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31.探偵と刑事と第一の男

 ベルジュラックが病室に入ってきたとき、ハイドはベッドに横たわっていた。目を閉じてきっちり掛布をかぶり、胸の上で両手を組んでいる。ベルジュラックの目に、彼は棺の中の男のように見えた。  しかし、ハイドは目を開けた。覗きこんでくるベルジュラックの顔を見ると、「こんにちは」とかすれた声で言った。 「こんにちは、ハイドさん」ベルジュラックはハイドのそばに近寄った。それにあわせて、ハイドの視線が動く。 「看護師には、面会者が多すぎるって言われましたよ」ベッドのそばにあった椅子を引きながらベルジュラックが言う。「大丈夫ですか、ハイドさん。疲れてらっしゃいませんか?」  大丈夫ですよ、とハイドは言った。ベルジュラックは椅子に腰を下ろした。グレーのパンツに包まれた脚を組み、ハイドの顔を覗きこむ。突然言った。 「さっき、ウィルクスさんに会ってきましたよ」  ハイドの表情は変わらなかった。相変わらずベルジュラックを見上げたままだ。記者は穏やかに言った。 「ウィルクスさんは、あなたが傷つくなら自分がいなくなったほうがましだと言ってた。あなたといっしょに、幸せになる道を探すと言っていましたよ」  そう言って、ベルジュラックは口をつぐんだ。ハイドの顔をじっと見る。 「ハイドさん? 泣いているんですか?」  ハイドは青い目を細めていた。胸の上に置いた両手を握って、ベルジュラックを見上げた眼差しはどこかぼんやりしていた。記者は微笑む。 「あなたがウィルクスさんを大事にしていること、よくわかりますよ」  それから急に黒い目が光った。 「ぼくはこのあと、パリに戻ります。仕事で。またロンドンには帰ってきますが」 「ええ、あなたは帰ってくるでしょうね。ウィルクスがいるから」  ベルジュラックは笑った。 「ぼくは、これでも愛する人に忠実でしてね。恋愛をゲームだと思う人種とはちがいます。あなたの言う通り、ウィルクスさんがいるなら諦めません」 「ここへはなにをしに?」  ハイドの質問に、ベルジュラックはかすかに上体を揺すった。看護師が部屋に入ってきたが、見据えるベルジュラックの目と目が合うと逃げるように逸らした。小声で、「むりはしませんように」と言う。ハイドがうなずくと、看護師は部屋から出ていった。  ベルジュラックはハイドのほうを振り向いた。 「あなたにお知らせしたいことがあって。エクス・エクスの件で」 「なんです?」 「ぼくの考えをお伝えします。あなたは、第一の犯行に及んだ人物と、二件目の事件以降エクス・エクスを名乗っている人物は別人でははないかと考えた。二件目以降の犯行に及んだ人物が、第一の事件も自分が起こしたように偽っていると。その考えには、ぼくも賛成です。第一の事件の犯人は別にいる」  ハイドは不思議そうな目で記者の顔を見上げていた。乾いた声で、「どうしてそう考えるのですか?」と尋ねる。ベルジュラックは微笑んだ。 「これまでずっとエクス・エクスを追いかけてきた記者の言葉として、聞いてください」 「もしあなたの言う通りなら、なぜエクス・エクスは他人の犯行を自分のせいだと偽ったのですか?」 「エクス・エクスは第一の犯罪を犯した人間と知り合いだった。エクス・エクスは犯人をかばいたかったのです。そして、自分の名をあげるのに利用しようとした」 「第一の事件の犯人は、エクス・エクスにとって大切な人間だった? その人物は、いまどこに?」 「刑には服さず、もう亡くなったでしょう」 「あなたはそれが誰だか知っているのですか?」 「刑事ですよ。ぼくの友人だった男」  ハイドは記者の顔を見上げたまま目を細めた。彼はウィルクスがしてくれた話を思い出していた。ベルジュラックには、刑事の友人がいたと言っていた。二年前に殉職したと……。 「あなたは信じないかもしれないけれど」ベルジュラックは目を伏せ、輝く黒い瞳でハイドを見下ろし、言った。 「エクス・エクスも彼なりの仕方で情を重んじるんです」 「ぼくとは正反対だ」  ぽつりとつぶやいたハイドを、ベルジュラックは感情のない目で見つめた。 「あなただってそうですよ、ハイドさん。情にほだされる。