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34.探偵と刑事と籠絡・一△
午前八時四十分過ぎ。いったんヤードに帰ったストライカー警部はブルーム警部、そして若い制服警官を伴ってハイドの病室に戻ってきた。ブルーム警部の牡牛のようにいかつい顔は、今は顔色が冴えない。写真を二枚持っていて、それをベッドのハイドに渡した。
「見てください、ハイドさん。ウィルクスから連絡が来ました」
ハイドは写真をきつくつかみ、覗きこんだ。
一枚はなんの変哲もない白い封筒を写したものだ。表面に「スコットランドヤード気付、ミスター・ハイドへ」と黒いインクで書かれている。二枚目は白いコピー用紙を写したもの。封筒に入っていたものを広げたため、折り畳んだ皺がついている。そこには、こんな文句が書かれていた。
「おれは大丈夫です。心配しないでください。エドワード・ウィルクス」
「エド、字が震えてる」
写真を見つめてハイドがつぶやいた。ストライカーが覗きこんで尋ねる。
「ウィルクスの字だと思うが、どう思う? ミスター・ハイド」
「たしかに彼の字だと思います。どこでこれを?」
「そのまえに」ブルーム警部がこめかみを掻きながら言った。
「ハイドさん、あなたに鍵をあずかって自宅を開け、捜索しましたが、ウィルクスの居所の手掛かりになるようなものは見つかりませんでした。ただ、玄関に彼のスマートフォンが落ちていた。それは現在、警察があずかっています。それから、引きずったような靴の跡があった。しかし、玄関から先はその跡が見つけられない。おそらく、ウィルクスは殴られるかなにかして、意識を失い、車に運びこまれたんでしょう。今、あなたたちの自宅付近で、不審な車の目撃情報がないか洗っています」
ハイドはうなずいた。
「ぼくがエドとの電話を切ったのは昨晩の午後九時半ごろ。ふたたび電話したのは今朝の六時半くらいです。それまで、彼に連絡した人間は?」
「いないと思います。少なくとも、ヤードの人間では誰も。ウィルクスのスマートフォンを確認したとき、ロック画面に着信の履歴がありました。三件ともすべてハイドさん、あなたからのものだった」
「ということは、いなくなった時間ははっきりとはわからないのですね?」
ブルーム警部はうなずいた。それから、自分の巨体の陰に隠れるように立っている警官のほうを振り向いた。
「マグレガー、話してみろ」
若い制服警官は緊張していたが、ハイドの表情を見て少し落ち着いた。発見者というだけで、理不尽な怒りや恨みを買うことがある。ハイドは、そんなことはしなさそうだ。マグレガーは話しはじめた。
「わたしが今朝八時ごろパトロールをしていると、七歳くらいの男の子が近づいてきまして、さきほど写真でお見せした封筒を渡してきました。どうしたのかと聞くと、渡してくれと頼まれたと言うんです。封筒はしっかり封がしてありました。わたしは悪戯かと思いましたが、ミスター・ハイドのお名前にかすかな記憶があって。あとで振り返って、男に刺された私立探偵の方だったと思いだしました。そのときはそこまで思いださなかった。男の子に名前と住所と連絡先を訊き、帰しました。それから、上官に相談しました。上官はミスター・ハイドのことを知っていて、ヤードの刑事部に連絡をとってくれました。そして、ミスター・ハイドが入院していること、ウィルクス刑事が行方不明のことを聞かされたんです。そこで封筒を開封してみると、手紙が出てきました」
マグレガーは唾液を飲みこんだ。
