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ぺしょぺしょという音がきになって、ナナシはもぞりと身を動かしてゆっくりと目を開く。ふかふかの毛並みに埋もれるようにして眠っていたらしい。ギンイロが毛づくろいをするようにナナシのお耳を舐めていた。 「んう、」 「オキタ、」 「える、はぁ…」 ぴるる、と耳を揺らすと、周りの音を拾うようにぴくぴくと耳を動かした。なんだか髪の毛が顔に当たってむずがゆい。手ぐしで直そうかと頭に触れると、指先がこつりとした堅い角に触れた。 そうだ、自分は制御を解いたのだ。ポヤポヤする思考でこしりと瞼をこする。ここはどこだろう。体力を温存せねばと魔力の流れを緩やかにしていたせいか、ナナシはなんだか寝ぼけたままキョトキョトとあたりを見回していた。 「はわ、…ここ、どこぉ…」 ひっく、と小さく嗚咽をこぼす。ギンイロは慰めるようにぺしょぺしょと舐めていたまま、しまい忘れた舌を出しながらあわあわとあわてた。 「エルマー、ナナシタスケタ。ココ、ダイセードー」 「だいせーどー?」 きょとんと首を傾げる。ふんふんと鼻を効かせると、どうやらサジたちも近くにいるらしい。眼の前のテーブルには食べ切れない量の果物やらパン、そしてなぜか蝋燭が両端を飾っている。 質素な部屋なのにやけに豪華だ。変なの、そう思っているナナシが横になっていたベッドも、やけにクッションが多い。ギンイロが気にせず横になったせいで毛まみれだが、ナナシの足りない頭のなかから何とか当てはまるものを持ってくる。 「お、お、おそない…?みたい?」 「オソナイ?」 「んんう、んー‥」 なんだか違うような気がする。ひょこ、と爪先を床につける。ここは魔力を吸い取られることもない。ナナシは腹を撫でながらゆっくりと降り立つと、ギンイロが捕まるのに丁度いい大きさに変化して寄り添ってくれた。 キョロキョロと見回すように気配を探るのに、大好きなエルマーの気配だけは察知することができない。ギンイロの言葉をじわじわと理解していったナナシは、ゆらゆらと瞳を揺らす。 寝ぼけが収まってくればまたじわりと涙が滲む。ひん…っと愚図りだしたと同時に、ガチャリと扉が開いた。 「ひう、あー‥!」 「うわっ、寝起き早々泣いてるし…!」 扉を開けたのは、他ならないユミルだった。朝の配達で大聖堂に行ったら、死んだ顔をしたレイガンが階段の所で座り込んでいたのでぎょっとしたのだ。慌てて中に入ると、サジもアロンダートもびっくりした顔で振り向く。なんでエルマーだけいないのだと言うと、今度はナナシと引き換えにエルマーが居なくなったという。 ユミルは、恐らく泣いているだろうナナシを慰めるべくこちらに顔を出したようだった。子供のぐずりにはもってこいのお土産を持って。 「ゆ、ゆ、ゆみ…ゆみぅ…」 「あーあー、なんかもう、すんごいことになってんじゃん…どんなメタモルフォーゼ?なんで角はえてんの…成長期かよ…」 「え、えるぅ…えるいない、やだぁ…」 「あー!!よしよし、泣くな泣くな!!」 自分とあまり変わらない背のナナシをガバリと抱きしめる。そのままべしょべしょとユミルの肩口を容赦なく濡らしていくナナシに苦笑いしながら、その背中をあやすように撫でる。 弟ができたような気がした。一応恋敵だったのだが、もうこんなに手間のかかるやつを恋人にしているエルマーの器量は底を知らないなあと思うくらいには、ナナシは手のかかる赤ちゃんのような雰囲気だった。 「ナナシ、お前大丈夫?拐かされてたろ、どうやって帰ってきたの。」 