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32.探偵と刑事と囚人・一

 枕元でスマートフォンが振動したとき、ハイドは浅い眠りの中にいた。うめき声を漏らし、ベッドの中で寝返りをうとうとして、激痛で目が覚める。刺された傷口が痛んで、息ができない。意識して口を開け、深く呼吸をすると、痛みが少しましになった。  ハイドは電話に出ようとしたが、とれないまま留守番電話になってしまった。電話は録音に進む前にすぐに切れた。彼は画面を覗きこみ、発信元が結婚相手であるウィルクスだと知った。時刻は午後九時十七分。一時間近く眠っていた。ハイドはベッドの中に寝そべったまま、ウィルクスに電話をかけた。  二度のコールのあと、電話がつながった。くぐもった声が「シド?」と呼びかける。 「どうしたんだ、エド?」  寝起きと痛みのために、ハイドの声は低くかすれている。ウィルクスは電話の向こうでほっと息を吐いた。 「起こしましたか?」  おずおずと訊いてくるウィルクスに、ハイドは意識して明るい声をつくった。 「いや、大丈夫だよ。どうした?」 「具合はどうですか?」 「うん、ちょっと痛いときもある。でも、大丈夫だよ。きみは? そういえば、サー・ジャック・フランシスの意識が戻ったから、事情聴取に行くと言っていたな。どうなったんだ?」 「ええ、行ってきました。今、ヤードから家へ帰るところなんですが……結果は残念だった。サー・ジャックはなにもわからないと言ってるんです。後ろを向いていたときに殴られた、と言って。彼とは十分もしゃべれなかった。また意識を失って、目覚めません。危ないかもしれない」  そうか、とハイドはつぶやいた。彼の目に、落胆しているウィルクスの姿が見えるようだった。腹の傷が脈打つようにずきずきと痛むのを感じながら、ハイドはベッドの中で目を細めた。  ウィルクスは淡々と言った。 「サー・ジャックは、なぜネックレスを自宅に持ち帰ったのか言わなかった。警察が『強請られているのか』と尋ねたら、彼は致命傷を負っているのに憤慨しました。わたしの身にやましいところがあると言うのか、と言って。だが、ネックレスの件は理由を尋ねても答えなかった。ジャン・ベルジュラックについても訊きましたよ。『彼はあなたが襲われた日の昼、訪ねてきたか?』サー・ジャックはイエスと答えた。しかし、なぜ訪ねてきたかと訊いたら、『彼とは友人だからだ』と答えただけ。つまり、自分が強請られているという話はしたくないんです。ベルジュラック本人の話と食い違う。サー・ジャックは頑固ですよ。死にかけてるのに、自分の名誉を守ろうと頑ななんです。こっちに協力してくれてもいいのに」  疲れた声のウィルクスをなだめるように、ハイドが言った。 「きっと死にかけているからこそだよ。そういうときには、人は自分の優先順位をはっきりさせるものだ。焦らないで、エド。きみは優秀な刑事だ。短気をおこしてはいけない」 「わかっています」  ウィルクスの声はこわばっていた。ハイドの耳に、ゆっくり息を吐く音が聞こえる。 「もう一度現場検証もしました。足跡もないし、もちろん指紋もない。なにかが動かされた形跡もない……。サー・ジャックの家には優秀なメイドがいて、どこにも埃なんか積もっていないんです。ネックレスのほかになくなったものがあるかどうかもわからない」 「凶器は?」 「サー・ジャックのゴルフ・クラブです。書斎の床に、血と頭髪がこびりついた状態で発見されました。フランシス夫人に訊くと、玄関に置いてある壺の中に、他のクラブといっしょにいつも立ててしまっているそうなんです。もちろん指紋はありませんでした。手掛かりはない。エクス・エクスの手紙はすぐに筆跡鑑定にまわしましたが、定規を当てて書いたのか字が角ばっていて、特徴を見つけるのが難しいそうなんです。指輪は落ちていましたが……」 「そうだ、指輪の件はどうなったんだ?」 「ベルジュラックは自分のものだと認めた。しかし、それは昼間、サー・ジャックのもとを訪れたときに落としたんだというんです。紛失に気がついて電話を掛けたが、サー・ジャックも夫人もいなかった、それで受け取りに行けなかったと。夫人はベルジュラックが昼間訪ねてきたと証言しました。彼女は今度の事件ですごく参ってて、『わたしにはそれだけしかわからない、でもミスター・ベルジュラックは礼儀正しい紳士だと思う』と言ってた。……ラクロワ刑事にも、ベルジュラックの指輪の件を話したんです」  ウィルクスの声が低く落ちた。ハイドはスマートフォンを耳に押しつけ、集中する。 「ミスター・ラクロワも、現場に落ちていた指輪はベルジュラックのものだと認めた。でも、だからといってベルジュラックがエクス・エクスと関係があるとは言えないと言った。それはそうですよね。夜に落としたかどうかなんてわからないんですから。フランシス夫人も、『その日起きて、パーティから帰るまで、夫の書斎には入らなかった。だから指輪がいつ落ちたのかはわからない』と言うんです。サー・ジャックもその点、心当たりはないようです。行き詰まってしまいました」 「よく頑張ったね、エド。投げ出さずによく頑張った」  電話の向こうで、ウィルクスが息を吸いこんだのがわかった。彼はしばらく黙っていたが、ふたたび話しだした声はどこか少年のようだった。 「おれ、あなたにそう言ってもらえると、幸せなんです。だめですよね……なにもうまくいってないし、進展してないのに」 「きみは自分に厳しすぎるよ」 「昔つきあってた彼女に、『あなたマゾなの?』と言われたことはあります」  その言い方にハイドは思わず笑った。電話の向こうで、ウィルクスも笑っていた。 「きみがマゾヒストだってことは」ハイドは優しく言った。「わかってるよ。でも、見せていいのはベッドの中でだけだ」 「わかってます」ウィルクスは一瞬口ごもり、言った。 「おれはあなたのものです。そのこと、自分でよくわかってる。心と肉体の両方で」 「その言い方、マゾヒストの騎士っぽい」 「なんですか、それ。おれは猥談するためにあなたに電話したんじゃないんですよ」 「ああ、ごめん。エド、今日もお疲れさま」  ハイドはそう言ってから、ベルジュラックに聞いた、エクス・エクス第一の事件の犯人の話を短くして聞かせた。ウィルクスはしばらく黙ってから、「調べる必要がありますね」と言った。「ブルーム警部やミスター・ラクロワに伝えたほうがいい」 「もうすでに、伝えてあるよ。大丈夫、きみは帰って休んで。……ベルジュラックは、追及されても平気なのかな」 「彼がなにを考えているのか、おれにはわからない」 「きみが悩むことはないよ」 「……はい。じゃあ、また見舞いに行きますから。おやすみなさい、シド」 「おやすみ」  電話は切れた。

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