「それからは、ブルーム警部にことの次第をお伝えし手紙をお渡ししました。そして、手紙を持ってきてくれた男の子に連絡をとりました。彼は学校に行っていましたが、同居している叔母が電話に出て。ちゃんとした家庭の少年で、家族にも前科者はいない。学校まで行って男の子に確認したんですが、彼は手紙を警官に渡してほしいと見知らぬ男から頼まれたそうです。男はブロンドで、眼鏡は掛けておらず、中肉中背、薄い青っぽいシャツを着ていたそうですが、ほかに情報はなにも。で、おかしいと思ったんです。イギリスでは、子どもは十一歳までは、通学のとき保護者同伴が義務でしょう? それなのに一人で歩いているなんて。親は勤めが忙しくて、叔母もそのとき病気で寝込んでいたそうなんですね。それで一人で学校に向かっていたようなんです。誘拐されたらどうするんだと言って厳重注意しておきました。……話が逸れましたが、そういうわけです」
ハイドは黙って話を聞いていたが、静かに尋ねた。
「その子が使者に選ばれたのは、偶然なのか、それとも必然だと思うかな? もし、偶然の場合、その子はたまたま手紙を持った男の前を通りかかって目をつけられたことになる。そういう子どもがいると思って手紙を用意していたのか? それとも、最初は自分で持っていくか、別の人間に頼むかする予定だったのかな?」
マグレガーはにわかに緊張した。試されているような気がしたからだ。ハイドは落ち着いているが、鋭いその相貌はまるで狼だ。警官は首を横に振った。
「すみません、わたしにはわかりません。ただ、子どもに託すつもりではなく別の手段を用意していた気がします。その男の子が一人きりで学校に通ったのは、これが初めてだった。彼に目をつけたのは偶然だったのではないか、としか申し上げられません」
「わかったよ、ありがとう」
マグレガーはうなずいて後方に下がった。明らかにほっとした顔をしていた。
「ウィルクスは生きていることがわかった」ストライカーが無表情で言った。
「だが、今後連絡は途絶えるかもしれないな。この手は一度しか使えない。今後は全警官が警戒してるからな。あとは、電話でも掛かってくればいいが……」
「身代金の要求などはないのですか?」
ハイドの質問に、ストライカーは首を横に振る。
「今のところ、なにも。この手紙だけだ」
「これじゃあ、本当に無事なのかもわからない」ハイドは虚空を見つめてつぶやいた。「もし、酷い目にあっていたら……」
ストライカーがハイドの顔を覗きこむ。探偵は視線を伏せた。警官の前では口に出すまいと思ったのは、ハイドが本気だからだ。「もし酷い目にあわせていたら、あがなってもらう」。彼は唇を結んだまま、狼のような顔で二人の警部を見上げた。刑事たちの目は暗かった。
「そうだ、あと一つ」ストライカーが身を乗りだす。
「ベルジュラックに動きがあった。今朝の飛行機でパリを出て、ロンドンに向かっている。だが、奴には刑事を二人つけてある。オコナ―とバッシントン。ベテランの刑事たちだ。だから安心していい」
そうですね、とハイドはつぶやいた。
○
午前九時過ぎ。相変わらず、電灯で白々と明るい部屋の狭いソファの上で、ウィルクスは脚を開いていた。足元には脱いだ靴とスーツのパンツがぐしゃぐしゃになって落ちている。股を開いて、右足の足首に脱いだボクサーパンツがぼろ切れのように引っかかっていた。
彼は緩めたタイをぶら下げたまま、ワイシャツのボタンを外し、アンダーシャツを胸の上までたくし上げていた。両手の指で両方の乳首を刺激しながら、性器を弄られてぼろぼろ泣いていた。
ラルフの手は優しくももの足りなくて、ウィルクスは狂ったように求めてしまう。どうして、最初はあんなにしてくれたのに、と思うと耐えられない。ラルフが緩やかに手を上下させるたび、すがりつきそうになる。
三度目だった。
最初にラルフの手で射精したとき、ウィルクスはもうこんなことは二度としないと決意した。食事をしなよと誘われて、連絡をとらせてやるからと言われ、むりやりパンとシチューをコーヒーで飲み下した。好きでもない、見知らぬ男の手で射精してしまったことがあまりにもショックで、つらかったが、彼は気を持ち直そうとした。
