刺し体を支えたまま一気に足払いをかけたのだ。まるで鉄の棒で強く叩き折られるかのような衝撃が、ミュクシルの体を無様に転がす。 突然視界に映り込んできた満月を瞳に写した瞬間、青い煌めきとともに顔の横に大鎌の先端がさくりと音を立てて埋め込まれた。   おかしい、魔力の糸で捉えていたはずだった。外すわけがないと思っていた驕りが、素早いエルマーの動きについていけなかったのである。 キラキラと輝いて光が落ちる。瞬きの間に切り刻まれた魔力の糸が、残滓を残して消えていく。   「俺の嫁誘拐してくれたツケを払ってもらわなきゃなあ。」 「ふは、お前が相手にしているものはただの人外ではないぞ。」 「おう、お前の遺言はそれでいいのな。」   カチャリと音をたてて切先を喉に埋め込む。ぶわりと吹き出した冷や汗を見、ミュクシルの計算とは違うことが起きたのだと悟った。 「俺を殺したら、遠回りになるぞエル、」 「自分で探すからいいぜ。じゃあな。」   その剣先を首に埋め込ませたまま、鎌の柄を蹴るようにして喉を掻っ捌く。跳ねた飛沫がエルマーの頬を汚すと、その男の口の中に手を突っ込んだ。 グチリと音を立てて、男の奥歯をむしりとる。切先を喉に当てた時点で噛み締めようとしていたのを見抜いていたエルマーは、その手のひらに乗せた奥歯を握り潰す。   「部下で人体実験しておいて、てめえで怖気付いてちゃ世話ねえだろう。」   手のひらには歯の本来の白さには程遠い、特殊な奥歯の形をしたケースだったのだろうそれが握りつぶされ、茶色い土が零れていた。   潮騒の音が静かに響く。どうやらここはジルガスタントに向かう途中の航路のようだった。小型の船舶は主人を失い、航路の途中で漂っている。 随分面倒なところに来たようだ。船はいじったこともない。エルマーはミュクシルの死体の横で腰掛けると、徐に先程の土をその傷口に突っ込んだ。   「聖石ってよすがになんのかな。」   そんなことをぼやきながら、コキリと首を鳴らす。エルマーの背後でぼこりとミュクシルの体が不自然に膨れ上がる。エルマーはゆっくりと立ち上がると、欄干にもたれかかるようにして幽鬼へと変化したミュクシルを見つめた。   「おめえが読んでた禁書に、面白い術があってよ。」   荒い呼吸をしながら体の形成を終えた幽鬼が、よろよろとおぼつかない足取りで近づいてくる。   「無属性魔法の禁術、お前が調べた空間移動よりエグいやつ教えてやるよ。」   そういうと、エルマーはそっと幽鬼に無防備に近づいた。大振りな手の一撃を頭を下げることで避けると、目を見開く直前で幽鬼の顔面を鷲掴んだ。   「ホメオスタシスを操るんだと。身体掌握、緊縛。お前の主人はこの俺だ。」   エルマーの声にびくりと幽鬼の体が硬直する。掴まれた顔を通して、純粋な魔力を一気に流し込んだのだ。幽鬼の魔物としての体の作りを無理矢理歪ませていくその術は、その脳に無理矢理ない記憶を刻み込む。痛覚を呼び覚まし、魔物としての生理的欲求を司る部分を作り替えていく。 文字通り、躾のための恐怖を植え付けるのだ。無理に馴染ませた魔力で、誰が主人かをわからせる。   ゆっくり手を離す。変化を終えた幽鬼はドサリと音を立てて崩れると、数分後にゆっくりと起き上がった。   「お前を差し向けた奴の元へ連れて行け。」   エルマーの魔力を乗せた声が言葉を紡ぐ。幽鬼の長い腕がそっとエルマーの方に差し向けられると、その腕に支えられるようにしてエルマーを抱き込んだ幽鬼が一気に跳躍した。   

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