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探偵と刑事と鍵・二

「ぼくのことも指名してくれるとは、律儀ですね」 「うれしいか?」 「ぼくは今の仕事で満足してるんです。これ以上有名にならなくても……」 「おれたちといっしょに汚辱の沼に沈められるかもな。それに、決まり文句だろう? 『同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない』」 「『鏡の国のアリス』、ルイス・キャロルですね」  そう言ったあと、ハイドは顔をしかめてうめき声を漏らした。ウィルクスはぎくっとする。ハイドの手を握って顔を覗きこむと、彼は疲れた顔に笑顔を浮かべた。 「大丈夫だよ、ウィルクス君。……じゃあ、ぼくも今の場所にとどまるために全力で走ることにしますよ」  かすれた声でハイドがそう言ったとき、扉にノックの音がして看護師が顔をのぞかせた。振り向いたストライカーの顔を無表情で見て、「そろそろお休みの時間ですよ」とハイドに言った。  警部が腰を上げると、看護師は満足そうに喉をごろごろ言わせた。ウィルクスのほうも見て、愛想よくうなずく。 「ミスター・ウィルクスも、少し休憩なさったら? ずっとつきっきりでは、ミスター・ハイドが元気になるまえにあなたが参ってしまいますよ」  暗に「ミスター・ハイドを一人にしてあげなさい」という声を聞いた気がして、ウィルクスはうなずいた。職場から直行したため、風呂にも入らず着替えもしていないままだ。病院の売店で買った歯ブラシと歯磨き粉のセットを通勤用のメッセンジャーバッグに押しこみ、椅子から腰を上げる。 「エド、髭がちょっと伸びてる」ベッドの中でハイドは微笑んだ。 「かっこいいお兄さんは疲れててもやっぱりかっこいいけど、でもぼろきれみたいなきみは見たくない。家でゆっくり休んでおいで」  ウィルクスの胸に熱いものがこみあげる。同僚と看護師の目を無視して、思わずハイドの唇にキスをしたくなった。しかし、なんとか自制する。きりりとした表情でパートナーを見て、ウィルクスはやや堅苦しく言った。 「ありがとうございます、シド。でも、エクス・エクスがまた事件を起こしたし、おれも刑事たちの捜査に加わらないと」 「ぼくも、全力できみたちを追いかけるよ」 「むりしないでくださいね。まだ傷が塞がってないんだから」  ハイドはうなずき、「心配してくれてありがとう」と笑顔を見せる。その微笑みに、ウィルクスはめちゃくちゃになっていた自分自身がやっと静かになって、本来の自分としてこの場に戻ってこられたような気がした。  看護師は足音を忍ばせて病室から退散していた。ストライカーはわざとらしく咳払いする。別に情事の現場を見られたわけでもないのに、振り向いたウィルクスはかすかに赤くなっていた。  彼が「なんだ」という目をすると、ストライカーはコートのポケットに手をつっこんで、ごそごそしはじめた。ウィルクスとハイドの顔を順繰りに見て、「大ニュースその二だ」と言った。  ポケットから取りだした写真には、引き伸ばされた形で指輪が一つ写っていた。 「現場で発見された、エクス・エクス唯一の遺留品だ」  ストライカーが写真を見せるとウィルクスは目を輝かせた。 「すごいじゃないか。エクス・エクスはこれまで、遺留品をひとつも残していなかったんだろう? きっと手掛かりになるな」  そう言って、慌ててハイドにも写真を見せる。そのとき、探偵の顔つきが微妙に変化した。ウィルクスもストライカーも気がつかなかった。警部は返された写真を受けとって、にやりと笑った。 「ラクロワ刑事にも見てもらった。驚いてたぞ。手掛かりが残っていたことは一度もない、と言って」  それから写真をもう一枚取りだした。指輪の内側に彫られた刻印が写されていた。イニシャルが刻まれている。「V・L」。 「おれたちも忙しくなるさ」  ストライカーはそう言って、帰っていった。一瞬の静寂が訪れた。  病室に二人きりになり、ウィルクスは背伸びをする。背骨が音を立てた。ハイドはベッドに横たわったまま、かすかな声でウィルクスの名前を呼んだ。 「どうしたんですか?」  心配そうな顔になるウィルクスを見て、ハイドは大丈夫だとは言わなかった。彼は言った。 「エド、あの指輪、見覚えがないか?」 「え? ……いや、覚えがありません。少しごつごつした指輪ですよね。シルバーで、太めのリングだったけど」 「ベルジュラックがあの指輪をしていた」  ウィルクスは目を細めた。鋭い眼差しがさらに鋭く輝く。ハイドは浅い呼吸をしながら言った。 「間違いない、ベルジュラックが初めてうちの事務所に来たとき、つけていた指輪だよ」 「ストライカーに伝えます」  ウィルクスはそう言って病室を飛び出そうとしたが、勢いよく振り向いた。 「シド、具合、悪いんですか?」 「うん」  ハイドは顔を歪め、掛布の端をぎゅっと握った。 「ちょっと、痛い」  ウィルクスは急いで枕元のナースコールを押した。ハイドの額に脂汗がにじんでいることに気がつき、掛布を握りしめる彼の手に手を重ね、ぎゅっと握る。 「そばにいますからね」  震えを抑えた声でそう言うと、ハイドは目を閉じてかすかにうなずいた。 ○  そのころ、スコットランドヤードにいたヴィクトル・ラクロワは、刑事たちに「少し外を歩いてきます」と言ってその場を離れていた。ヤードの建物から離れたところまで歩いて行って、角のポストのそばにたたずみ、周りにだれもいないことを確認すると、スマートフォンで電話を掛けた。 「もしもし? ヴィクトルか?」  電話に出たベルジュラックに、ラクロワは言った。 「ジャンか? エクス・エクスがまた犯行に及んだこと、知ってるよな?」 「ああ。それが?」 「現場に指輪が落ちてた。あれ……おれがきみにあげたものじゃないか?」

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