「ひっく…え、えるが…かわりに…」 「ああ、なら大丈夫だよ。あいつなら数万回殺しても死ななさそう…ゴキブリみたいなしぶとさあるし…」 「えるごきぶりじゃないもん…」 ひう、と子供のように泣くナナシの頭を撫でながら、さてどうしたものかとユミルは悩んだ。入口でテンションだだ下がりの面倒くさい落ち込み方をしているレイガンもそうだが、今正気を保てているのはアロンダートとサジだけだ。 ナナシを助けに行く話が、今度は逆にエルマーを助けに行く話になっている。ユミルはナナシの肩を抱くと、よしよしと擦りながらひとまずはアロンダート達のもとに行くことにした。 「とりあえず僕もわけんかんないから、みんなのとこに行こう。まともに話せるやつがアロンダートとサジだけっぽいし。」 うりゅ、と目に涙をためたナナシは、はむはむと尾を加えながらとぼとぼとついていく。心配顔のギンイロはきゅんきゅんと鼻を鳴らしながらあとに続くので、ユミルは葬式みたいだなあと失礼なことを思った。 アロンダート達は、大聖堂の祭壇から続く祭祀の私室を陣取っていた。質素な丸テーブルに地図を広げ、難しい顔をしながら話し合っている。そこにレイガンはおらず、ユミルはなんだかむすっとした。 「ナナシ起きたか。お前の代わりにエルマーが敵地に向かった。わかる範囲だけでいい、お前がどこにいたのかを教えてくれ。」 「さ、さじ…ひぅ、あ、え、える…ぅ、うー‥」 「泣くなバカ者、赤子を育てる親が、そんなものでどうするのだ!」 「う、うん…っ…」 サジに鋭く叱咤された。ナナシはずびりと鼻を鳴らしながらそろそろと二人のもとに行くと、アロンダートに進められて椅子に腰掛けた。ナナシの知らない大きな地図には、サジたちが予測した陸を使用した場合のルートが指し示されていた。 「んと、おみず…がにめでのいるばしょだよう。あのね、う、うみ?」 桜貝のような爪が彩る指先で、ぽちりと海を指し示す。そこがどこの海だかはわからないが、確かに潮騒の音がしたのである。 「海か…しかし、わからん。ジルガスタントに向かうのなら、むしろ海ではなく陸のルートのほうが手っ取り早いだろう。」 「たしかにな。しかし、最短ルートがあるのかもしれないぞ。ふむ、」 ユミルは一先ず出る幕なしと判断したのか、ちょこんと椅子に座るナナシの頭をわしりとなでると、なんとなく気になって大聖堂の外で死んだ顔でいるレイガンのもとに向かうことにした。何がどうなってこんなに落ち込んでいるのかまったくもって検討はつかないが、話を聴くくらいならユミルだって出来る。 外の階段に腰掛けたまま項垂れているレイガンの後ろ姿を見ていたら、なんだかふつふつと腹が立ってきた。 あんなに任せろと言ったのに、この落ち込みようは何なのかと思ったのだ。 ユミルはスッと目を細めると、ズカズカとわざと足音を立てるようにして後ろから近付き、その情けない背中を思い切り蹴飛ばした。 「うわ、っ!」 ドンッと背中を蹴られ、思わずレイガンが蹌踉めく。そのまま後ろを振り向くと、むすくれたユミルが見下ろしていたのを見、怪訝そうな顔で見つめ返した。 「なんだ…ユミルか。」 「なんだじゃねーべ。お前何してんの。」 「別に、何もしていない…」 「サジ達が頑張ってんのに、レイガンはなにもしないんだ。ふうん。」 ユミルの言葉に棘が交じる。レイガンは少しだけ眉を寄せたが、どうやら相手にする気力もないらしい。無言で無視を決め込む。 ユミルはヒクリと目元を引き攣らせると、どかりと隣に腰掛けたまま無言でレイガンを見つめた。 「…ようがないなら、あっちへいけ。」 「どっち。」 「…俺のことは構わないでくれないか。」 「弱虫野郎。