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探偵と刑事と籠絡・二△

「ミスター・ハイドっていうのは、あんたの旦那なんだね?」  ウィルクスはかすかな笑みを唇に浮かべた。大好きなシド。思わず唇の端が震える。うなずくと、ラルフはどこか興味津々といった顔をした。 「有名な私立探偵だ。あんたと結婚してたとは。きっと、大事にされてるんだろう?」  ウィルクスはまたうなずいた。胸が苦しく、脚のあいだは痛みを覚えるほど昂ぶっている。ラルフは穏やかに言った。 「愛され過ぎて、淫乱になったのか?」  ウィルクスは言葉を失った。「ちがう」とつぶやく。答えたくないのに、言葉が流れ出た。 「お、おれ……は、う、生まれつき……」 「生まれつき淫乱なのか?」 「う……、ご、ごめんなさ……」 「そんなに思い悩むなよ。でも、しんどそうだな」  そうなんです、とウィルクスは胸の中で泣いた。自制しようとすればするほど、鎧に致命的なヒビが入る。動悸が激しくなり、ウィルクスはもうどうなってもいいと思った。爆発的なその思いに圧倒され、感情が流れ出していた。 「た、助けて……っ」  思わずすがると、男はかすかに笑った。 「いいよ、兄さん」  それから、ウィルクスはラルフの手にすがった。ソファに座った状態で、ラルフの手で射精させてもらう。三十分のあいだを置いて、これが彼の手に身をゆだねる三度目。二度目が終わったとき、ウィルクスはこれで大丈夫だと思った。しかし、そうではなかった。肉体の飢えはあまりにも根が深かった。満たされるはずなのにそうならず、かえって貪欲になる。空虚でたまらない。  寂しい、と二度目が終わったあと、下半身は剥きだしのままソファにうずくまってウィルクスは思った。シドに抱きしめてほしい。大きな手で頭を撫でてもらいたい。もう大丈夫だよって言ってほしい。  それでも、満たされない。ウィルクスは今までの経験でそれを知っていた。  三度目。  今、ウィルクスは自分で胸の突起を弄りながら、性器を触られて、そのもどかしさに焦れていた。もっと激しく、いやらしく触ってほしい。そう思い、思わず腰を浮かせて、手にはち切れそうなほど勃起した分身を擦りつけていた。  ラルフの手がぎゅっとウィルクスのペニスを握る。親指がぐっと裏筋を押しあげた。 「あ……っ」  ウィルクスは身悶え、唇にだらしない薄ら笑いが浮かぶ。彼は淫らな快楽に耽っているとき、笑ってしまう癖があった。うっとりして、さらに脚を開く。  しかし、ラルフの手は止まった。性器から手を離し、ウィルクスの虚ろな目を覗きこむ。彼は乳首を弄りながら、すがるような目で男を見上げた。目じりから涙が流れる。「うっ……」と口から嗚咽が漏れた。乳首を刺激しながら胸を上下させていると、ラルフがささやいた。 「どうされたいか、言ってみな」  ウィルクスの顔が歪む。屈辱と羞恥で苦しい。それでも、自分を抑えることはできなかった。腰を浮かせた格好のまま、誘うように上下に振る。そそり勃ち、裏側を見せた性器がぴょこぴょこと揺れた。彼は朦朧とした目で男を見上げ、「もっと」とすがった。 「も、もっと、し、して……っ」 「なにを? どういうふうに?」 「も、も、もっと、ち、ちんこ、触って、扱いて」 「淫乱だな、兄さんは」  ウィルクスはがくがく首を振ってうなずいた。手が再び性器を包むと、ウィルクスの目がどろりと蕩ける。 「あ、あう、うあ……」  ぎゅっと握られ、優しくも力強く責められ、ウィルクスは蕩けた。思わず、「犯してくれ」と口走りそうになった。「中も」と。しかし、それを言うことはなかった。  スマートフォンのレンズがウィルクスを見ていた。  