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29.探偵と刑事と秘密・一
「エクス・エクスが犯行に及んだ現場に落ちていた指輪、おれがきみにあげたものじゃないのか」
ヴィクトル・ラクロワから電話でそう言われたジャン・ベルジュラックは、しかし落ち着いていた。むしろ明るく「なんだ」と言って、こう言った。
「きのう、なくしたんだよ。やっぱりサー・ジャックのところに忘れていったんだな」
スマートフォンに耳を押しつけて、ラクロワは不可解な表情になる。そばにあるポストに老婦人が手紙を入れにきたので、彼はしばし黙った。ふたたび一人になると、ベルジュラックに尋ねた。
「きみはなぜ、サー・ジャックのところに? 面識があるのか?」
「サー・ジャックはぼくが休暇でロンドンに来る前、パリにいたころ知り合ったんだ。ある教授の講演会でお会いして。彼はぼくに相談があるから、電話をしてほしいと言っていた。それで、ロンドン行きが決まったから会いに行くと約束したんだ」
「相談とは?」
「サー・ジャックはエクス・エクスに脅迫されていると言ってた。それで、警察には相談したくないが――ぼくがエクス・エクスの事件を担当している記者と聞いて、なにかあの悪党の弱点がないか、最悪強請りとられるものがいくらか少なくてすまないだろうかと、相談したかったそうだ」
ラクロワは静かに息を吐いた。青空に突き刺さるようなビッグ・ベンの尖塔を見上げてうなずく。
「そうだったのか。……その話の裏付けは?」
「サー・ジャックの奥さんが、きのうの昼に訪ねたぼくのことを見ている。一時間くらい話したかな。指輪をなくしたことに気づいて電話したんだが、そのとき家には誰もいなかった」
「指輪を落としたことに気づいたのは、少し遅かったんだな」
「指にははめないで、ポケットに入れてたからな。スマホをとり出したときに落としたんだと思う」
そう言って、ベルジュラックは電話の向こうでかすかに笑った。
「『その話の裏付けは?』か。刑事にしてはストレートすぎる」
悪かったな、と言ってラクロワは笑った。背中をポストにもたせかけ、ゆっくり息を吐く。肌寒い朝、見慣れぬ街並みのなかで緊張が緩んだ。
「悪かったよ、ジャン。きみがあの犯罪者と、なにか関係があるのかと思ってしまった」
正直に告白したラクロワのことを、ベルジュラックは愛おしく思った。刑事は詫びるように続けた。
「そんなはずはないのにな。だが、刑事のサガなんだ。許してくれ」
「よくわかるよ」ベルジュラックはそう言って、優しく笑った。
「じゃあな、ヴィクトル。もしかしたら、ぼくも今日ヤードに行く予定なんだ。エクス・エクスの第一の犯行をもう一度調べてみたいって、ミスター・ハイドが言ってたよな。ブルーム警部も同意した。資料をうちの会社から送ってもらったから、持っていこうと思って」
「わかった。サー・ジャックがやられた今度の事件でも、きみの集めた資料は必要になると思う。またヤードで会おう。……ハイドさんは大丈夫か?」
「わからないけど、危ないっていう話は聞いてない。新聞には、『私立探偵が刺された』っていう記事が載ってた。ウィルクスさんに聞いておくよ」
「ウィルクスさん、しっかりした人だよな」
ヴィクトルが褒めると、ベルジュラックは自分のことのように嬉しそうに、「うん」と答えた。
○
ベルジュラックとの通話を切ったあと、ラクロワは我に返った。
例え、エリザベス・フランシスが昼間に訪れたベルジュラックの姿を見ていようと、それはそれだけのことだ。彼女がパーティに出掛けた午後九時以降に、ベルジュラックがふたたびサー・ジャックの元を訪ねていたとしたら。持っているデータでその可能性を否定することはできない。
スコットランドヤードに戻るため、秋の道を歩くさなか、ラクロワは考えた。
もしジャンがエクス・エクスだったとしよう。もし。仮に。それなら、指輪を落としたと気がついて、黙ってのんびりしているだろうか? エクス・エクスなら、フランシス邸の鍵を破ることなど簡単なはずだ。
もしかしたら、知っていてわざと指輪を残したのだろうか? なんのために? 捕まりたいなどと、エクス・エクスはつゆほども思っていないはずだ。
ジャック・フランシスが目覚めれば、なにか新しいことがわかるはずだ。しかし今、ラクロワは自分が釣り合いを失ってしまったように感じた。
そんなはずはないと言いたいのに。
○
ウィルクスは自宅に帰ると、シャワーを浴びた。熱い湯を浴びていると、体じゅうから疲れが流れ出ていくように感じる。
ハイドは薬でやっと痛みが治まった。「むりはしないでください」と医者から注意され、彼はしぶしぶウィルクスを帰した。
「そばにいてもらいたいけど、ずっとはむりだね。きみも休んだり、仕事をしなくちゃいけないし」
そう言った夫は、不安そうというよりもむしろ寂しそうで、ウィルクスも思わずずっといっしょにいたくなった。しかし、そうするとこの人はいつまでも起きているだろう。そのことに気がついて、ウィルクスはいったん帰ることにした。
シャワーの湯で顔を洗う。しっかりボディソープで体を洗い、髪も洗う。とても気持ちよく、ほっとした。目を閉じて髪を洗っているとハイドの顔がちらつく。恋しいし心配だった。
それに、肉体が疼く。
ウィルクスはそのことに気がついて、湯煙の中、ぎくっと体を強張らせた。沸騰しはじめた湯がぽこぽこと水底から泡を立ち昇らせるように、下腹部に兆しを感じる。彼は無視しようとして、体に力を込めた。
シドは今それどころじゃないんだ。
そう自分に言い聞かせて、急いで体を洗った。それでも欲情を覚える。自分がこうなるのは、肉の快楽に浸ることで現実逃避しているからだとウィルクスは気がつきかけていた。
風呂から出て、そのままワイシャツを着るのではなく、いったんスウェットを身につける。下はゆったりしたパンツを履いて、浴室の隅の洗面台で髭を剃った。そのあと、冷蔵庫からコーラをとり出して居間に向かう。昼までには出勤したいと思い、居間の椅子に腰を下ろしてプルタブを開け、コーラを飲んだ。
しかし、落ち着かない。コーラを飲みかけのまま放置して、ランドリールームに向かう。
洗濯機の横の、洗うものを入れるバスケットの中に、ハイドが着ていたシャツが入っていた。彼が事件に巻き込まれたため、洗われないまま置かれている。それを手に取って、ウィルクスはにおいを嗅いだ。
大好きな夫のにおいが鼻腔で花を咲かせる。片手で持ったシャツに顔をうずめ、もう片手はすでに、脚の付け根に触れている。とり憑かれたようにむらむらして、苦しくなった。
我慢ができない。でも、いいじゃないか。誰にも迷惑をかけないんだから……。
脳がとろけて、肉体もとろける。ウィルクスは大好きなにおいを嗅ぎながら欲情し、床の上に座りこんで、自慰にふけろうとした。
そのとき玄関のブザーが鳴った。
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