仲間が死んだわけでもないのに何落ち込んでるんだか。」 はん、と馬鹿にするようにわらうと、レイガンの手がぴくりと反応した。 「結局怖いんだろ。エルマーが一人で行ったことが。」 「…ちがう。」 「自分の知らないとこで、自分の傷で死んだらって、怖いんだろ。」 「ちがう!!」 図星を突かれたレイガンが、語気を荒げる。ユミルの言葉で己の不安をむき出しにされたことが許せなかったのだ。こいつは、何も背負っていないくせに。レイガンの蟠りをぶつけるように、ユミルに怒鳴った。 小さい体は、ビクリとも動かない。ただ静かにレイガンを真っ直ぐに見つめて、その怒りを受けとめる。燃えるような紫の瞳は酷く揺らいでいた。  「知らねえよ馬鹿!僕に言わないじゃん!違うならそう言えよ!口がついてんなら、口を使えよ!」 「お前に何がわかる、剣を、使命を持たないお前に、俺のこの気持ちがどうわかるというんだ!!」 「わかんねえって、いってんべやこのわからずや!!」 ゴッ、と酷く鈍い音がした後、レイガンの目の前がスパークした。恐ろしい程の石頭がレイガンの頭に頭突をしたのだ。思わず仰け反るくらいには衝撃がすごかった。 額を押さえながら、痛みに呻く。涙目になりながらユミルを見上げると、仁王立ちしたユミルが顔を真っ赤にしていた。 「お前がそうやって抱え込んでっから、自分の首締めてんじゃん!!なんだよ使命って!そんなん、お前が決めたことじゃないなら頑張んなくたっていいだろう!?嫌ならやめればいいじゃん!!僕より年下の癖して、変なもん背負ってんじゃねえよ!!」 「お前、さっきからなにを言っている!」 「うるせー!!先輩の話を遮んじゃねえ!!なんでエルマーの周りは揃いも揃ってこんなやつばっかなんだ!!ワカラズヤ!!オタンコナス!!顔がいいからって何でも許されると思うなよ!!?落ち込んでんのがお前だけだって思ってんじゃねーよ童貞野郎!!」 「な、俺は童貞ではない!!」 「聞いてねえよバカ!!」 「ぅぶっ」 ばこんと思い切り顔を叩かれる。こんな理不尽があっていいのだろうか。レイガンは目を丸くして頬を抑えると、呆気に取られたようにユミルを見上げた。 「な、なぜなぐぅぶっ、」 「うるせー!!」 にべもなくばちんとやられると、流石のレイガンも苛立ってくる。振り上げられた3発目を繰り出そうとする細い手首をがしりと掴むと、ユミルの顔にぎょっとした。なんで殴られ、横暴の極みのような事をされたレイガンを差し置いてユミルが泣くのだ。わけがわからないまま思わず引き寄せた。 「落ち着け!なんでお前が泣く!」 「は、腹立ってきた…腹立ってきたら、泣きたくなってきた!!」 「はあ!?お前、本当に訳がわからないな!?」 両手を鷲掴んだまま、なおも引っ掻こうとしてくる凶暴なユミルを押さえながら、はっとして周りを見た。 通りはなにやらがやがやと賑わっている。白昼堂々のこのやり取りが、どうやら痴話喧嘩に見えたらしい。レイガンはくしゃっとした顔をすると、大慌てでユミルを小脇に抱えて大聖堂の裏までかけた。 まったく、おちおちと落ち込ませてもくれないのか。レイガンは脇に抱えられたままのユミルが離せバカ野郎!と暴れているのがうざったく、裏につくとその体を開放してやった。 「ああ!!もう、お前は何なんだ!!あまり俺を苛立たせるな!!」 その小さな体を壁に押し付けると、見下ろすようにして言う。ユミルはびくんと体を跳ねさせると、その薄緑の瞳をじわりと濡らす。やばい。また泣かせた。 レイガンはウッと喉を詰まらせると、壁によりかかるようにしてズリズリと座り込んだユミルの前で頭を抱えた。 