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戦う者の手のひらだ。レイガンの手のひらを拡げるようにして、ユミルの小さい手が重なる。皮膚が破れて、それでも剣を握り続けてきたのだろう。ゴツゴツとした手のひらは歪な形で、お世辞にも綺麗な手とは言いづらい。
自分よりも年下の、ひどく老成した精神を持つレイガン。自分の小さく、そして苦労の知らない手のひらとはあまりにも違う。指の太さや、少し曲がった関節。細かい傷跡が散らかるその手のひらは少しだけ汗ばんでいる。
ユミルは、その手を取ると、そっと自分の頬に当てた。暖かい、生きている。カサついた手が、恐る恐るユミルの小さな顔に添うようにして、親指で頰を遠慮がちに撫でられた。
真昼間の、大聖堂の裏っかわ。雑草が生えている地べたで二人してあぐらをかきながら、ムードもへったくれもない。
レイガンは戸惑ったように、ユミルにされるがままになっていた。自分の無骨な手のひらが、そのまろい頰を傷つけてしまうんじゃないか。そう思いながら。
「頑張ってるよ。」
「なんだ、急に。」
「レイガンは、頑張ってる。」
月並みな言葉しか言えない。それでも、この我慢を強いられた男の心が、悲鳴をあげていることはしっかりと理解していた。
「お前が、自分のことをどうでもいいって思ってんなら、僕が大事にしてもいいでしょ。」
「…でも俺は、お前も守れなかったんだぞ。」
脳裏によぎったのは、あの闘技場でのユミルの姿だ。小さい体を取り込まれて、血を吐いて、心身ともに限界だったはずなのに必死で伝えようとしてくれた。
あの瞬間、レイガンは血の気が引いた。小さな体がこのまま消えて無くなるのではないかと思ったのだ。
「年下のくせに、カッコつけなくたっていいでしょ。それに、助けてくれたじゃん。」
「そりゃ、助けるだろう…。」
ユミルの形のいい目が、真っ直ぐにレイガンを見つめる。薄い緑の瞳は、どうやら光の加減で深みを増すらしい。影の合間を光が縫うたびに変化するその虹彩が気になって、気づけば目が離せないままでいた。
「お前、俺にチャームを使っているか?」
「使ってないけど。」
「…そうか。」
「なんだよそれ、ったく…ん?」
ほんとは、肩の力を抜けとアドバイスしたかったのに、レイガンが急に話の腰を折るから言い逃した。瞳を揺らしながら、何かを逡巡するように一瞬だけ目を伏せたレイガンが、ユミルの輪郭をなぞるようにして頬に触れる。むすくれた顔を両手で引き寄せると、その紫の瞳の中にユミルを閉じ込めた。
ざわりと葉擦れの音がする。引き寄せられるままに、膝をついたユミルがきょとりとレイガンを見つめる。
なんだ、なんかさっき、ひっかかったことがあったんだけどな。ユミルの脳内に、先程のやりとりが思い浮かんだ。はくりと唇が震えた。そっと鼻先が触れるほどレイガンが顔を近づけた時だった。
「レイガン、サジヨンデル。」
「…今行く。」
ユミルとレイガンの間を陣取るように、体を小さくしたギンイロがヘッヘッヘと笑い声のような息使いでちょこんと行儀良くおすわりをしていた。そっとレイガンの体温がユミルの頰から離れる。わしりとひと撫でだけされた頭をまとまらない思考のまま抑えると、じゃりじゃりとした地面を踏みしめる音がして、レイガンがギンイロの後についていった。
ユミルはポカンとしたまましばらく座り込んでいたのだが、徐々に思考が追いついてくると、じわじわと顔を染め上げる。今、レイガンは何をしようとした。はっ、と小さく息を吐き出すと、足元の砂利を勢いよく弾いて駆け出した。
「っ、レイガン…!!」
「なんだ。」
「おま、僕になに…ッ、し、」
しようとした。と続けようとしたが、言葉は飲み込まれた。顎をしりと掴まれ、無理矢理顔を上げられたせいで首が悲鳴をあげる。しかしそれよりも大騒ぎをしたのは心臓だった。
少しだけ濡れた唇が、ユミルの唇と数秒重なった。長いまつ毛が触れ合ってしまいそうな距離に、レイガンがいる。息をするのも忘れて目を見開くと、ちゅ、と音を立てて唇が離れた。
「…。」
そっと唇が離れる。レイガンを待っていたサジもアロンダートも、あっけに取られたようにユミルにいきなり口付けたレイガンに絶句していた。ほうけているユミルの口に、先ほど受け取っていたロリポップを突っ込むと、レイガンは無言でサジたちのところに合流する。
「れ、れれ、レイガン。お、おま、お前、」
「うん、なるほど。」
サジもアロンダートもひどく狼狽えてしまったのは、そんなことをレイガンがするはずないと思っていたからだ。
ナナシだけはフリフリと尾を振ると、ユミルもついてくのう?ととんでもないことを抜かす。
「置いていく。着いてきたって戦えないだろう。」
「そ、そうなんだけど、そうじゃないだろう!?」
