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探偵と刑事と秘密・二

 ウィルクスは初め、無視しようとした。しかし、思い直した。なんとなく、新聞記者かもしれないと思ったのだ。ハイドが刺された件で訪ねてきたのかもしれない。それに、ブザーは執拗に長く鳴っている。  欲望を抱えたまま、むりやりシャツから身を引きはがす。下腹部はすでに少し反応していた。それで、ウィルクスはゆっくり玄関に降りた。  ブリーフケースを手に、ジャン・ベルジュラックがそこにいた。  ウィルクスの表情は変わらなかった。扉を閉めて表へ出ると、「どうしたんですか」と尋ねた。  ベルジュラックは少し驚いた顔をした。ウィルクスの顔がよくできた人形のように見えたからだ。 「突然、すみません」ベルジュラックはちらりとウィルクスの服装を見た。 「今日はお休みですか?」 「いえ、これから着替えて出勤します。……あなたはなぜ……」  ここに、と言いかけたウィルクスを無視し、かぶさるようにベルジュラックが言った。 「ハイドさん、具合はいかがですか?」  ウィルクスはなぜかぎくっとする。ベルジュラックの黒い目がきらきら輝いて彼のことを見つめていた。 「具合は……ひどくはありません。でも、ときどき痛みが走るみたいで……」 「刺されたんだから、当分はきっと痛むでしょう。でも、ひどくなくてよかった」 「本気で言ってるんですか?」  本気ですよ、とベルジュラックは慌てた。 「あなたがハイドさんに付き添ってくださったこと、有難いと思ってます」ウィルクスは表情を変えないまま言った。「すみません。あなたに悪意はないんだろうけど」 「疲れているんですよ」  ベルジュラックは穏やかに言った。次の瞬間、すばやく背伸びをしてウィルクスの唇に口づけた。  ウィルクスは突き放そうとしたが、それより先にベルジュラックが体を引いていた。二人は無言で見つめあった。 「もう、や……やめてください」  震え、怯えるような顔で懇願するウィルクスに、ベルジュラックの欲望が沸き立つ。 「言わなければいいんですよ」と静かに言った。 「ハイドさんに言わなければいい。ぼくとキスしたことも、フェラしたことも、全部。それなら、かまわないでしょう?」 「で、できない」ウィルクスは強張った顔のままつぶやいた。 「できません。そんな、裏切るようなことは……」 「裏切るんじゃない。話さないことが、彼を傷つけないことなんです」 「むりです。嘘はつけない」 「正直に話すと、傷つきますよ」  ウィルクスは絶句した。ふいに、自分がどれだけ愛する人を傷つけてきたのかに気がついた。自分の境遇を嘆くばかりで、愛する人の苦しみは想像してこなかった。そう思うとウィルクスは自分を責めていた。自責は気分が悪くなるほど激しくなる。  頬にベルジュラックの手が触れた。  手はウィルクスの頬に流れた涙をぬぐった。ベルジュラックは指先についた涙を舐め、ささやいた。 「あなたはじゅうぶん苦しんでる。ハイドさんだって、あなたを責めませんよ」  年下の男のささやきが、ウィルクスには悪魔の誘惑に聞こえた。すべて自分が悪いのに、なぜこの人は自分を慰めてくれるんだろう。憐れんでくれるんだろう。甘やかしてくれるんだろう。  ウィルクスにはわからなかった。朦朧とした頭とベルジュラックの魔力にさらされて、しるべとなるものを見失っていく。  次のキスも軽いものだったが、静かで長かった。ベルジュラックが自らの魂をウィルクスの唇に移そうとするかのように。ウィルクスは拒まなかった。下腹部が熱を持ち、痛みを覚えるほど昂ぶる。  抱いてほしいと叫びそうになった。  それでも、唇が離れたとき、彼は言っていた。 「シドを傷つけるなら、おれがいなくなったほうがましです」 「ウィルクスさん、そんなこと言わないで」 「二人で幸せになれなくちゃ、意味がない。おれはシドとそっちの道を探します。だから、あなたは忘れてください」  ベルジュラックは黙った。目を細めて、眩しい光を見るようにウィルクスのことを見ていた。  彼は突然、ブリーフケースを開けて中から大判の封筒をとり出した。それをウィルクスに渡す。 「ヴィクトル・ラクロワ刑事に渡してください。エクス・エクスが起こした第一の犯行についての資料です。ぼくが持っていくはずだったんですが、急にパリに戻らなくてはいけなくなって。すぐこっちに帰ってきますが」  ウィルクスは不安になった。ほんとうに帰ってくるんだろうか? 重要参考人なのに。ベルジュラックの目を見つめ、封筒を抱いたまま引き留めようとする。  しかし、ベルジュラックはさっさと背を向けて行ってしまった。  ウィルクスはしばらく突っ立っていたが、封筒のフラップを開けて中を覗いてみた。きれいにまとめられた紙の束がいくつか入っている。ふと無地の茶色い封筒に目を向けて、裏に電話番号が書いていることに気がついた。  「念のため」というメモとともに、ヴィクトル・ラクロワの名前が書いてあった。  ウィルクスは居間に引き返すと、テーブルに置いたスマートフォンを手に、ラクロワに電話を掛けた。 「――もしもし?」  低い声が応じて、ウィルクスは早口で言う。 「ラクロワ刑事ですか? ウィルクスです」 「ああ、ウィルクスさん。どうしたんですか? なぜこの番号を?」 「ベルジュラックさんに聞きました。……彼はうちに来て、エクス・エクスの資料をあなたに渡してくれと言った。パリに戻らなくちゃならなくなったと言って」 「ああ、そうらしいですね。なんでも仕事だとか。ウィルクスさん、世話をかけてすみません。たしかにあいつの泊まってるエンデル街のホテルは、ヤードよりあなたの家に近いですね」 「サー・ジャックが殴られた現場に落ちていた指輪、ベルジュラックさんのものですよね?」  ラクロワは沈黙する。ウィルクスはたたみかけるように言った。 「ストライカー警部にも伝えました」 「その情報はわたしが訂正しておきました」  そう答えたラクロワの声はよそよそしくはなかったが、厳しかった。 「今日、ベルジュラックから電話があったんです。彼はサー・ジャックと知り合いで、昼間に訪ねたと言っていた。そこで指輪を落としたんだそうです。そのことは、フランシス夫人に確認しました」 「だからと言って、彼が夜にまた訪れたことの否定にはならない」 「ええ、そうです。だから、この事実は確かなことをなにもつけ加えない」 「ベルジュラックさんはあなたのご友人ですよね。責めるみたいで悪いけど、でも彼はエクス・エクスの件になんらかの形でかかわっているのでは――」 「記者という形以外で?」  ラクロワの声は皮肉っぽかった。しかし、彼はまた落ち着いた口調に戻った。それどころか真摯な声でこう言った。 「これはあまり人に知られたくないんですが、あなたならいいでしょう。ベルジュラックは……パリ警視庁の刑事なんです」

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