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33.探偵と刑事と墜落・一

※今回は、ラルフ(モブ)×刑事の描写があります。むりやり要素はありません。 苦手な方はご注意ください。  たしかに、ラルフは優しいと言ってよかった。  あくまで紳士的にウィルクスを扱った。最初こそ彼を椅子に縛りつけていたが、しばらくすると戒めを外して自由にさせ、食事をしないかと言った。  拳銃を突きつけてはいたが。  ウィルクスを自由にしてから、ラルフはずっと拳銃で狙いをつけている。回転式拳銃のМ37。彼自身はくたびれた顔にどこか眠たそうな表情を浮かべているのに、銃口は常に変わらずウィルクスを睨んでいた。  ウィルクスはSCO1(殺人・重大犯罪対策指令部)の刑事だが、拳銃を突きつけられた経験はそうそうない。もしかしてフェイクかもしれない。そうも思う。弾は入っていないのでは? 拳銃を握っているにしては、ラルフは落ち着きすぎている。  体当たりしてみようか。ウィルクスは椅子に座り、男を睨みつけた状態で思った。しかし、決心がつかない。実弾が込められていたとしたら、発砲するかもしれない。おれを守る理由はない。  結局、ウィルクスはおとなしくしていた。ラルフは食事を摂らせようとする。ウィルクスはちらりと腕時計を見た。午前零時過ぎ。食事には遅い時間だと言うと、なにも食べていないんじゃないかという答えが返ってくる。  たしかにそうだ。ウィルクスは食事をとる時間を削って駆けずり回っていた。しかし、緊張のため空腹を感じない。  試しに、手洗いに行きたいと言ってみた。ラルフはあっさり「いいよ」と言った。それから、部屋の隅を指さす。ウィルクスが座らされていた椅子の背後に、小さな白い扉があった。灯りとりの窓が上部に小さく開いている。ウィルクスが開けてみると、狭いトイレだった。汚くはないが、埃っぽい。鍵はなく、質素なトイレットペーパーのホルダーに使いかけのトイレットペーパーがセットされている。  このときも拳銃はウィルクスを狙っていた。彼は個室に入った。扉を開けていろと言われるかと思ったが、言われなかった。ウィルクスは中に入り、用を足すわけでもなく、便座の蓋の上にスーツのパンツのまま腰を下ろした。扉を睨んで考える。  あの男には心当たりがないし、ここがどこかも見当がつかない。スマートフォンはたしかに身につけていなかった。  ウィルクスには思い当たる節がひとつしかなかった。サー・ジャックの事件。きっと自分がそれに関係しているからだと思った。しかし、なぜ? 口封じのためだとは思えない(それならさっさと殺されているだろう)。重要な情報をウィルクスが知っていて、それを今はまだ警察に知られたくないからという理由で、足止めを食らっているのか? しかし、ウィルクスだけが知っている情報というものはない。捜査で知り得たことはすべて、上官と同僚に報告済みだった。  ちらりとベルジュラックのことが脳裏をよぎる。  ウィルクスは、ベルジュラックがエクス・エクスではないかと疑っている。そこで、ハイドを強請っていることや、パブのトイレで起こったこと、その他の言動をラクロワ刑事に報告しようと考えていた。  それを報告されたくないから? ウィルクスはそう思ったが、それならもっと早く行動を起こしていてもいいはずだとも思う。今、このタイミングで自分を拉致監禁する理由はなんなのか?  そこまで考えて、ウィルクスは拳で軽く自分の頬骨を叩いた。ベルジュラックのせいだと断定するのは危険だ。実際には、確かなことはわからない。それでも……。  ウィルクスは、自分が監禁されているのはベルジュラック、あるいはエクス・エクスのせいだと考えた。ラルフは報告用の写真を撮ったことからもわかるように、誰かに指示されてやっている(演技でなければ)。その誰かの目的がわかれば……。  便器の蓋から腰を上げ、ウィルクスは扉を開けた。拳銃が相変わらず狙いをつけている。首の後ろで産毛が逆立った気がした。怖かった。拳銃を向けられていることもそうだったし、なによりラルフの、まるで観光でもしているようなどこか気楽な感じが不吉だったのだ。ウィルクスは男を睨みつける。口の中が渇き、指先がぴりぴりした。  そのときウィルクスは突然、頭を殴りつけられたかのようにはっきりと自覚した。自分が欲情しているのを。  そのことに気がついたとき、血の気が引いて、性欲はさらに加速した。彼は危険や極度の緊張を感じると、怖くなると、逃げたくなると、性行為の快楽を求めてしまう。