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探偵と刑事と病室・二
眠ったままのハイドが病室のベッドに横たわると、ウィルクスはふしぎと心が落ち着くのを覚えた。口が酸素マスクで覆われていたり、いろいろな管が体から伸びて機械に繋がれていたりするのに、なんだかその日の朝、隣で眠っていたハイドのことを思いだしていた。
それは寝顔が安らかだからかもしれない。ハイドは目を閉じて規則正しく呼吸を繰り返している。
「歳から考えて、かなり体力がある人ですね。それも幸いしましたよ」
手術を担当した外科医がにこやかにウィルクスに説明した。
「傷も深くはなかった。重要な臓器は傷ついていません。あと三時間ほどで麻酔から覚めますよ」
ウィルクスはうなずきながら聞いていた。そのころには、彼の顔に涙の跡はなかった。
医師と看護師がいったん部屋を出ていったあと、ウィルクスは椅子に腰を下ろしてハイドの顔を見ていた。今にも目が開いて、疲れた顔で「エド」と笑いかけてくれそうだ。そう思った。
ウィルクスは飽きることなくハイドの寝顔を見ていた。医師や看護師が病室に入ってくると椅子から立ちあがり、部屋の隅にいたが、彼らが出ていくとまた同じ場所で、同じ姿勢でハイドのことを見つめ続けた。
○
ハイドが目を覚ます一時間ほど前に、ヴィクトル・ラクロワが病室を訪ねてきた。彼はコートをきっちり着込み、手にコーヒーショップでテイクアウトした、紙コップに入ったカフェオレを持っていた。
「どうぞ飲んでください」
そう言って紙コップを差しだされ、ウィルクスは礼を言って受けとる。まだ熱く、砂糖が入っていた。飲みこむと、温かさと甘味が心を落ち着かせる。彼は二口飲んで、隣の椅子を勧めた。
ラクロワは「すぐ帰りますから」と言って座らなかったが、ウィルクスの目を見て言った。
「ウィルクスさん、ですね。わたしはヴィクトル・ラクロワ、パリ警視庁の刑事です。ハイドさん、無事に手術が終わったとお聞きしました」
ラクロワはちらりと眠るハイドのほうを見た。ウィルクスはうなずいて言った。
「これでなにごともなく麻酔から目覚めれば、あとは大丈夫だということです。あの、昼間は知らせに来てくださってありがとうございました。それに、いっしょに病院に付き添ってくださいましたね」
「気にしないでください。心配ですよね。……自分を引き合いに出すのもなんだけど、わたしの妻は体が弱くて。入院なんてことになると、すごく心配で不安になります。ましてや、ハイドさんは外傷を負ってしまった。心配でたまらないと思うんです。でも」ラクロワは目を細めて、賞賛するように微笑んだ。
「あなたは立派に落ち着いている。きっと、あなたの顔を見て、目覚めたハイドさんも安心すると思う」
さっきまではおれも死のうかと思ってました。ウィルクスはそう思ったが、口に出さなかった。
「おれが落ち着いていたら、ハイドさんは安心してくれますかね」
そう笑ったら、ラクロワはうなずいた。
「あなたが泣いてたら、ハイドさん、きっとあなたに泣きやんでもらうために、いろいろ頑張りそうだと思う」
つい最近お会いしたばかりで、こんなことを言うのも変なんですけど。ラクロワはまじめな性格のため、少し困惑した口調でそう言った。ウィルクスはうなずく。
「ええ、きっとこのひとは頑張るでしょう。腹が痛いのに、むりに笑顔を見せたりして。だから、おれ、このままでいますよ」
ラクロワはうなずいた。
「ハイドさんは正義の側に立つ人だ。きっと主のご加護がありますよ」
そう言って、パリから来た刑事は去っていった。ウィルクスは彼の言葉を胸の中で繰り返した。バルドー事件のことがふと甦る。
ベルジュラックは、このひとを強請るようなことを言っていたらしい。でも、そんなこと、できるはずがない。そんなこと、このひとには無縁だ……。
○
夜十時前にハイドは目を覚ました。
しばらくぼんやりしていたが、覗きこんでくるウィルクスの顔を見て、かすかにうめいた。
ウィルクスは病室に泊まれるように、簡易ベッドを借りてきていた。そこから腰を上げ、ハイドの顔を覗きこむ。
ハイドは目を細めて、「エド」とくぐもった声で名前を呼んだ。酸素マスクを外そうとするので、その手をウィルクスが軽く押さえる。
「つけていないと」
そう言うとハイドは眉間に皺を寄せたが、結局大人しくなった。ウィルクスを見上げ、「大丈夫だよ」と言った。
涙があふれ、ウィルクスはうなずく。彼の顔を見たままハイドがつぶやいた。
「トイレに行きたいな……」
「待っててください。おれがしますね」
「いいよ、看護師さんに頼んで。……エド」
大丈夫だからね、ともう一度言って、ハイドは目を閉じた。
ウィルクスはナースコールのボタンを押す。廊下に近づいてくる足音を聞きながら、ハイドの髪を撫でていた。
その翌日、エクス・エクスがふたたび事件を起こしたというニュースがふたりの元に届いた。
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