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サリーはその光景を、ただ息を呑んで見つめていた。
もし自分に画力があるのなら、一枚の宗教画を描きあげてしまいたくなるような、そんな神秘的な光景を目の前にして、今生でのこの出会いに感謝した。
ふわりと浮いた聖遺物が、再会を待っていたかのようにして御使いの周りをくるりと回る。その様子はじゃれついているような、まるでなつかしむような、サリーの語彙では到底表現できないような、しいていうなら少しだけ泣きそうになる光景だった。
「おいで、」
美しい光景だ。こうして名のある宗教画が描かれていったのだろう。たおやかな手をゆるりと広げ、まるで母のような優しい眼差しでそれを受け入れる。
眩しくもなく、ただ柔らかくあたたかみのある光が大聖堂を照らす。
長い尾に角、おそらく本性はステンドグラスに描かれた狼のような生き物なのだろう。しかしながら、広げられた服の裾から見えるなめらかな素肌を飾るオーロラのような鱗は、龍の特徴だ。
聖遺物から、光が溢れ出す。ぶわりと膨らんだたくさんの球状の純粋な魔力が、回帰するように身体に還っていく。
サリーはその光景を、ただ涙を流しながら見つめていた。祈るように手を組み、祝福の言葉を口遊みながら。
「ーーーー、」
「ナナシ!」
光が収まり、その華奢な体をかくんと崩した。サリーの横を駆け抜けたサジが慌ててそれを受け止めると、ギンイロとアロンダートが駆け足で近づく。
腹を抱えてサジにもたれかかるナナシが、頬を染めながら睫毛を濡らす。ふるりと震える身を労るように撫でた。
「よくがんばったな。大丈夫かナナシ、辛くはないか。」
「あいたい、えるにあいたいよう…」
「勿論だ。皆で向かうぞ、サジだけ先に行くような裏切りはしないさ、皆で向かう。」
「うん、」
エルマーが呼べば、サジは姿を表せる。しかしエルマーは呼ばないだろう。
己が番のそばを離れたことで、不安定になるであろうことは予測していた。サジはエルマーの次に付き合いが長い。ナナシを守るために、だからこそサジをナナシから離すことはしないだろう。
ナナシの細い指先が、そっと下腹部を撫でる。聖遺物の中の魔力を吸収したせいか、腹が育っていた。
微かに膨らんだそこを愛おしそうに撫でる。くすんと涙を流したのは、そばにいて欲しかった。ただそれだけだった。
「御使い様、」
「サリー、大丈夫だ。ナナシは少し休めば問題ない。とりこむといつもこうなのだ。」
「なにかできることは、ございますか…」
「さりー‥ありあと…かえす、ね」
辿々しく言葉を紡ぐと、聖遺物がふわりとサリーの元に戻る。慌てて浮かんだそれらを抱き抱えるようにして受け取ると、戸惑ったように見つめた。
サリーの心配とは裏腹に、ナナシは微笑む。
「あのね、だいじにしてくれて、うれしい。だからね、さりーにあげる。」
「しかし、これは…」
「いいよう、えるも、いいっていう…」
「…かしこまりました、ならば…お借りいたします。」
ゆるくほほえみながら、そんなことを言うナナシに、サリーは今まで行ってきたことを肯定された気がした。自己満ではなかったのだ。自身の拠り所として扱ってきたこの聖遺物が、サリーを受け入れてくれたのだと、そう思った。
「あのね、ごめんね…」
「ナナシ?」
「さりーの、おじいちゃん…ごめんなさい、する…」
そっとルリケールに聖遺物を戻していたサリーの動きが、ピタリと止まる。ナナシが突然謝ったことに戸惑うように、サジとアロンダートは顔を見合わせた。
ナナシは見ていた。聖遺物の記憶を見つめていたのだ。厄災の龍として、死してから不名誉な扱いを受けた後に起こったことを。記憶されたそれは、他ならぬナナシ自身が巻き起こしてしまった騒動の一つであった。それに巻き込まれ、サリーの家族が死んだのだ。