自覚するのを嫌がっているみたいだけれど」 「本当に『そう』なら、強く生きられないからですよ、ミスター・ベルジュラック」 「果たして強く生きる必要があるでしょうか? 弱ければ食い物にされる。でも、ぼくらが生きてる世界は食物連鎖ではありませんからね。むしろ環ですよ。食い物にする者もまた弱者に食われている。もしそうなら、怯える必要はない。自由に生きていけばいいんです」  ハイドはそっと笑った。 「気に入りました」 「よかった」  ベルジュラックも笑みを返す。 「エクス・エクスがかばった刑事は、生涯自分の犯した罪を悔いていました。衝動的なものではなく、念入りに計画しての犯行だった。動機はわからない。人は理由や原因を求めるものです。腑に落ちなければ安心できないから。あの刑事は、金に困っていたのかもしれない。警官として無難に勤める日々に嫌気がさしたのかもしれない。それとも、単に悪を為したかったのかもしれない。動機はわかりませんよ。ただ、エクス・エクスは彼を利用した。そして‪今夜‬もあの刑事の夢を見るでしょう」  ベルジュラックは椅子から腰を上げた。ハイドは彼の顔を見ていた。握った両手が冷たく、脇腹がじっとりと痛かった。ベルジュラックは手を伸ばし、ハイドの前髪を梳いた。額に汗がにじんでいる。 「ナースコール、しましょうか?」  ハイドは答えなかった。ベルジュラックを見つめ、口を開いた。 「ぼくを刺した男は、だれかに雇われたんだと思うんです」  ベルジュラックが見つめ返す。彼は目を丸くしていた。ハイドの額から手を離す。 「雇われた? 自分の意志で刺したわけではないということですか?」 「おそらく」 「どうしてそう考えるのですか?」  勘ですよ、とハイドが言った。 「あの男がした供述はとてもぼんやりしていて、『なぜ刺したかわからない』そうだ。なぜなら彼にはぼくを刺す理由がなかったからです。きっと出所したら、金が待っているはずだ」 「あなたに恨みを持っている人物がいると?」 「というよりも、離しておきたかったんでしょう。ぼくとウィルクスを」  ベルジュラックはかすかに笑った。眩しい黒の目がうるんでいるように、ハイドには見えた。ベルジュラックは彼の手にそっと手を重ねた。あたたかい手だった。励ますようにハイドの手の甲を軽く叩き、「早く元気になるといいですね」と言った。  彼が去ると、病室のあまりの静寂に、ハイドの頭は締めつけられるように痛んだ。傷も痛む。刺しこむような鋭い痛みのせいで気分が悪くなった。ナースコールに手を伸ばそうとすると、枕元に置いたスマートフォンが振動した。  画面を見ると、ウィルクスからだった。ハイドは横たわったまま電話に出た。 「シド、具合はどうですか?」  ウィルクスの声は落ち着いている。ハイドはうれしくなった。スマートフォンを握り、浅い呼吸のまま「大丈夫だよ」と答える。電話の向こうで、ウィルクスがほっと息をついたのがわかった。 「よかった」そう言って、ウィルクスは微笑む。顔が見えないのに、ハイドはそれを感じた。  ウィルクスはそっとささやいた。 「大好きです、シド。あなたが好きです。‪今夜‬もあなたの夢を見ます」 「急に、どうしたんだ?」  ハイドが笑うと、ウィルクスは少しむすっとした声になった。 「人生、なにが起こるかわからないから、伝えたいことはちゃんと伝えておかないとと思って」  そう言ったあと、ふいに柔らかい声になる。 「あなたのこと、いつも思ってます」  静かで落ち着いたその声に、ハイドは目にあふれる涙を感じた。ぼくもきみのことを思っているよ、と言うと、ウィルクスは微笑む。その顔がハイドには見えるようだった。  ふいにウィルクスの声が引き締まった。 「サー・ジャックが目を覚ましました。これからブルーム警部たちと事情聴取に行ってきます」  わかった、とハイドは答えた。患部に触れる服をぎゅっと握りしめる。 「気をつけて行っておいで」  はい、と答えたウィルクスの声は意欲に満ちた刑事のものだった。  ハイドは通話を切った。うめき声を上げてベッドに沈む。傷が痛み、閉じた目の奥で暗闇が回った。  

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