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30.探偵と刑事と決意

 ジャン・ベルジュラックがパリ警視庁の刑事だと言われたウィルクスは、しばらく沈黙していた。ベルジュラックが今までしてきたことを思い出し、その話が信じられない。ラクロワ刑事は静かに言った。 「ベルジュラックは警官でありながら新聞社に身を置いています。エクス・エクスの事件をはじめ、新聞社でなければ得られない情報を手に入れるために。警察には関わりたくなくても、そういうところに話をしたい人間はたくさんいます。でも、そういわれてみれば刑事らしいでしょう?」  ウィルクスはうなずけなかった。唾液を飲み込み、相変わらず黙っている。 「ウィルクスさん?」  ラクロワの声は静かだったが、どこか心配げだった。 「わかりました」ウィルクスは言った。 「でも、たとえ刑事だとしても、ベルジュラックさんはなんらかの形で事件に関与している可能性があるのでは? 少なくとも、サー・ジャックの件では」 「そんなことは、きっとありませんよ」  ラクロワはつぶやいたが、急にトーンの違う、抑えた低い声になって言った。 「いいでしょう。おれも刑事です。ベルジュラックが本当に関与しているのかどうか、調べますよ」 「ありがとうございます、ムッシュー・ラクロワ」  ウィルクスは心から礼を言った。ラクロワの声が強張る。 「ウィルクスさん、あなたはベルジュラックが怪しいと思っている。それはなぜですか? 状況から? それとも……なにかほかに理由があるのですか?」  あの男は悪魔だから。ウィルクスはそう言いたかったが、言えなかった。  状況からです、と彼は答えた。  ウィルクスのパートナーである、シドニー・C・ハイドを強請るベルジュラック。パブの狭いトイレでウィルクスに口淫をさせたとき、ベルジュラックはどんな顔をしていたのだろうか? ウィルクスは電話の向こうで黙った。  ラクロワ刑事に、ベルジュラックが黒か白か、調べてもらおう。もしかしたら、ほんとうになんの関係もないのかもしれない。ラクロワ刑事の調査に満足できなかったら、そのときは本当のことを言おう。ベルジュラックがしたことを。今、それを言ったら、ラクロワは信じないのではないか。むしろ、中傷されているように感じるのでは?  言いたくないという気持ちを振り捨てて、ウィルクスは考えた。サー・ジャックの回復も待つことにする。明日じゅうに意識が戻らなければ、ラクロワに事情を話す。  ウィルクスは胸に押しつけた、資料の入った封筒を抱えていった。 「あなたの捜査がうまくいけばいいと思います。でも、安心しました。友達が疑われているのに、あなたが公正な態度をとってくださって」 「おれは刑事ですから。それに、物事を正しく見ることができたらといつも思っています。もしそんな目を持てたら、現実がどんなにひどくても受け入れようと思う」  ラクロワはぶっきらぼうに言った。彼の決意に安堵すると同時に、警察官としての姿勢に、ウィルクスは敬意を覚えた。自分をかえりみて、その情けなさに苦しくなる。しかし、ウィルクスは暗い心を振り捨てた。 「ありがとうございます、ムッシュー・ラクロワ」  そう言ったあと、「今からヤードに行きます。ベルジュラックさんからあずかった資料を持って」とつけ加える。ラクロワは電話の向こうでうなずいた。 「お願いします、ウィルクスさん。……ハイドさんは、具合はいかがですか?」  ウィルクスは封筒をぎゅっと抱きしめる。落ち着いた声で、「順調ですよ」と答えた。ラクロワは「よかった」と言った。  電話の向こうで彼が微笑んでいることが、ウィルクスにはよくわかった。この優しいひとを傷つけることになっても、真実をつきとめなければ。ウィルクスはそう決意した。  それに、彼はハイドと自分自身の苦しみで手一杯だった。 〇  そのころハイドの病室では、彼の別れた妻、アリスが椅子に腰を下ろして、ベッドに横たわる夫の姿をじっと見つめていた。  アリスは薄手の白いセーターに、スカートではなく、めずらしくパンツを身に着けていた。ヒールのかかとで病室の床を蹴りながら、ハイドと目が合うと、長い睫毛に縁どられた大きな青い瞳で夫を見下ろした。 「刺されたんですって?」  甲高い声がふっくらした唇からこぼれる。ハイドはベッドの中でにっこりした。アリスは柳眉を吊り上げる。体をベッドのほうに伸ばし、腰を浮かせてハイドの頬をつねった。 「アリス、痛い」 「あいかわらずへらへらしてるんだから。重症なの?」 「そこまででもない」ハイドは頬をつねられたまましゃべる。 「でも、しゃべってると痛いし、起き上がっても痛む」 「あなたの結婚相手はどうしたのよ?」  可憐な顔で睨んでくるアリスに、ハイドはにこにこした。 「仕事に行ってる。エクス・エクスがまた事件を起こしたんだ」 「あなたが寝込んでるんだから、休めばよかったのに」 「なかなかそうはできないよ。ぼくも瀕死ってわけじゃないし」  アリスは頬をつねる手を離した。