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探偵と刑事と囚人・二
ウィルクスはふうっと息を吐く。夫の声が耳に残って、今も響いていた。暗い夜道を曲がると、車のヘッドライトが背中に当たって流れていった。ひどく疲れていて、足取りが重かった。
本当は、見舞いに行くこともできる。行くべきなんだ。ウィルクスは肌寒くなった夜道をとぼとぼ歩きながら思う。彼は翌朝の七時まで休みを与えられていた。入院しているハイドのそばにいられるようにと、上官が配慮してくれたのだ。しかし、ウィルクスは病院へは向かわなかった。
顔を見るとだめになる。そのことをひしひしと実感していた。腕時計をはめた左手首で目のあたりをごしごしと擦る。電話ですら、声を聞くだけで狂いそうになる。
本当は、キスをして抱きしめたい。甘い声で酷くいじめられたい。抱かれたいとウィルクスは切望した。声を聞くだけで欲望が暴走しそうになる。
もし病院で顔を見たら、おれはなにをするか、どうなるかわからない。発情した自分はけだもの以下になる。その確信がウィルクスにはあった。きっと病院のベッドで求めてしまう。シドは刺されて苦しんでいるのに、おれはその痛みのことを考えられず、狂って……。
疲れ果て、無様に興奮した肉体を引きずって、ウィルクスはとぼとぼと歩いた。街灯と街灯の間隔が広く、闇の中で、彼はひたすら足を動かした。スーツのポケットに手を入れ、煙草の箱を取りだす。背中に背負ったメッセンジャー・バッグを胸元に回して、小さなポケットからライターを取りだした。バッグをふたたび背中にまわしてから、くわえた煙草に火をつける。赤い炎がまたたき、煙を吸いこむ。少し気分がマシになった。歩きながら吸うことは滅多にない。煙の香りとニコチンに、体が楽になる。煙草の赤い火をちらちらさせながら、ウィルクスは自宅の玄関につづく階段を二段のぼった。
外灯はついておらず、外から見た家も真っ暗だ。昔はこうだった。ウィルクスは自分の独身時代を思いだす。家はいつも真っ暗。それをなんとも思わなかった。鍵穴に鍵を差しこみ、扉を開ける。手さぐりで玄関の灯りをつけようとした。
そのとき、閉じた扉の音の次に、かすかな物音が聞こえた。ウィルクスは振り向こうとして、首を後ろに回した。その瞬間、頭に衝撃を感じた。電気がショートしたように、目の奥に白い光が散る。痛みを感じるよりも、状況を把握するよりも前に、彼は玄関の床に倒れた。
○
ウィルクスが目を開けたとき、まず鈍い痛みを感じた。後頭部がずきずき痛む。息をするたび、患部が脈打って肥大するかのように感じるのだ。それでも、我慢できないほどではない。一度だけなったことのある、二日酔いの日の頭痛に近かった。
頭に手をやろうとして、彼は気がついた。体が窮屈で、自由に動けない。手が持ちあがらず、動かそうとすると手首に鋭い痛みが走る。ウィルクスは肩や腕の筋肉に力を入れながら自分の体を見下ろした。椅子に掛けた状態で、両脚がそれぞれ針金とロープで椅子の脚にくくりつけられ、固定されている。手首も同じように、椅子の背に回されて、後ろ手に縛りあげられていた。
なんとか体を動かそうとしてもそれができない。戒めは固く、ロープは緩む気配も見せない。針金はかえって肉に食い込んだ。唯一、呼吸だけは楽にできる。猿轡をされていることはなかった。服装は朝に着替えたスーツのまま。乱れはない。
ウィルクスは首を回してあたりを観察した。薄暗いが、壁にある絞られた明かりのおかげでかろうじて部屋の中が見える。窓はない。振り向くことができないので背後のことはわからないが、彼の目の前に、壁がすぐそばにあった。狭い部屋のようだ。壁にくっつける形で、ウィルクスがいる場所から一メートルほど離れたところに二人掛けのソファが置かれていた。新しいものでも、上等なものでもない。安い家賃で借りている家の居間にある、使い古された家具のようなかんじだ。ウィルクスの目の前にあるのはそのソファだけだった。
突然、部屋が明るくなった。