こいつは、俺にどうしてほしいのだ。頭の痛い思いでちらりとユミルを見る。殴られっぱなしだったのはこちらの方なのに、なぜ自分が悪いようになっている。 レイガンはぐすぐすと鼻を啜るユミルの目の前にしゃがみ込むと、ため息を吐く。慰め方なんて知らない。こんな小さくてうるさい弱々しい男に、自分がなんで振り回されなくてはいけないのかとすら思う。 「…ん。」 「…うん?」 ごそり、とユミルがポケットから取り出したロリポップをレイガンに渡す。本当ならナナシにあげるつもりだったのに、タイミングを逃して渡し忘れてしまった。まったくもって脈絡がない流れだと言うのはユミルだって自覚している。レイガンは戸惑いながらもそれを受け取るが、どうしたらいいかわからなかった。 「僕さ、」 「うん?」 「お前がエルマーの事刺したって聞いたとき、おまえの事を心配したよ。」 ぼそ、と膝を抱えたユミルが呟いた。 「それは、違うだろう…」 「ちがわねえよ。エルマーはナナシが心配してくれるけど、」 お前のことは誰が心配してくれんだよ。 「…そ…。」 それはどういう意味だ。 レイガンは動揺しすぎて思わず言葉がでなくなった。だって、それは当たり前だろう。意図的ではないにしても、レイガンの剣は人の肉の味を知った。 その剣先が仲間の腹を貫くという恐怖は、罪悪感と脳裏を過る死という言葉の輪郭を更に強めたのだ。 恐ろしかった。自分が守ると大口をたたいておきながら、その守るための剣が死の淵へとエルマーを手招いたのだ。 指先が、その手のひらで握った柄を通しての感触を覚えている。 「仕組まれたんだろ。サジが言ってた。お前がこんなに後悔して怯えてるのに、まだ自分を許してないんだろうって。不器用な奴め、バーカバーカっていってた。」 「…後半は嘘だろう。」 「後半は僕の言葉だけどさ。」 さわりと風が吹く。エルマーが出立してから、もう数時間が経った。 あの赤毛に追いすがりたかった。しかし、レイガンにはその資格がなかったのだ。 「本当は、俺もついていきたかった。」 レイガンはユミルの前に腰掛けるようにして、地面に座るとあぐらをかく。 「ついていって、エルマーの剣として戦うつもりだったの。」 「ああ。あいつの命を脅かしたんだ。俺が、守りたかった。」 紫の瞳が、地面から生えた雑草を移す。青々としたそれは、こんな日陰でも太陽を探して伸びている。 「それで、死んでもいいっておもってたんだ。」 「あいつには、その価値がある。」 いつだってエルマーの目的は分かりやすい。単純だからこそ淀みはないのだ。 レイガンが長から言われたのは、奪われるなということだ。 先見の力を持つ龍が、囚われて国を脅かすきっかけを作るなということ。 北の国は邪龍と呼ばれた御使いの真の姿を知っていたからこそ、消されてしまった。 一つの思い込みが、白い紙に染み込んだ墨のようにじわりと広がって、祝福は災厄に転じたのである。レイガンは、本来だったらシュマギナールでエルマーを引き入れた後、クーデターを起こすはずだった。仲間意識を抱くなんてこともなく、ただその場限りの相手として、反乱後は切り捨てるつもりだったのだ。 それなのに、気がついたらここまできてた。順調だったレイガンの計画が、エルマーたちによって頓挫させられた。しかし、それでも構わないと思わせるほどの器量が、エルマーにはあったのだ。 「ああ、嫌だな。」   小さく呟く。ふと、レイガンの口から零れた素直な言葉に、思わずユミルはその手を握りしめていた。  

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