ワナワナしたサジが、訳のわからないことを言う。お前、一体いつからそんな関係になったんだと言わんばかりである。そんな関係も何もない。ただなんとなく確かめたくて、レイガンは口付けた。
周りが動揺している中。ロリポップを口に突っ込まれたユミルは、顔が赤いまま悔しそうに表情を歪めると、レイガンの手を握りしめながらグイッと引っ張った。
「お前、帰ってきたら絶対責任取らせてやるからな!」
「…わかった。」
「だから、絶対に帰ってこいよ。僕が待ってるんだからな。死んだら許さん。」
「誓おう。」
そんなやり取りをする。レイガンは飴を加えたままキレているユミルがなんだか面白くて、ふす、と空気の抜けたような笑いを漏らすと、ギョッとした顔で見つめられた。
「ああ!?」
「レイガン、そんな笑い方するんだなあ…」
「かあいい。」
「……。」
思わず口元をおおうと、いつもの顔に戻る。大体苦渋を噛み締めたような顔や、疲れた表情しかみせないのだ。ユミルは目を輝かせながらレイガンを見上げると、見つめられた本人はその視線から逃げるようにして顔をそらした。
ユミルに背を向けると、ぼり、と頭を掻いてからナナシを見た。
首元には、エルマーが渡したというネックレスが揺れている。なんとなく、本当になんとなくだが、それが羨ましく思う。
「レイガン?」
「なんでもない、行こう。」
なんだか驚き疲れたといった具合のサジ達に合流すると、後ろで立ち尽くしているユミルを振り返らずに歩いた。振り返ってしまうと、なんだか少しだけ名残惜しく感じてしまうからだ。
レイガンは不器用だ。本当に頭が固くて、無骨で、なんともまあ、鈍感である。
口付けをしたのは、確認をしたかったからだ。
チャームを使われたから、こんな気持ちになったのかと。しかしそもそも確認するまでもない。
レイガンにはニアの加護が付いている。
だからそもそも、チャームなんて効かないと言うのに。
「レイガン、」
「………。」
「レイガン、あのぅ…」
無言であるき続けるレイガンに、ナナシがさっきから声をかけてくる。アロンダートもサジも、なにか言いたげに見つめてくるのがうざったい。
「ゆ、」
「言うな。」
面倒くさいことは嫌いなのだ。それに、自分の気持ちに気がついても、使命を全うするまではうわつけない。
だからあの口付けで終わらしたのだ。
レイガンは口を噤む。くい、と服の裾を引かれる感覚に、眉間にぐぅうっ、と深いしわが寄った。
「離せ、ユミル。」
低く呟くレイガンに、服を握りしめる小さな手がぴくんと揺れた。
衣擦れの音と共に、サジがつかつかと歩いてくる。
そうだ、弱いものを連れて行くのは邪魔になる。レイガンは加勢しに来たであろうサジにほっとすると、振り払うべく、その体を突き放そうとした。
「ぐっ!?」
「馬鹿者。」
「ああ!?」
ばこんと殴られたのは、レイガンの方だった。
ギョッとした顔で思わずサジを振り返ると、心底腹が立つという顔でレイガンを見つめる。
このキチガイじみた魔女を、レイガンは苦手としていた。冷静なアロンダートは、なんとも言えない顔をしたあと、俯いてレイガンの服を握りしめるユミルの頭を撫でた。
「罪な男だな、君は。」
「は!?」
「やっぱりなしだなし!お前、あとからこい。これはお前が悪いんだから、始末をつけてからにしろ!」
突然怒りだしたサジは、レイガンの無責任な態度に苛立ったらしい。この男は、出来もしない約束をするのかと言わんばかりに睨みつけられる。
実際、レイガンだってカストールに戻るとは言ったが、そもそも密入国をしている時点で戻れるかはわからないのだ。
それをわかってて、安易な約束をしたレイガンに、サジは怒っていた。
「ユミル、ついてくのう?」
「つ、…」
ついて、いきたい。
震える声が、そう呟く。レイガンがぴきりと額に血管を浮かせると、その細い肩を鷲掴んだ。
「ここにいろ!!」
「っ、いやだ!!」
「おまえになにができる!!」
「できないよ!!」
べしりと腹を叩かれる。痛くも痒くもない。こんな非力な力で攻撃をされても、レイガンにとってはなんとも思わない。
エルマーが単身で向かったというのに、こんなところで時間を食っているわけには行かないのに。
「ユミル、あのね、こわいこといっぱいあるよう」
尾を揺らしながら、ナナシがユミルのきつく握りしめられた手を、そっと包むようにして持ち上げる。
「まもの、たくさんでる。いたいことも、あるかもしれない」
「うん、」
「レイガン、ユミルいたいの、やだなんだよう。」
ぐすっ、と鼻を啜る。小さい体を震わしながら頷く。返事をする気力もないようだった。
ユミルだって、まさか自分がこんなワガママを言うなんて思わなかった。使えるのは風魔法だけだ。闘ったこともない。足で纏い以外の、何者でもないことだってわかってる。
それでも、レイガンは自分のことを放り出してしまいそうで怖かったのだ。