彼は反射的に顔を隠したが、ラルフに手首をつかんで引きずり下ろされる。レンズの前で、ウィルクスは涙と涎れでぐちゃぐちゃになった顔と、そそり勃ち、糸を引いた性器を晒していた。全身がかっと真っ赤になり、「撮るな」と弱々しく叫ぶ。  レンズを向けられていたのは一瞬だったが、ウィルクスのすべてが写真に記録されていた。ラルフはまた拳銃を持ち直した。  おれの人生はこれで終った。ウィルクスは本気でそう思った。そしてなにより彼を絶望させたのは、これでシドに捨てられるということだった。絶望に貫かれ、涙さえ出てこない。  それなのに、彼は未だに張り裂けそうなくらい昂ぶっていた。  ラルフが部屋からいなくなると、ウィルクスはしばらく呆然としていたが、震える手を自分の股間に伸ばした。ラルフが帰ってくる前にヌかなければ。そう思って焦る。自分自身をぎゅっと握ると、目の奥が熱で蕩けそうになった。手のひらが先走りでどろどろになる。それでも、二回扱くと手を離してしまう。彼はラルフを待っていた。  そのとき、扉が開いて足音が近づいていた。ウィルクスは仰向けになってちらっとそちらに視線をやる。そして、凍りついた。  ベルジュラックがいた。  彼は引き締まった、厳しい顔つきでウィルクスに歩み寄ると、ソファに寝そべる彼を見下ろした。黒々した瞳と目が合う。 「ウィルクスさん、大丈夫ですか?」  ウィルクスは答えられなかった。なぜかひどく懐かしい気がして、心のどこかが緩み、抑えていたものが溢れ出た。彼は涙をこらえ、「ベルジュラックさん」とつぶやいた。ほとんどすがりつくようだった。ベルジュラックはのしかかるように身を乗りだして、さささいた。 「大丈夫……ではないのかな。苦しそうだ」  人差し指の背が赤く染まったウィルクスの頬骨を撫でた。彼はぶるっと大きく震えて、虚ろな目でベルジュラックを見上げた。口の端から唾液が垂れる。口をぱくぱく開けて、しかし声にならず、息を漏らした。  出したい。燃える肉体と、欲情で圧迫された頭で思う。助けてほしかった。いや、それよりも中に……。  それでも、ウィルクスは耐えようとした。ベルジュラックに弱みを見せるわけにはいかない。ラルフに写真を撮られてしまったんだ。もう、これ以上は……。  しかし、ウィルクスは追い詰められていた。男という性に生まれたことと、元々の性欲の強さと、病的になってしまった淫乱な気質が合わさって、彼を欲情の暗黒へと叩き落した。淵に立たされ、もう取り返しがつかなかった。 「ベ……」ウィルクスはもごもご口を動かした。ベルジュラックの目を見つめる。 「ベ、ベルジュラックさん、お、お、おれ……っ……」  ベルジュラックはウィルクスのそばにしゃがみこみ、顔を覗きこんで、優しかった。ウィルクスの膝がしらが跳ねる。ベルジュラックは静かにささやいた。 「写真のことは、ぼくに任せて」  ウィルクスの顔から血の気が引く。思わず目の前の男の顔を凝視した。なんで知ってるんだ? ウィルクスの体が震える。やはり、ラルフはベルジュラックの指示でおれを誘拐したんだ。それがわかってどこか安心した。しかし、写真がいちばんまずい人間の手に渡ってしまったと思う。この男はおれを脅すだろう。 「大丈夫ですよ、ウィルクスさん。悪いようにはしない」  ベルジュラックはささやいて、感情の読めない黒い目でウィルクスを見下ろした。手を伸ばし、ウィルクスのそそり勃っている分身をそっと握る。快感が駆け抜け、ウィルクスの背が反った。ベルジュラックの手がゆっくり上下に動くと、ウィルクスの目はどろりとなって上を向く。 「助けてあげましょうか?」  そう言って顔を覗きこんでくるベルジュラックを見て、ウィルクスは彼がなんの武器も持っていないのを目にした。振り払える。