「おじ、いちゃ…あやまる、したい…さりー‥ごぇ、ん…あさ…っ…」
ひっく、と肩を震わす。サジの服を握りしめ、きゅうんと喉を鳴らし、その胸元に顔を埋めて縋り付く。
なんてことをしてしまったのだ。
泰平の世を願って分け与えた自身の遺骸が発端で、この心優しい祭祀の家族を奪ってしまった。
直接ナナシが手を下したのではない。しかし、きっかけをつくってしまった。
良いと思っていた行いが、大きく裏目に出てこの世を脅かしたのだ。ナナシの罪に名をつけるとしたら、一体どんな名になるというのだ。自己満足だったのだろうか。それとも、無垢な欺瞞か。許されてはいけない、許されてはいけないのだ。
「ひぅ、ぁ…ぅ、うー‥っ…」
悲痛な泣き声が、大聖堂に響く。物悲しいその声は、まるで鎮魂歌のように静かに響く。サリーは背中で受け止めていたそれに、耐えられないとばかりに拳を握りしめる。
「ちがいます、なにも悲しい話などではございません!」
ルリケールの蓋を締めたサリーが、ゆっくりと振り向く。ぐすぐすと泣いているナナシの元に近づくと、そっと膝をついた。
金色の美しい瞳に、サリーが映る。戸惑いがちに手を伸ばす、失礼だろうかと思ったのだが、どうやらそんなことはないらしく、まるで甘受けするかのように耳を前に倒した。その幼さの残る御使いの髪を優しく撫でる。愛らしく目元を赤らめたその様子は、ひどく庇護欲を煽った。
サリーは、自分よりも長く生きているはずなのになあ。そんなことを思いながらいとけないその存在を優しく、慰めるように髪を梳いた。
「何故、賛美歌があるとお思いですか。」
「さんびか…?」
「賛美歌とは、神を称える為の歌です。死者の魂を鎮めるための鎮魂歌があるように、神を称える。その為の歌があります。」
キョトンとした顔で見上げるナナシに、サリーはニコリと微笑んだ。
「貴方は、邪龍と呼ばれていたというのは知っております。しかし、同時にあなたの行いを尊いものとする。人とは業の深い生き物で、都合が悪くなると事実を捻じ曲げるきらいがある。だから、こうして信仰の対象を分けたのでしょうね。」
サリーがそっと上を見上げた。ステンドグラスに描かれた人外の神と歪な龍。それは美しい夕焼けに照らされて、そっとその場にいるものを包みこむ。
「同じです、形が違うからと言って、別物ではない。人が死して遺骸となると、それは違うものになりますか?いいえ、面影はなくてもその人に変わりはありません。あなたよりも後から生まれた我々ですらそうなのに、何故あなたが別物として分けられねばならぬのですか。」
サリーの親指が、そっとナナシの涙を拭う。この幼く神聖な存在が、己の懺悔に身を縛られて苦しむなど、なぜ傍観することができるのか。
「民によって、厄災の龍に仕立て上げられただけなのです。人は境界を引くことで身を護る、そして己の心を守る。人に嫌いと言われたからといって、その身が汚れることはありません、何も変わらない。本当の汚れとは、自己嫌悪に苛まれ、己を傷付けたとき。それは汚れよりも取れない傷として残るのです。」
「こころに、きずが…」
「外傷とは違います。心の傷は、けして消えない。自分を強く持てとは言いません。しかし、認めてあげなさい。あなたの周りがあなたを愛すのに、あなた自身が愛してあげられないなんて、そんな悲しい話がありますか。」
人が生まれて、神に祝福をねだるのに。なぜこの御使いは祝福されないのか。サリーはずっと、そうおもってきた。祖父は死んだ。厄災を呪って死んだ。しかし、その厄災はナナシが死したあとに起こった事象なのだ。
死したあとも、責を負わされる。2度殺されるようなものだ。
「許されないわけないじゃないですか…賛美歌は、民が貴方を讃える為に作られた歌なのですから…。」