無理だろう、この国に来て、そんなに日にちも立っていない。そんなレイガンに取りすがったって、口付けを交わしただけの関係なんてすぐに忘れられるに違いない。
わかってる、わかっているのだ。
「お前がついてくるなら、サジは構わん。だがここからは自己責任だ。死んでも文句は言うなよ。」
「ユミル、君の気持ちはわかる。それでも、僕達は先を急がねばならない。」
アロンダートもサジも、ユミルを試しているのだ。カストールから出たことのないユミルに、本気をためされている。
きつく引き結んだ唇で、もう一度懇願をしようとした時だった。
「あの、取り込み中すみませんが…」
酷く気まずそうに声をかけてきたのは、大聖堂の祭祀だ。手には丸めた地図を持ち、遠慮がちに声をかけてきた。
レイガンがサジたちと合流したことを窓から見ていた祭祀は、このまま出ていかれたら困ると、大慌てで駆け寄ってきたのだ。そうしたらこれである。まさかの藪蛇に自分がなるとは思わなかった。
言葉を遮られたユミルは、先程の勇気が消失してしまったかのように、ぽろりと涙をこぼした。
震える手が、そっとレイガンの服の裾から離れる。迷惑がられているのがわかったからこそ、縋りたい手を堪えたのである。
「お前には世話になったな。して、なんで慌ててこちらにきた。」
「いえ、あの…サジ様たちが持っている地図は新しくできたものでしたから。省略された場所もありまして…。お仲間が海方向に向かわれたと聞いて、もしかしたらと思って家から持ってきました。」
カストールの祭祀は、サリーという男だ。サリーはエルマーの代わりに現れたナナシを見て、伝説の御使いだと言うことを理解した。
少々先走り、大慌てで祭壇などを作り上げてお供えものまみれにした部屋の主である。
「此処からがちがいます。ほら、水路がありますでしょう。この水路は、はるか昔にカストールのものが始まりの大地から引いてきたものと言われているんです。もう随分と古くて、水門は閉じてしまっているのですが。こちらを通っていかれてはどうでしょう。」
ガサガサと音を立てて、サリーが地図を開く。その指先が指し示した場所には、たしかに細い線のようなものが書いてある。サジたちが見た地図にはないそれは、カストールの海側の洞穴から続いているようだった。
「あ、…すごいな、随分と遠くまで続いている。」
「おそらく、潮騒の音を聞かれたと申しますが違います。確かに海には違いないのですが、ここは船でないと行けない場所なんですよ。なんていうか、陸で囲まれた海のような場所になってまして…」
ナナシが指を指した地図の場所は、確かに海でしか無かった。しかし、サリーが言うには、満潮の時には、陸地が見えないと言う。
潮が引くと、まるでその海を囲むようにして陸が出てくる。そして、そこが水路に続いているという。
「しかしながら、つぎにその潮が引いて水路と繋がるのは翌日の真夜中、今向かわれても道はできていないんです。」
エルマーが飛んだとき、それは丁度潮が引いて水路が見えたときだったという。この水路沿いに向かうと、丁度ジルガスタント側の大地につくらしい。
なるほど、ミュクシルが言ったのはこの事だ。わざわざ最短ルートまでお膳立てをしてくれたらしい。サジは、ふむ。と考えるように口元に手を当てると、くるりと振り向いてナナシを見た。
「聞いたな?ならば出立は明日の真夜中に変更だ。文句はあるまい。」
「える、はやくあいたいけど…いいよう…」
「あの、御使い様に聖遺物をお返ししたく…もう一晩宜しければ、こちらに滞在なさいませんか。」
「んと、かえしてくれるのう?」
サリーとナナシがやり取りをする中、呆気にとられていたレイガンの肩を、アロンダートがそっと手を添える。
ユミルも、泣きはらした顔でぽかんとしたままゆるゆるとレイガンを見上げるものだから、なんというか、逃げ場がない。
レイガンは何か言おうとして口を開いたが、言葉が出ずに結局閉じる羽目になった。その様子を見ていたアロンダートが小さく笑うと、助け舟を出すように言った。
「サリー祭祀の大聖堂の空き部屋が、丁度一人分たりないんだ。悪いがユミル、レイガンを頼む。」
「はあ!?」
ギョッとした顔で、思わずアロンダートを見上げる。その目はしっかりと男を見せてこいといった顔である。
なんとなく意味を理解してしまい、じわりと耳を赤くすると、ユミルが小さく良いよ、とつぶやいた。
「お、前が良くても…俺は、よくない。」
「やだ。うちにきて。」
「ユミル…しかし、」
弱ったという顔でレイガンが助けを求めるようにナナシを見る。ぴるる、と耳を動かしたナナシは、ふにゅりと口元を弛めると、何とものんきに言ってのけた。
「すきすきってするのう?いてらしゃい」
「す、…」
背中にユミルの体温が移る。そっと握られた手の力があまりにも弱々しくて、レイガンは思わず握り返した。
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