白い光が満ちて、ウィルクスは思わず目を細める。明かりに慣れる前に、なにかが目の前をゆっくり移動していくのが見えた。
やがて目を開けていられるようになり、彼はソファに座る男の姿を認めた。
男は痩せて中背で、五十代くらい。赤いチェックのフランネルシャツを着て、薄手の茶色いカーディガンを羽織っている。下はくたびれたデニムで、足元はブーツ。やや無精髭が伸びかけた顔を見て、ウィルクスは思った。ジャック・ニコルソン。それも『シャイニング』のだ。
とはいえ、男はそこまで狂気じみている感じはしなかった。明るく、どこか親切な感じすらする。その証拠に、男はソファに座ったままウィルクスに話しかけてきた。
「強く殴りすぎなかったかな、兄さん?」
ウィルクスが答えず黙っていると、男はこめかみに垂れた髪の毛を指でわしわしと掻いた。やや困惑した顔で年下の青年を見ながら、手を後ろに回す。パンツの尻ポケットからスマートフォンを取りだし、膝に乗せて言った。
「強く殴りすぎなかったかな、兄さん? いや、名前で言おう。ミスター・ウィルクス。痛くないかな?」
「おれのことを知ってるのか?」
自分の声なのに、ウィルクスはどこか遠くから響いてくる声のように聞こえた。男は途端にうれしそうな顔になる。
「知ってるさ。知ってて拉致監禁してる」
黙って睨みつけてくるウィルクスを、男はどこか感心したように見た。
「なるほど、あんたは騎士みたいだな、兄さん。刑事なんだってね? 鋭い目つきと凛々しい顔立ち。ぴったりだ」
ウィルクスは答えなかった。ただ男を睨みつけている。脳裏にいろいろな顔の記憶を呼び覚ました。昔、捕まえた男? 有罪にした男? どこかの事件現場で見かけた顔か? 記者? かつての同僚? しかし、記憶には当てはまらない。
「だれだ?」
鋭い視線を向けたままウィルクスが尋ねると、男は無視した。彼は膝に乗せたスマートフォンを大きな手にとって、レンズをウィルクスに向けた。シャッター音がする。彼が睨むと男は驚いた顔をしたが、次には笑った。
「睨むとすごい迫力だ。でも、許してくれ。隠し撮りじゃないんだからな。報告のためだよ」
「だれに雇われたんだ?」
男はまた無視した。彼は椅子から立ちあがった。ウィルクスの視線が動く。椅子に腰を下ろしている今、男のほうが背が高かった。彼はのしかかるようにウィルクスの上にかがみこんだ。煙草のにおいが漂う。
「危険な目に遭わせることはしないさ、兄さん。レイプもしない。あんたにはできるだけくつろいでもらいたいんだ」
「できると思うのか? こんな状況で」
「そんなに睨まないでくれよ。あんたをトイレに連れていってやるんだ。食事もさせる。もう少ししたら、戒めは解いてもいい。指示があればな。大丈夫さ。……スマートフォンはあんたの家に置いてきたよ。今どき、スマートフォンのありかは調べることができるからな」
男はウィルクスの顔を覗きこみ、指の背で彼の頬骨を撫でた。二人は互いの目の中を見た。ウィルクスは急に怖くなった。
シドは? シドに会いたい。怖い。
男は武器を持っているわけでもないし、乱暴な口をきくわけでもない。しかし、その無害そうなそぶりが不吉だった。山小屋を訪れた客をもてなす素人猟師のような笑顔も。しかし、ウィルクスは恐怖をにおわせなかった。黙って睨みつけ続ける。男は彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「おれはラルフ」ウィルクスの目の中を覗きこみながら、男は言った。
「大丈夫だよ、ミスター・ウィルクス。悪いようにはしない。怖がらないでいいんだよ、兄さん」
男の親指の腹が、乾いてひび割れたウィルクスの下唇をなぞる。
ウィルクスは男を睨み続けていた。
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その夜、鎮痛剤を増やされたハイドは深い眠りに落ちていた。
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