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28.探偵と刑事と鍵・一

「さすがのあんたも死にかけたそうだな、ミスター・ハイド」  翌日の朝九時半過ぎ。スコットランドヤードからやってきたストライカー警部が軽口をたたくと、ハイドはベッドの中で眉間に皺を寄せた。 「冥府から戻ってきました」  暗い声でそう言うと、ストライカーは鼻を鳴らす。「元気そうだな」と言った。  顔色は悪いが、ハイドはにこにこしていた。ベッドに横たわったままで、掛布の端から右手を出している。そばに座っていたウィルクスがその手を握っていたが、ストライカーが見て見ぬふりをしているのを意識して、そっと手を離した。ストライカーはコートのポケットにつっこんだ朝刊をがさがさいわせる。 「新聞に載ってたぞ」 「ええ、ウィルクス君が教えてくれました」 「もう起きあがれるのか?」  ストライカーの質問に、ハイドは「ぼちぼち」と答えた。 「もうちょっとで、一人でトイレにも行けるようになるんですけどね。そうなったら気分がいいだろうな。あと、しゃべると痛みます」 「じゃあしゃべらずに話を聞いててくれ」  ストライカーはウィルクスに勧められた椅子に座り、ハイドが刺された事件について、簡単に事情聴取の内容をしゃべった。 「犯人は飲んだくれの六十八の男、家賃を滞納していて半ばホームレスだ。競馬で買って、あの日、酒をしこたま飲んだ。酩酊しているところへミスター・ハイド、あんたと出くわし、よくわからない供述だが、『なんとなく刺してしまった』。凶器のナイフは拾ったもので、小金と引き換えに金物として引き取ってもらおうと、なんとなく持っていた、そうだ。ただ、供述があいまいでな、覚えていない、どうしてかわからない、と言っておろおろ泣いてる」 「ぼくは運が悪かったようですね」  ハイドはそう言ったが、そばで聞いているウィルクスはそれで許せる話ではないと思っていた。ストライカーは低いしゃがれ声でうなる。 「犯人の男は反省してたぞ。まっとうになるって言ってる。どうだかな。……それより、といっちゃなんだが……大ニュースだ」  まじまじと見つめてくるハイドとウィルクスにのしかかるように、小柄な体を伸ばして警部が言った。 「エクス・エクス、第二の犯行だ」 「銀行の頭取が重体だそうですね?」  あっさり言ったハイドに、ストライカーは顔色を変えなかった。 「聞き及ぶのが早いな」 「ウィルクス君がネットのニュースを見せてくれたんです」  ストライカーはうなずいて、コートのポケットからノートをとり出した。顔に近づけて読む。 「ユニオン・サウス銀行……一流の銀行だが……の頭取、サー・ジャック・フランシスが、自宅の書斎で頭を殴りつけられて昏倒しているのが発見された。発見者は妻のエリザベス。午前四時前に友人のパーティから帰宅したところ、明かりに気がついて書斎に入り夫を見つけた」  警部はページをめくる。 「サー・ジャックは病院に搬送。いまも意識不明だ。調べた結果、彼の持っているダイヤモンドのネックレスが行方不明になっている。イギリスで最も美しく最もかさばらないと言われる、通称悪党のダイヤモンド・ネックレス。盗んだあとの扱いが簡単って意味でな。ネックレスは事件があった日の朝、サー・ジャックがじきじきに銀行の金庫から持って帰ったものだそうだ。おれたちは彼が強請られて、代価を払うつもりでネックレスを持ち帰ったと見てる」 「現場には今、ブルーム警部が?」  ウィルクスの質問に、ストライカーは顔からノートを離してうなずいた。 「もっと大物も出馬しそうだ。それから、あのパリから来た刑事。ムッシュー・ラクロワもこれじゃとうぶん母国に帰れないだろうな」  ウィルクスはヴィクトル・ラクロワのことを思いだした。病院まで付き添ってくれたり、様子を見に来てくれた。いいひとだな、とウィルクスは思う。急に、ラクロワが話していた病弱な妻のことを思いだした。彼が帰ってこないと、奥さんは心配で、寂しがるだろうな。そう思ったら、ウィルクスはエクス・エクスのことがますます憎くなってきた。  ベッドから手が伸びてきて、ウィルクスの手の甲に触れる。ハイドの手は冷たかった。ウィルクスは彼の手に手を重ね、ぎゅっと握った。  ストライカーは見て見ぬふりをしている。ノートをめくり、言った。 「で、ここまではネットニュースになった(強請りのくだりは記者には伏せてあるがな)。さらに続きがある」  コートのポケットに手を入れ、警部は大判の写真をとりだした。ウィルクスはハイドの手を離し、写真を受けとって覗きこむ。ハイドはベッドの中で首をかしげていたが、パートナーの顔色が変わったのを敏感に察した。ウィルクスは顔を上げ、ストライカーと目を合わせる。警部はうなずいて言った。 「『スコットランドヤードとミスター・ハイドに挑戦状』だとさ」  ハイドが覗きこもうとして、傷口の痛みに体を強張らせた。ウィルクスはそっと彼の肩に手を置いて、受けとった写真を見せる。  なんの飾りもない、ありふれた白い便箋が写されていた。手紙は黒いインクで書かれている。 「スコットランドヤードとミスター・ハイドに挑戦状を送ります。  わたしはエクス・エクス。もうご存知ですね。わたしを捕まえてごらんなさい。  ヒントはよく見ること、よく知ろうとすること、油断しないことです。自分の見ているもの、自分の信じたいことが正しいと思わないように。  Ex-X」 「サー・ジャックの体に安全ピンで留められていたんだ」  ストライカーが満足げに言うと、ハイドは目を細めてうなずいた。

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