我慢して、下着を上げて、パンツを履いて……。  ノーと言うんだ。そう思った。しかし、ウィルクスにはできなかった。  ベルジュラックの目を見つめる。柔らかく包んだ手がゆっくり上下に動くと、ウィルクスはうなずいていた。 「助けてほしいの?」  目を見つめたままベルジュラックがささやくと、ウィルクスはもう一度うなずく。 「言って」  ベルジュラックがささやいた。ウィルクスは言えない。しかし、性器を包んでいた手が離れたのでひどく焦った。結局、両手をぎゅっと握ったままでベルジュラックを見上げ、言った。 「た、たすけて」 「なにを?」 「し、し、して、してほしい……っ」 「どんなふうに?」  ウィルクスの顔が病的に赤く染まる。赤い色は首筋にまで広がった。過呼吸に近い呼吸になりながら、胸を上下させ、言った。 「ち、ち、ちんこ、さ、触って……っ」 「それだけでいいんですか?」  ウィルクスの表情が壊れていく。ベルジュラックは舐めるように見た。愛おしさが胸に広がる。 「ねえウィルクスさん、それだけでいいの?」  ウィルクスは堕ちた。 「だ……抱いて……っ」  消え入りそうな声ですがると、いいですよ、とベルジュラックはささやいた。ウィルクスの目を見つめ、微笑んで、彼の唇を塞いだ。 「ん……っ」  ウィルクスは息ができなくなり、ベルジュラックのシャツの胸元を掴む。舌がもぐりこんでくる。  この人はキスが巧いんだった。朦朧とする意識でそれを思いだし、ウィルクスは安心感を覚えた。期待に震えた。 ○ 「ベルジュラックの行方がわからなくなった」  ブルーム警部からの電話に、ハイドの病室にいたストライカーは眉を吊り上げた。 「ちょっと待て、尾行をつけてるんだろう? 刑事を二人」 「入れ替わってるんだ。背格好のよく似た男と」 「なんてこった。偶然か?」 「わからない。だが、オコナ―は臭いと思ったらしいな。その入れ替わっていた男を尾行した。男は一般的な旅行者らしく、現在はロンドン・ヒースロー空港から出て、近くのカフェで呑気にお茶してたよ。職務質問してみたが、怪しい点はない。今のところは」 「どこで入れ替わったんだろうな?」 「わからんよ。なにせ、ほんとにそっくりなんだよ。服も似たかんじだ。だが、ベルジュラックの差し金かどうかはわからない」  ブルームの声は、スマートフォンがスピーカーになっていたため、ハイドにも聞こえていた。ストライカーは振り向いて尋ねた。 「どう思う?」 「おそらく、ベルジュラックの差し金でしょう。ですが、証拠を出せと言われたら、今のところはなにもない」 「勘も役に立つさ」 「ぼくにはまだ確信が持てないんです」掛布の端を握って、ハイドがつぶやいた。 「ベルジュラックがエドに手荒なことをするのか。彼の意思を無視するのか、それとも、そんなことはしないのか」  ストライカーの表情が重苦しく変わる。ハイドは心の中で思った。  ただ、わかっていることがある。エドはたぶん、我慢ができない。  そう思った瞬間、ハイドの中にどす黒い炎が渦巻いた。 「通常の捜査を続けるしかないですね」彼は言った。「あとは、連絡を待つ。ベルジュラックと入れ替わっていた男の見張りを続ける」 「待てるのか?」  待ちますよ、とハイドは答えた。彼はベッドのヘッドボードに背中を押しつけて、つぶやいた。 「少し休ませてください。気分が悪くなりました」  ストライカーはうなずいて、スマートフォンを手に病室を出ていった。ハイドはベッドの中でつぶやいた。 「エド」  思いだしたのは彼の笑顔よりも、ベッドで追いあげられて、どろどろになっている顔だった。

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