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27.探偵と刑事と病室・一
病室には誰もいなかった。
整えられたベッドの枕元にシドニー・C・ハイドと名前が書いてある。ベッドは整えられて、ガラスでできた彫像のように静謐だった。個室で、ベッドのそばにテーブルが置かれ、簡素な椅子が二脚並んでいた。
ベルジュラックがウィルクスを椅子に座らせる。刑事は奥の椅子に腰を下ろした。自分の足元を見ていたが、隣にベルジュラックが腰を下ろすと、目を擦って流れた涙を消そうとした。
ウィルクスはつぶやいた。
「どうして……」
そう言って胸を波打たせる。ベルジュラックは黙ってウィルクスのそばにいた。彼がどれだけ刑事として自制心を働かせようとしているのか、ベルジュラックにはよくわかった。その努力がどれだけ痛々しいものなのかも、そばにいればすぐわかる。
ベルジュラックはヴィクトル・ラクロワのことを思いだす。知り合ってから今まで、ベルジュラックはラクロワが取り乱した姿を見たことがない。いつも自制心を働かせて、ちょっと冷血に見えるほどクールだ。妻が頻繁に体調を崩し、看病が必要になったときも、少し悲しそうな目をしながらそばにいるが、いつも「またよくなるよ」と微笑みかけている。
ベルジュラックはウィルクスの横顔を見つめた。ラクロワの姿を重ね、やはり違う人だと思う。それでほっとした。鼻を赤くして、血走った目を擦っているウィルクスを見て、そっと肩に手を置いた。
跳ねのけられると思っていたが、そうはならなかった。ウィルクスは肩に手が置かれたまま顔を上げ、「どうしてですか?」とつぶやいた。
「ウィルクスさん、犯人は……」ベルジュラックは落ち着いた目でウィルクスの目を見て、はっきり言った。
「犯人は、酔いどれた男でした。初老で……あきらかに自分がなにをしたのか、はっきり意識していなかったと思う。なぜ刃物を持っていたのかはわかりませんが、道を歩くハイドさんの腹をすれちがいざまに刺したんです」
なぜ道を歩いていたんだ、とウィルクスは思った。あのひとは車を持っている。出掛けるならそれに乗ればいいのに……。
ウィルクスの疑問に答えるかのようにベルジュラックが言った。
「ぼくとハイドさんは酒を飲んでいたんです。それで、ヤードに行くのにタクシーに乗ろうという話になった。タクシーをつかまえるために歩いていた、そのあいだの出来事だったんです」
「殺意はあったのでしょうか?」
目を涙で腫らし、呆然と見つめてくるウィルクスを見ていると、ラクロワは下腹部に疼きを感じた。力が溜まりはじめたので、彼はウィルクスの肩から手を離し、自分の劣情を無視した。
「殺意はなかったと思いますよ」
ベルジュラックは優しく答える。
「医者が言ってました。力を込めて深く、ずぶりと刺したわけじゃないって。軽くだから、損傷もそれほどひどくないと言っていました。まだどうなるかわかりませんが」励ますようにウィルクスを見て言う。
「ミスター・ハイドは逞しい人です。体力もあるでしょう。だからきっと無事、手術もすみますよ」
「もし、シドが死んだら、お、おれも、し……」
ウィルクスの両手が震えていた。彼は涙を浮かべた目で食い入るようにベルジュラックを見つめている。そのとき、ベルジュラックはこの刑事を愛おしく思った。
「そんなこと、言わないで」
ささやいて、記者は指の背でウィルクスの頬を撫でた。ウィルクスはぶるっと震えたが、その手を拒まなかった。ただ一心にベルジュラックを見つめている。
記者は優しく言った。
「ミスター・ハイドはきっと大丈夫ですよ。これからも、あなたの隣で元気に生きてる。ねえ、そんなにあのひとのことが大事なんですか?」
ウィルクスはうなずいた。そうするとまた涙が垂れそうになる。彼は自分でも、どうやって止めたらいいのかわからなかった。
目元をごしごし擦って、ウィルクスはもう一度うなずく。ベルジュラックは上着のポケットからハンカチをとりだした。ウィルクスの目が服を汚す赤黒いシミに釘付けになる。すぐに目を逸らした。
ベルジュラックはハンカチでウィルクスの涙と鼻水を拭いてやった。それからもう一度指の背で彼の頬を撫でる。
「ねえ、ウィルクスさん。あのひとを守るためなら、ぼくのものになってくれますか?」
ウィルクスはうなずいた。ベルジュラックは微笑んだ。
「約束ですよ。忘れないでくださいね」
ウィルクスはまたうなずいた。呆然としている表情で、話をまともに聞いているようには見えない。しかし、彼はちゃんと聞いていた。
そしてのちのち、ベルジュラックとの約束を果たさざるをえなくなる。
病室の扉が開いて、痩せぎすの看護師が顔を出した。ウィルクスを見ると気の毒そうな顔をして言った。
「ミスター・ハイドの手術が終わりました。あなたがご家族ですか? 大丈夫、無事すみましたよ。ただ、麻酔が効いてますからしばらくはお目覚めになりません。手術室からこちらに移動してこられますが、ここでお待ちになりますか?」
はい、とウィルクスは答えた。ベルジュラックは腰を上げる。
「ぼくは事情聴取があるので失礼します。……ウィルクスさん、元気を出して。きっとすぐ、いつものあのひとに戻りますよ」
ウィルクスはうなずいた。このときには少し落ち着きを取り戻していた。腰を上げて、ベルジュラックに付き添ってくれた礼を言い、看護師に目礼した。記者が出ていくと、看護師も去ったため、その場にはウィルクスだけになった。
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