「ぅ、…っ…」
ひっく、と喉を鳴らす。細い手がゆるゆると伸びると、ぎゅう、とサリーの体に抱き着いた。驚きすぎて硬直したサリーを他所に、ぐすぐすと鼻を鳴らしたサジが、ばしんとサリーの肩に手を回した。
「ぐすっ、お、おまえ…めっちゃいいやつである…、決めた、ナナシはここで式を上げろ。うん、それがいい。」
「サジ、式はエルマーが決めるだろう、僕たちが口を出すことではないよ。しかし、祭祀。…僕も泣きそうだ。」
「さりー‥、ひんっ…、ありぁと…すき…ひぅ、うー‥」
うわああん!とサジとナナシが大騒ぎするように泣くものだから、アロンダートは泣けなかった。しかしながら、この世の中はまだ捨てたものではない。そんなことを思いながら、サリーをみる。
「…………………」
「おや、」
サリーは、失神していた。まさか御使いの神聖な体が己を抱きしめる、まあ正確に言えば抱きついているのだが。そんな状況になるとはついぞ思わなかったからである。
ぱたぱたと尾を振り回しながら、すりすりと擦りよるナナシを、エルマーが見たらどう思うのか。ナナシが感謝を全身で表す前にサリーを救出すると、転化したギンイロがそれはもうご機嫌にサリーの顔面を舐め回していた。
ギンイロが戻ってきたと言うことは、つまりこちらも片が付いたようだった。
「一体どんな状況だ…」
「レイガン。」
疲れた顔をしたレイガンが、ユミルとともに大聖堂に入ってきた。もはや隠す気もないらしい、堂々とその手を握りながら現れたことに少しだけ意外に感じたが、またしばらく会えなくなるということを考えると、それも納得ができる。
頬を染めながらレイガンの影からちらりとナナシを見たユミルが、泣いている様子に慌てて駆け寄る。手を振り払われたレイガンが微妙な顔をしたのが面白かった。
「ナナシ!ナナシなんで泣いてるの!?ええ、なんか育ってる!!」
「ひぅ、あー‥ゆ、ゆみ、ゆみるう…!」
「きたなチビ。ううっ、おまえ、ここの祭祀には上等なミルクを捧げろよ、サジが許す!」
「はあ?なんでお前に許されなきゃいけないのさ、やるけども。」
「サジにお前と言えるのは、一般人だとお前くらいだぞユミル…」
ナナシに抱きつかれ、腹を撫でているユミルの背後からレイガンが来る。
その小さな頭を撫でると、白目をむいて気絶している祭祀からギンイロを引き剥がした。
「カゴツケタ。ショウバイハンジョー」
「それはお門違いというやつだな。」
大聖堂で商売繁盛とは一体。ユミルがここで牛乳売るかとか言い出したのでレイガンが窘めた。
「もういいのか。」
「ああ、帰ってきたら番うことにする」
「はあ!?!?!?!?おまえそれこんなとこ」
「うるさいぞユミル。大人しく待っていろといっただろう。」
「はは、まあ…なるべく早く帰れるようにしよう。エルマーが頑張るだろう。」
「ああ、そうだな。痛い、」
アロンダートが笑いながらそう言う横で、レイガンがユミルに腰のあたりをばかすかと殴られている。痛いと言いつつ全く痛そうではないあたり、反応を楽しんでいるようだった。
「ぐすっ、ほらもういこう。サリーはそのへんに寝かせておけ。」
「感謝した相手にすることではないな…」
「大丈夫だ。サリーが食い扶持に困らぬように、大聖堂の裏手にはマンドラゴラを植えておく。コイツラにサリーの魔力を流せば手伝いをしてくれるだろうよ。」
「おい、お前は大聖堂をなんだと思っている。」
渋い顔をしたレイガンがとめる。そんなもん植え付けたらサリーの大聖堂からは悲鳴と鎮魂歌が途切れないだろう。サジの感謝は常軌を逸するところがある。これは番であるアロンダートが甘やかすからだと見やると、サジは今日も無邪気だなあとにこにこである。
「ん…!?」
「サリー、ぐあい、へーき?」
