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探偵と刑事と凶行・二
ハイドは黙っていた。記者は続けた。
「ジゼルの父親は、なんらかのきっかけで娘とデリダ不倫を知ったのでしょう……」
「ベルモンド家はたしかにスキャンダルを恐れているのかもしれない。しかし、なぜ自ら金を出してデリダの無実を証明させ、彼をかばう必要があるのですか?」
ハイドはベルジュラックの目を見て静かに言った。
「ミスター・ベルジュラック、こんなことは考えるだけ無意味です」
記者は微笑んだ。穏やかな笑みだった。
「あなたは核心をごまかしていますね、ミスター・ハイド。ベルモンド家の人間がデリダに殺しを依頼したのです」
ハイドは脚を組み変えた。彼は唐突に尋ねた。
「あなたはなぜイギリスに来たのですか?」
「なぜ? 休暇です。そうお話ししましたよね。ぼくはイギリスが好きなんです。とりわけロンドンが」
「そう、あなたはそう言った。疑問なんです。あなたが本気でわたしを強請る気があるのかと」
ベルジュラックはまた微笑んだ。
「ぼくは気まぐれなんです」
「あなたがロンドンに来たのは休暇を過ごすためかもしれない。また別の理由があるのかもしれない」ハイドは言った。「しかし、わざわざわたしを強請るためではなかった。あなたに訊きたいんです。あなたはロンドンのパブで初めてウィルクスと出会った夜より前に、果たしてわたしのことを知っていたのでしょうか?」
「誤解ですよ、ミスター・ハイド」ベルジュラックが言った。「あなたはフランスでも有名な探偵なんです。だからウィルクスさんと初めて会った夜、あなたのことを話しはじめたとき、驚きました。そしてね、なんてすばらしい偶然なんだと思ったんです」
そう言ってベルジュラックは笑った。
○
午後四時過ぎ、スコットランドヤードの応接室でブルーム警部と話し合っていたヴィクトル・ラクロワは、自らのスマートフォンが鳴ったので電話に出た。ブルーム警部は席を外していた。
「もしもし? どうしたんだ?」
電話の向こうでベルジュラックが言った。
「ミスター・ハイドが刺された」
ラクロワは反射的に体を固くした。ベルジュラックはさらに言った。
「彼は病院に搬送された。ぼくがそばにいたから、そのまま付き添ってる。ヤードの刑事部に、ミスター・ハイドの結婚相手のウィルクス刑事がいる。彼に知らせてもらいたい」
わかった、と言うとラクロワは電話を切った。扉を開けて廊下に出る。ブルーム警部を待つべきか? 躊躇したのは一瞬だった。ラクロワは何度も前を通った受付のカウンター目指して、駆けるように歩きはじめた。
○
刑事部のオフィスで、自分の机で仕事をしていたウィルクスは同僚のトルーマンに呼びかけられた。彼はウィルクスを激しく手招きした。ウィルクスが扉の前に行くとトルーマンは去った。
ウィルクスはヴィクトル・ラクロワと顔を合わせた。
ラクロワはウィルクスよりも背が低かったが、堂々とした立ち姿で目立っていた。灰色の鋭い双眸に見つめられ、ウィルクスは心揺らぐものを感じた。ラクロワは彼ほど美男ではないが、颯爽とした姿のため、とても精悍に見える。いつも落ち着きを失わそうなその顔が今は険しかった。
ラクロワはウィルクスを扉から少し離れたところに連れていき、言った。
「ミスター・ウィルクスですか? ベルジュラックから電話がありました。ミスター・ハイドが刺されたそうです」
「え……」
ウィルクスはつぶやいたあと、呆然となった。ラクロワが彼を支えようと腕を伸ばしたが、その必要はないことがわかった。ウィルクスは黙って立っていたが、ややあって繰り返した。
「刺された?」
「ええ。詳しいことはわからないんですが、ベルジュラックが付き添っています。いっしょに病院に行きましょう」
ウィルクスはうなずいた。焦げ茶色の瞳から生気が抜け落ちていたが、足取りはしっかりしていた。
話を聞きつけたウィルクスの上官の指示で、二人はパトロールに出るパトカーに同乗させてもらい、病院へたどり着いた。
○
病院ではベルジュラックが待っていた。彼のジャケットの、ポケットがあるあたりが赤黒く汚れていた。ハイドを助け起こしたとき、血がついたのだという。
「ヴィクトル、ありがとう。ウィルクスさん、ミスター・ハイドは今、手術室に入っています。そこまでひどく刺されたわけじゃないそうです。きっと無事済みますよ」
ウィルクスはなにも言わなかった。看護師に案内された、ハイドの病室となる予定の個室の前で、白い明かりの中たたずんでいた。
「おれは戻るよ、ジャン」ラクロワが遠慮がちに言った。「なにもできないだろうから」
ベルジュラックがうなずくと、パリから来た刑事は背中を向けてその場を離れた。
沈黙が落ちた。
「座りませんか、ウィルクスさん」ベルジュラックが言った。
「病室の中に入りませんか? 椅子があると思うから」
ウィルクスは答えなかった。ベルジュラックの顔を凝視して、言った。
「あなたが刺したのか?」
「ウィルクスさん、ぼくは……」
「あなたが刺したんだな」
ウィルクスの両目から涙が溢れ、ぼろぼろとこぼれた。あなたが、というウィルクスの声は震えていたが、しゃがみこむようなことはなかった。ただベルジュラックの顔を見つめていた。
「ウィルクスさん、落ち着いてください」
ベルジュラックは狼狽して、ウィルクスの肩をつかもうとしたが、その手を下ろした。
「ミスター・ハイドを刺した男は逮捕されました」
「え?」
呆然とするウィルクスの肩を、ベルジュラックは今度は優しくつかんだ。
「刺したあと、逃げたのですが、居合わせた通行人が追いかけて。それに、巡査も飛んできましてね。逮捕されましたよ」
ウィルクスはなにも言わなかった。ただ涙を流しながらベルジュラックを見つめていた。彼はウィルクスの肩に乗せた手に力を込めた。
「さあ、ウィルクスさん」ベルジュラックは病室の扉を開けた。
「少し落ち着きましょう」
ウィルクスは誘われるように中に入った。
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