唇をきゅっと結んでハイドの穏やかな顔を見る。彼女は掛布に手をすべらせて、ハイドが中から出している右手にそっと触れた。 「あの男が心配してるなら、それでいいけど」  じっと目の中を見つめながら言うアリスに、ハイドはうなずく。脇腹に傷みが走って笑顔が歪んだが、かすかだったのでアリスにはわからなかった。夫の大きな手を撫でる彼女の手はとても小さくて、白いその肌にはそばかすが浮かんでいる。 「手、冷たいわね、シド」 「きみの手はあたたかいね、アリス。見舞いに来てくれてありがとう」  アリスはそれには答えなかった。 「ミスター・ウィルクスとは、うまくいってるの?」 「うまくいってるよ」  ハイドは患部のそばの服を、掛布の中に入れた手でぎゅっと握った。痛みを覚えて呼吸が浅くなる。アリスが覗きこんできた。 「痛いの?」 「ちょっとね」 「ナースコール、しましょうか?」 「いや、大丈夫」ハイドは表情が乏しくなった顔で答えた。 「これくらいの痛みは、ときたまあるんだ。痛み止めも続けては飲めないし、大丈夫だよ」 「ここにミスター・ウィルクスがいたら、あなたの痛みもふっとぶかしら?」  ハイドは笑った。 「いや、たぶんむりだろう。でも彼の顔を見てると、必ず治さなくちゃと思う」  わかりやすい人ね、とアリスは言った。彼女は手を伸ばし、指の背でハイドの頬を撫でた。 「髭も剃れないの?」 「うん。むさくるしくてごめんね」 「いいのよ。どんなあなたでも」  アリスはそうつぶやくと、美しい顔をかすかにゆがめた。 「危ないことはしないでちょうだい」  ハイドは答えないまま、別れた妻の顔をぼんやりと見ていた。今でもハイドの目に、アリスはとても美しく映る。背中に流れる豊かなウェーブした金髪も、青い瞳も、白い歯も、美しかった。 「聞いてるの、シド?」 「聞いてるよ。別れたのに、わざわざ来てくれてありがとう」  アリスは黙った。黙ってハイドの顔を見ている。つんとして、「あなたは危なっかしい人だもの」とつぶやいた。ハイドはにこにこして言った。 「ぼくは昔きみと結婚して、今はウィルクス君と結婚してる。きっと恵まれた星のもとに生まれたんだな」 「おめでたいひとだわ」  アリスはそっけない声で言うと、ハイドの手を握った。 「無茶なことはしないでね。約束よ」 「ああ。でも、仕事がら恨みは買いやすいんだ」 「通りすがりのホームレスに刺されたんじゃないの?」  ハイドは答えなかった。アリスは淡々と言う。 「ミスター・ウィルクスに守ってもらって。あの人、あなたをかばってよろこんで死んでいきそうだから」 「ぼくはいっしょに生きていきたいんだ。それに、彼には生きていてもらいたい。生きていることがそんなに素晴らしいことではなかったとしても」  相変わらずひねくれてるのね、とアリスは言った。後ろを向き、椅子に置いたバッグの中を手探りして、分厚い黒い表紙の本を取り出す。 「あなたは黒魔術を研究してるんだったわね、趣味で。新しい本が出ていたからあげるわ。きょう発売だったの」 「うれしいよ、アリス。ありがとう」  ハイドは枕元に禍々しい本を置いてもらいながら、明るい声で礼を言った。今にもベッドの中で読みだしそうだった。アリスは椅子から腰をあげながら言った。 「ミスター・ウィルクスに守ってもらうのよ。いい?」 「ああ。今までもずっと、彼はぼくを守ってくれた」 「そうかしら。ミスター・ウィルクスだって自分の身を守りたいときはあるわ。あなたより自分を優先させたりするわ」 「それは自然なことだよ。それでいいんだ。エドは、自分のことを優先させたといって自分を責める。でも、そんな必要はないんだ。ぼくは怒らないし、むしろうれしいよ。彼には自分を大事にして、心安らかに生きてもらいたいんだ」  あなたもよ、とアリスはつぶやいた。ハイドはベッドから起き上がろうとした。アリスが体を支える。彼女は間近にある、彫りの深い顔立ちを見つめた。顔色が悪く、疲れている。ハイドはベッドに起き上がると、明るい笑顔を見せた。アリスの手を握り、すぐに離す。 「きみと話していたら、エドの誕生日のことを思い出した。十月十七日。もうすぐだ。なにかプレゼントしたいな」 「勝手にすればいいわ」 「ありがとう、アリス。来てくれて。うれしかったよ」 「わたしを苦しめて、自分だけよろこんで、あなたは相変わらずなのね」 「きっとそうだな。きみも帰り道、気をつけて」  わかってるわよ、とアリスは言った。夫の頬にキスがしたいと思った。しかし、しなかった。背を向け、バッグを握りしめて病室から出る。廊下から、ヒールが鳴り、遠ざかっていく音が聞こえた。  ハイドはベッドのヘッドボードに背をあずけると、アリスからもらった本を広げて読みはじめた。彼の顔に、穏やかなよろこびが広がる。  それから十分もしないうちに、ベルジュラックが病室に入ってきた。

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