どうやらナナシが治癒を施したらしい。サリーは慌てて飛び起きると、それはもう見事な身のこなしで一気に端まで引き下がった後、五体投地で叫んだ。
「なんっっったる無礼を!!!!!た、大変に申し訳ございませんでしたあああ!!!!」
「おお、エルマーのような身のこなし。見事である。」
「かくなる上はこのサリー、あなた様の手となり足となり」
「まてまてまてまて、おちつけ。とりあえずもうサジたちは向かわねばならん。お前はただエルマーに言われたとおり、このことを伏せておれば良い。」
サジが呆れたように言うと、パチンと指を弾いてマンドラゴラを呼び出した。
突然現れた魔物にサリーはぎょっとしたが、敵意がないことがわかると、恐る恐る近づいた。
マンドラゴラのシロは、きょときょととサジとサリーを見比べたのち、ぴとりとサジの足に抱きつく。
「うむ、まあなにもないと思うが、一応サジたちが帰ってくるまではここを守ってやれ。シロ、お前にはサリーの大聖堂の護衛を命じる。」
「えええ!?ま、マンドラゴラですよ!?こんな貴重な魔物、襲われて素材にでもされたら僕は償いきれません!!」
「サリー、やはりお前はいいやつである。気に入った!なに、そんじょそこらの奴になんて負けるわけ無かろう。サジのシロだからなあ!」
あっはっは!とのけぞって大笑いするサジの横で、アロンダートは仕方ないといった顔で肩をすくめる。すまないが付き合ってくれという具合にだ。
シロはなぜかやる気を出したように、腕らしき部分をムンっと折り曲げて力こぶを見せつける。
むちむちのマンドラゴラがトトトとサリーの元に近づくと、ぴっと小さな手を伸ばした。
「よ、宜しく…」
なんともコミカルな魔物だ。いえーいと拳を突き合わすようにコツンとサリーの手に手を当てると、ひしりとその足に抱きついた。根菜をこんなに可愛う思うのは初めてである。
「サリー、またくるね、こんどはえるもいっしょに」
「はい…、どうぞ道中、お気おつけて、」
神のご加護があらんことを、そう言おうとしてヤメたのは、ナナシがいたからだ。
レイガンはユミルの頭をひと撫ですると、小さく微笑んだ。大聖堂を出て、ギンイロがぶわりと転化する。外はもう暗くなっていた。
月明かりに照らされたギンイロの美しい毛並みをひと撫でするナナシは、ステンドグラスよりも美しい。
サリーは赤子のようにシロを抱きながら、ドキドキしながらその光景を見つめていた。
「また来る。まってろ」
「サリー、こんどあそんでくれるう?」
「ここは保養所だからな、今度はきちんと手続きをしてくるよ。」
「シロ、達者でな!」
それぞれが思い思いの言葉を言う。これからきっと、サリーの知らないたくさんの苦難が待っているだろうに、何も恐れていないと言った具合に笑うのだ。
ああ、いいなあ。
笑って見送るというのは、これはなんて気持ちの良いことだろう。
ユミルもサリーも、結局祈る事しかできないけれど、それでも、祈りが力になることだってあるはずだ。
遠くなる姿を見送りながら手を振る。サリーは、亡き祖父から言われたことを不意に思い出した。
ー袖には魂が宿るのだ。肉体は離れても、魂はそばにいる。だから人は、どんな別れのときでも手を振るのだ。その者たちと、共にありたいと願うように。
「こんなきもちだったんですかねえ。」
「なにが?」
涙目のユミルが、キョトンとした顔で見上げた。
「いいえ、ただ…なんとなく祖父の気持ちに触れた気がしたのです。」
「ふうん…?…離れてたって、一人じゃないよな。サリー。」
「ええ…皆、同じ空の下ですから。」
まあるい満月だ。少し怖いくらい立派なそれは、夜を優しく包み込んで、浄化するような美しい輝きを放っていた。
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