快楽に没入して、今現在の苦しみから逃避しようとする。  でも、嘘だ。こんなときに。こんなところで。  気分が悪くなり、ウィルクスはしゃがみそうになった。かすかに上体を揺らした彼を見て、ラルフは拳銃で狙いをつけたまま眉を寄せる。 「どうしたんだ、兄さん? 具合が悪いのか?」  それでも、ウィルクスに冷静な部分は残っていた。しゃがみこんだら、この男は体をかがめて覗きこんでくるんじゃないか? その隙をついて拳銃を奪えば……。しかし、実行することはできなかった。  突然噴きあがった性欲の炎に焼かれて、ウィルクスの目じりに涙が滲む。それでも、体は逆に、定規が背中に入ったように強張っている。ラルフは目を丸くした。 「どうしたんだ? やっぱり腹が減ってるんじゃないのか? 食べなよ」  そう言って、隅の安っぽい、低いテーブルに置かれたトレイに顎をしゃくった。皿にあけたレトルトのシチューとパン、缶コーヒーが置いてある。ウィルクスは首を横に振って、微笑んだ。 「大丈夫だよ。気分がよくないんだ。座ってるよ」  彼は縛りつけられていた椅子に腰を下ろした。ラルフは心配そうな顔をしている。銃口を見つめて、ウィルクスは口から声が漏れそうになるのを抑えた。  シド、シド、怖い。会いたい。会いたいよ。  拳を口元に押し当てて目をきつく閉じる。狙いをつけられていても、目を閉じることは怖くなかった。ラルフは自分で言った通り、こちらが抵抗しない限り、危険な目に遭わせるようなことはしない。それがわかっていた。  目を閉じていると感じる。ラルフの気配。体臭と煙草が混ざった男のにおい。重い呼吸の音。そのどれもがウィルクスの背骨を裏側から撫で上げた。ぞわぞわと。狂おしい性の興奮とともに。  それから四時間が過ぎた。  ウィルクスはそのあいだ、手洗いに行き、部屋の中をぐるぐる歩きまわった。疲れてくるとぐったりと椅子に座りこんだ。欲情が高まって、なぜか全身が痛かった。ラルフのブーツの爪先や拳銃を握った大きな手が見えるだけで、すがりつきそうになる。  ウィルクスは必死で自分を抑えていた。こんなのは狂っていると思った。好きでもない、さっき会ったばかりの(しかも自分を監禁している)男に、好きなようにしてほしいと思っているなんて。  これがシドだったらどんなにいいだろう。ウィルクスは恐怖のあまり、そんな妄想を繰り広げた。誰にも知られていない廃墟で、朝を迎えかけた、それでもなお真っ暗な時刻に二人きり。閉じこめられて、拳銃で脅され、奴隷のように夫に奉仕する。  ウィルクスのマゾヒスティックな気質は、その妄想に酔った。そんな場合ではないからこそ、恐ろしいがゆえに妄想に夢中になった。狂ったようにハイドを求めて、しかしここに優しいその姿はない。  いるのは優しい、しかし得体の知れない見知らぬ男だけだった。  ウィルクスは四時間を耐えた。朝の五時が近づく。空はまだ暗い。部屋には窓がなく、電灯の灯りは白々として変わらなかった。  五時を過ぎ、ウィルクスの緊張と恐怖と疲労はピークに達した。しかし、眠気はやってこない。ラルフは「少し寝たらいいよ」と言ったのだが。  彼は一時間に一度ほどの頻度で部屋からいなくなる。ラルフはソファと食事が載ったテーブルのそばにある、木の扉から外に出ていた。それから十分、長いときでは三十分ほど、帰ってこない。彼が外に出たあと、ウィルクスが木の扉のドアノブを握って引っぱってみたことがあった。予想通り、鍵がかかっていた。どれだけ引いても、押しても、扉は開かない。しかも部屋の外に向かって開くドアのため、扉の陰で待ち伏せするということができない。ラルフは常に拳銃を構えて扉を開ける。  五時半近くになったころ、ウィルクスは椅子を立ってトイレへ向かった。ラルフは部屋にいて、煙草を吸っていた。  個室の扉を閉め、ウィルクスは便座の蓋に腰を下ろした。震える手でスーツのパンツの上から内腿に触れようとする。しかし、手は止まった。負けたくなかった。でも、もう耐えられない。あの男に乞うくらいなら、自分でしたほうがはるかにましだと思う。  それでも、ウィルクスは自分ではできなかった。彼の本性は淫乱だった。ハイドはいつも、それを可愛いと言う。だから、ウィルクスも心のどこかでは、自分が淫乱であるということ受け入れていた。というよりも、少しは軽く考えていた。  今、ウィルクスは悟った。自分の救いようのなさを。彼は誰かとしたかった。欲望のままに本性を暴かれたかった。肉体を拓かれたかった。

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