忘れるんだ。さっきは、我慢できずにしてしまった。でも、すっきりしたんだから。もう大丈夫。それに、結局はこれでよかった。後ろまで許してしまうことはなくなったんだから……。
それなのに、ウィルクスは食事が終わりかけるころにはもう欲情していた。それに気がついて、ショックだった。食べたものを戻しそうになる。だが、事実だった。下腹部が反応し、下着を押しあげていることが自分でもわかる。手のひらが汗ばみ、反対に背中や脇には冷や汗がにじんだ。心臓が張り裂けそうなほど激しく打つ。
またしてほしい。そのことしか考えられなかった。
なんとか食事を食べ終えると、扉を開けてラルフが部屋に入ってきた。そのとき、ウィルクスの視線がちょうどラルフの脚のあいだに来た。男の股間を舐めるような目で見てしまう。ウィルクスは目を伏せた。涙が溜まる。必死でぬぐった。男は泣かないものだ。ふだんは頑なに思っているので、よけいに惨めで、情けなく、自分が許せなかった。
そうやって自分を追いこんでいくたび、彼は激しく飢えていく。
ラルフは片手にペンとコピー用紙と封筒を持っていた。ウィルクスも、欲情に乱されてはいたが、刑事の目でそれらを確認した。どこの文具店にも置かれている、ありふれた品だった。ラルフはそれらを食器の載ったトレイの横に置くと、「手紙を書きな。なんでもいいから」と言った。
ウィルクスは思いつかなかった。夫のことばかり考える。コピー用紙に向かってペンを手に取った瞬間、会いたいと書きそうになった。抱いてほしいと書きたかったが、ハイドの顔を思い浮かべると、さっき自分がしたことを思いだして耐えられなかった。なんとか冷静になろうとする。こういうとき、なんとか手がかりを残すべきだ。例えばあの人と自分しか知らない言葉で。そう思うが、しかし、思いつかない。
結局「おれは大丈夫です。心配しないでください」としか書けなかった。そう書けば、ハイドが安心すると思ったのだ。字は震えた。それは恐怖よりも、欲情に耐える苦痛から来たものだった。
手紙を書き終えると、ウィルクスはラルフに指示されて手紙を封筒に入れ、「スコットランドヤード気付、ミスター・ハイドへ」と書いた。ラルフは手紙を持つと後ずさり、ウィルクスに拳銃で狙いをつけたまま扉の外へ消えた。
ウィルクスは腕時計を見た。とっくに登庁予定の七時を過ぎている。刑事たちは自分がいないことを知って、動きだしただろう。誘拐された自宅にどれだけ痕跡が残っているのかはわからないが、彼らはなにか見つけてくれるだろうか。
おれはいつ帰れるんだろう。いや、帰ろうという努力をしなければ。
生真面目で自分に厳しいウィルクスは、このときもそう思った。いっそ、撃たれるのを覚悟で体当たりしてみたら。そう思う。しかし、彼の中の冷静で皮肉なもう一人がこう言っていた。
「崇高な覚悟じゃないか。だが、お前は興奮してる。 ヤりたいんだろう? 浅ましいな」
自分自身に嘲笑され、ウィルクスはますます自分を追いこんだ。それに伴い、欲情が激しく燃え盛る。彼は床の上にしゃがみこんで体を丸めた。
意外と早い時間でラルフが戻ってきた。単独犯じゃない、とウィルクスは確信する。誰かほかにも仲間がいて、手紙を持っていったに違いない。それならますます、逃走は難しくなる。
でも、おれは努力すらしていない。それどころか、興奮してるじゃないか。
ラルフは床にしゃがみこんでいるウィルクスを見ると驚いた顔をして、ソファに顎をしゃくった。
「座りなよ、ミスター・ウィルクス。ちょっと休みな」
ウィルクスはのろのろと立ちあがり、言われたとおりにソファに腰を下ろした。もう、ラルフが拳銃を持っていることに対してほとんどなんとも思わなくなっていた。ソファの前に椅子を引っぱってきて腰を下ろし、ラルフが言った。
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